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03:新しい日々

 森に、朝が来る。

 しんと静まり返った樹々の中で、シトシトと朝露が垂れる音が響き、次第に小鳥や獣の鳴き声がこだまするようになる。

 夜中に歩き回っていた者たちが息を潜めるのと交代するように、昼間に生きる者たちが活動を始める時間が、訪れていた。


 ぱちりと、淡い光を感じた少女・シェラは瞼を開ける。

 これまで経験がないほどスッキリとした頭で、そして満足感を得た状態で、シェラの脳が徐々に覚醒していく。全身のだるさも空腹による痛みもない、全身に巻きついていた重い枷から解き放たれたかのような気分だった。


「……んにゅぅ…」


 隣で寝息を立てているアザミに目をやり、戸惑いの表情を浮かべる。

「眠るまで一緒にいてあげる」といって布団の中で抱き吐き、シェラよりも先に寝息を立て始めたことが思い出され、シェラは気の抜けた寝顔をまじまじと見つめる。

 怒りも憎しみもない、心の底から少女を案じるその姿に、少女はただ困惑するばかりだった。


「……シェラ〜、お姉ちゃんが……ついてるぞぉ…」


 涎を垂らし、きつく腕の中にある存在を抱きしめる黒髪の少女。

 少し息苦しさを覚えるが、それ以上に柔らかく暖かい感触に包まれ、シェラは目を細め、しかしすぐに切なそうに俯き出す。

 やがてシェラは、自身に彼女の腕の中から、起こさないように注意しながらそろそろと抜け出した。


「…あり、がとぅ」


 小さく呟いてから、足音を立てぬよう、ゆっくりと出入り口に向かって進む。

 足元に転がっている小瓶や布に細心の注意を払い、以前よりもしっかりとした足取りで、シェラは歩き。


 半開きになっていた扉を開けて、静かに外へと出ていった。




 昨日の記憶をたどり、廊下を進未最初の部屋にたどり着くシェラ。

 本が積み重なっていたそこは、昨日と同じくつんと鼻につく匂いが漂い、窓から入ってくる光に照らされている。暖炉の火は消され、肌を刺すような冷たさに包まれる。

 シェラはぎゅっと唇を噛み締めると、名残惜しそうにアザミが眠る部屋を振り向きかけ、すぐに諦めたように前に向き直る。

 少しの間、逡巡するような素振りを見せていた彼女が、意を決したように一歩を踏み出しかけた時だった。


「どこへいく」


 ほんの山の向こう側から轟く、感情の一切が消えた低い声に、シェラはビクッと全身を震わせて立ち止まる。

 悲鳴を押し殺し、声が聞こえた方に振り向いたシェラは、見下ろしてくる黒い装いの大男ーーー牛の仮面を被った師の姿に、ヒュッと息を呑んだ。


「あれはお前を引き取るつもりで接していたようだが……お前にはそのつもりはないようだな。今一度聞くが、どこへいく」

「……ぁ、ぅ」


 師の声に、責めるような響きは何もない。しかし見上げるほどの巨躯に、悍ましさを感じる血のような赤い目に睨まれ、シェラはすっかり縮こまり、その場に立ち尽くしてしまう。

 師は少女を見下ろしたままゆっくりと近づき、目前にまで迫る。カタカタと身を震わせる少女の前に立つと、ゆっくりとしゃがみこみ視線を合わせた。


「…優しくされることが怖いか。何も求められないことが怖いか―――それとも己が怖いか。いずれにせよ、あのお人好しにお前を騙す意思などあろうはずもない、お前の怯えは、見当違いというものだ」


 顔を覗き込み、真っ直ぐに視線を合わせてくる師に、シェラは怯えた表情を見せるが、深い穴の底を思わせる師の仮面の目を前に、目を逸らすことができない。

 しばらくの間黙り込んでいた彼女は、指先を擦り合わせながら、訥々と語り始めた。


「……おとぉさんに、ころされる」

「お前の父にか。ここにはいないぞ」

「でも……まぇにもにげた。でも…つかまって、すごくなぐられた。いたくて……こわかった」

「お前の父はここを知らぬ。探しにくることなどできようはずもない」


 呆れた調子を声に乗せ、師がシェラに聞かせるが、シェラはプルプルと必死に首を横に振る。

 暖かい家に、代償など求めない優しい気持ちに囲まれてなお、少女の心と体に刻まれた恐怖は消えていなかった。理不尽な怒りからもたらされる痛みが、罵倒と直結し、少女を縛り付けているようだった。


「みつ、かった、ら……みんな、ころ、される。シェラ、のせいで……みんな、ころされる…!」

「……だから、出ていくと」

「なぐ、られるのは、シェラ……がわるぃ、から。だから……」


 ぼろぼろと、シェラの目からいくつも雫がこぼれ落ちていく。

 昨日のような、胸が暖かくなって溢れ出した涙ではない。痛みで溢れる涙でもない。いつかくるかもしれない痛みと苦しみを想像し、胸の奥が引き絞られるような感覚に襲われ、勝手に流れ出してしまう。


「ゃ、だ……いたぃの、ゃだ…! アザミがなぐられるの、ころされるの……ゃだ…!」


 我が身をきつく抱きしめ、自身の震えを抑え込もうとするかのようにしゃがみ込むシェラ。自分の体の痛みよりも、自分に温もりをくれたものが傷つけられることを恐れ、泣きじゃくる。

 師はその姿をじっと見下ろし、一言もかけないまま、少女の啜り泣く声だけが部屋に響き渡る。

 窓の外の陽光が徐々に昇り、明るさが強くなってきたころ、徐に師の手が真横に伸ばされた。


「見ていろ、シェラ」


 不意に、有無を言わさぬ厳しい口調で告げられ、俯いていたシェラが視線を向ける。

 師は伸ばした右手を暖炉の方に向け、親指と中指の腹を合わせる。戸惑いの視線を受けるシェラの目の前で、鎧に包まれた指同士が擦れ、耳障りな金属音があたりに響く。

 すると次の瞬間、暖炉に残っていた薪木の燃え滓から、ボッと火の手が上がった。


「ひぅ!?」

「……あれも似たようなことができる。いや、あれよりもっと強烈なものができる。それこそ、人間一人確実に潰せるような芸当がな」


 いきなり火が燃え上がったことで、小さく悲鳴をあげて尻餅をつくシェラに、師が淡々と語る。

 涙が途切れたシェラは、煌々と燃える火と師の手を交互に凝視し、黙り込む。何が起こったのか、何をしたのか全く理解できないまま、夢でも見ているかのような心地で、平然としている師を見上げた。


「お前の父に、こんなことができるか?」


 問いかける師に、シェラはブルブルと首を横に振る。

 師は徐に立ち上がると、燃える火にさらに薪を追加し、一定の勢いになる様に調節を始める。暖炉の上部から吊り下がるフックに鍋の取手をかけ、水を注ぎ込みながら、師はまた声を発する。


「少なくとも、ここに居てあれと共に居れば、お前の父と遭遇しても相手にはなるまい。お前には見せぬ様にしていたが、お前の父親に対して憤りを持っていたくらいだ。喜んで潰しにかかるだろう」

「……おとぉさん、つぶされちゃぅの?」

「…言っておくがな、シェラよ」


 自分に折檻しにきた父が、反対に害されてしまうことを案じたシェラが、不安げに師に尋ねる。

 師は気泡が沸き立ち始めた鍋から目を逸らし、シェラに視線を移す。相も変わらず悍ましく、化け物じみた赤い眼光は、なんとなくシェラに呆れている様に見えた。

 師は暖炉の前から移動し、シェラの目の前に来るとしゃがみ込み、顔を覗き込んだ。


「お前が父と呼んでいるものは、父ではない。その者には、親を名乗る資格がない」

「え……」

「その男がお前を責めたとしても、お前が自らを責める必要はない……それはその男の戯言に過ぎん」


 今現在のシェラの心境の全てを否定する様な言葉に、シェラは思わず呆気に取られた様子で師を見つめる。

 生まれた時からそばにいて、絶対的上位に位置していた者が親ではないと言われ、少女は混乱したままその場で立ち尽くす。


「なん、で…おとぉさん、は…おとぉさんで……」

「血の繋がりがあるだけだ。生物としての根本的な摂理を全うできぬ者に、その当たり前は通用しない」

「ほん、のぅ…?」

「生物が誕生した時から、自ら学ぶ前に覚えていることだ」


 初めて聞く単語、父が口にしたのを聞いたことがないそれに、シェラは不思議そうに首を傾げる。

 師の言葉は難しいが、仮面の奥から真っ直ぐに見つめてくる赤い目に、一切を聞き逃すことが憚られる。聞いて必ず覚えろと、言葉にしないまま命じられている様な気分だ。

 師は小さく頷くと、身じろぎ一つせずに、さらに静かに言葉を重ねた。


「生物が子を成すのは、種を存続させる為。他者を害する事を禁じているのも同じ事……故に子を為せぬ弱き雌雄は群れを追い出され、種を害しかねない存在は排斥される……それを全うできぬその男は、そこらの獣畜生にも劣る低俗な愚者ということだ」

「ぐしゃ……」

「どうしようもない馬鹿者だということだ」


 ふつふつと、火にかけた鍋が音を立てた頃合いに、詩が立ち上がって暖炉の方に移動する。

 呆けたまま立ち尽くすシェラを置き、湯だった鍋の中にパラパラと不思議な色合いの木の葉を入れていく師。奇妙な匂いが立ち込めるそれをかき混ぜ、師は続けてシェラに語りかける。


「逆に、自ら不利益を被る事を分かっていながら、血の繋がりもない存在を守ろうとする阿呆もいるがな……それを素直に受け止めるか、裏があると疑うかはお前次第だ」

「シェラが……?」

「少なくとも、信用はしているのだろう。己がやった名を名乗るぐらいならな」


 師に指摘され、シェラは思わず目を見開く。言われるまで気づかなかった自分の変化に、愕然となる。

 そして同時に、不思議な気持ちになる。父だけしかいなかったあの家では、名前というこの魔法の言葉は何も意味がなかった。

 父と自分しかいない世界が、途端にガラガラと崩れ落ち、見たことのない景色が広がった気がした。


「それでもあれのそばにいることが苦痛なら、行くがいい。拾ったのはあれで、己はそれを見届けるのみ。止めはしない」

「……」


 死はもう、背を向けたままシェラに顔を見せようとはしなかった。黙々と鍋をかき混ぜ、葉や茎や根を細かく刻んだ何かを放り込む作業に没頭している。

 引き止める者は誰もいない。アザミが目を覚さないうちにこの家を出れば、最初に望んだ通りに誰にも迷惑をかけることなく、父のいる場所に戻れる。

 理不尽な暴力と罵倒を浴びせかけられる、地獄に。


「……かぇ、る」


 朝の光を注ぎ込んでくる、師の家の扉。鍵などなく、容易に開けられる簡素な扉がそこにある。

 あと一歩踏み出せば、取手に手が届いてシェラの細腕でも簡単に開けられる。ここまでずっとアザミに背負われ、道は覚えていなくとも、歩き続け得ていればいつかはあそこに辿り着くかもしれない。

 何より、自分がいなくなることで、この家の者達に父がひどい事をすることはなくなるだろう。

 これでいいのだ。何も迷うことはない。


 そう思っていたのに、シェラの手はそれ以上動かなかった。

 取手に手をかけ、引き開けるだけで道が開けるのに、シェラの体は全く動いてくれなかった。まるで、心が先に進む事を拒んでいるかのように。


「……ゃ、だ」


 手を伸ばしたまま、ブルブルと肩を震わせるシェラの口から、途切れそうな声が漏れる。

 少女の胸の内に広がるのは、全身を突き刺さんばかりの冷たさと、ガリガリと空洞を掘られているかのような感覚。アザミに抱きしめられていた時とは真逆の、今すぐに抜け出したい嫌な感覚だった。


「かぇり、たく……なぃ……ぃき、たく…なぃ……」


 ぺたん、とシェラの足から力が抜け、その場に座り込んで動けなくなる。

 脳裏に蘇る父の姿が、さらに凶悪で恐ろしい怪物のような姿に変化していく。以前まではまだ平気だったのに、今になって恐怖が増してしまい、戻ることがたまらなく怖くなっていく。

 二人のために帰るつもりだったのに、暖かさを知ってしまったシェラは、戻るという選択を取れなくなっていた。


「ここに……ぃたい……アザミと…いっしょにいたぃ……」

「ならそうしろ」


 ぼたぼたと、涙と鼻水で顔中をぐしゃぐしゃにしたシェラが、胸の内に溜め込んでいた本音を吐露し、俯いて身を縮こまらせる。

 しかし、血を吐くような思いで口にした願いに、師は実にあっさりとした返答を返した。


「……ふぇ?」

「だから、ここにいればいい。昨日からあれが言っていたであろう……自分が育てると」


 シェラは思わず顔をあげ、鍋の中身を器に装っている師を凝視する。

 驚きのあまり、シェラの体の震えも、涙や鼻水も止まっていた。あれほど苦しかった胸の空洞も、最初からそんなものは無かったかのように消え失せている。

 ぽかんと呆けた少女に、師は湯気の立つ器を運び、差し出して告げる。


「己は一度たりとも、お前がここにいる事に反対などしていない。子を一人養うのに、あまりに舐めた態度を取るあれを諌めただけで、追い出すつもりなど一切ない。何を勘違いしていた?」

「……ぁ、え……」

「まずは食え。痩せた体をどうにかしてから、お前がどう生きていくかを考えることだ」


 じんわりと熱が伝わってくる、昨日の煮汁とは異なる香りを持ったそれを受け取り、シェラは師を見上げる。師はそれ以上何も言わず、暖炉に戻って火の大きさを調節し直す。

 シェラは何も言えぬまま、器を持った体勢絵固まっていたが、やがて聞こえてくるバタバタと騒がしい足音に、ハッと我に返らされた。


「お師匠! お師匠! シェラがいないの! あたしのシェラがどっかにいっちゃったの! あたしの妹が消えちゃったの! どうしよう!」

「……ちっとは落ち着きというものを覚えろ、馬鹿弟子が」


 ギャーギャーと喚く声が、アザミの自室の方から響き渡ってくる。

 面倒くさそうに肩をすくめ、明らかな苛立ちを募らせた師が奥に向かって行くのを見ながら、シェラは器に満たされた煮汁を一口啜る。


「……にがぃ」


 舌に広がる、初めて味わうがなんとも言えないその感覚に、少女は顔をくしゃくしゃに丸める。

 しかし何故だか、また胸の奥が満たされるような感覚を覚え、少女の口元には笑みが浮かんでしまうのだった。

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