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02:名も無き少女に名を

 そこからの少女は、まるでそこが現実ではないような幸福感に包まれていた。

 まず、暖かい火の前に連れてこられて、汚れたずぶ濡れの衣服を脱がされ、ふわふわと暖かい布で全身を包まれる。

 火には大きな鍋がかけられていて、中に入った何かが湯気を立てていた。


「すぐ用意するから、待っててね」


 アザミは少しの間、少女を火の前に置いてその場を離れる。

 戻ってきた時、アザミの手には木製の器があり、彼女はそれに鍋の中の何かを匙で掬って入れ始める。その途端、ふわりと香ばしい匂いが立ち込め、少女の腹がキュゥと鳴った。


「あはは……お腹すいたよね、うん。まずは体をあっためようね」


 アザミはその音に一瞬顔を歪めるものの、すぐに取り繕うように笑みを浮かべ、中身が満たされた器を少女に差し出す。

 少女はおっかなびっくりといった様子で器を受け取り、その暖かさにまた戸惑う。


「…?」

「はい、あ〜ん」


 どうすればいいのか、と困惑した表情で見上げると、アザミは唇を噛み締め、一緒に持ってきた小さな匙を器の中に入れ、掬い取って少女の口に近づける。

 それでようやく、飲めという意味なのだと理解した少女は、恐る恐る口を開き、差し出された匙を咥える。


「……ぅ、あ…!」


 その瞬間、少女の目に涙が滲んだ。

 舌先から伝わる、体験したことのない刺激が、少女に凄まじいまでの衝撃を与える。

 腹の底まで伝わる熱さと、口の中いっぱいに広がる初めての味に、痛みを感じていた目元からまた涙があふれる。

 少女は急速に湧き上がった衝動のままに、器を掴んで顔を突っ込んでしまう。


「……なんで、こんなにいい子が……」


 苦しくて悲しくて、流されるままであった少女が見せる、生の刺激を求めて踠く様がそこにあった。

 まるで獣のようにがっつく姿を見下ろしていたアザミは、少女の目がなくなると、心底辛そうに顔を歪めていた。




「ふひぃ〜…五臓六腑に染み渡るねぇ…」


 全身が浸かるほどに大きな桶の中につかり、女が出すには低すぎる感嘆の声をあげるアザミ。

 ふにゃふにゃに蕩け切った顔の彼女を、その膝の上に乗せられた少女がじっと見つめる。少女自身も、初めて感じる暖かさで、今にも眠りそうなほどに緩んだ様子になっている。


「汚れたまま風呂に入ると、お師匠ってば怒るんだよねぇ……自分は入んないくせにさ」


 体を湯で濡らし、自身の手製の石鹸を使って少女の全身の汚れを落とし、なかなか落ちないことに四苦八苦しながら、なんとか流す湯が黒くならない程度にまで洗い切った。

 一仕事終えた吐息をついた彼女は、その間ずっとされるがままだった少女に視線を戻す。


「ん〜……洗ってみて分かったけど、君って結構可愛い顔してるんだね。いい拾い物したね、こりゃ」

「……かわ、いぃ?」

「うんうん、可愛いよ? 磨けば光る系の子だったんだね〜」


 首を傾げ、言われた言葉を鸚鵡のように繰り返す少女に、アザミは上機嫌に応える。

 ニコニコと少女の顔を満足げに見つめていた彼女は、しばらくすると少女の体を前後でひっくり返し、後ろから抱きしめ出した。


「……ほんと、馬鹿なことしたもんだよ、君の親は。こんなにちっちゃくて可哀想な子を、こんなになるまでほっとくなんて」


 少女の頭頂部に顎を乗せ、棘を持った声で呟くアザミ。少女には見えないが、その表情は寒気が走るほどの嫌悪が浮かび、虚空を睨みつけていた。

 しかしアザミがそう呟いた時、少女がビクッと肩を震わせ、慌てた様子で少女に顔を向けた。


「おとぉ、さんは……わるく、なぃの。やくに、たたなぃから……くず、だから……」


 少女の脳裏に浮かぶのは、恐ろしい形相で酒瓶を投げつけてくる父の姿。汚れた格好で、日に日に痩せていく彼が向ける暴力と罵声は、少女の胸に深々と突き刺さったままだ。

 怯えと焦りがない混ぜになった、見ているだけで痛々しさが伝わる少女の表情に、アザミは思わずぐっと息を詰まらせる。


「…あー、うん。ごめんね? あたしは別に怒ってないよ……悪くないんだよね」


 すぐさま微笑みを見せ、安心させようと少女の背中を叩くと、少女は徐々に落ち着きを見せる。

 大人しくなった彼女を抱き直し、アザミは小さくため息をつく。その時ふと、今更思い出したというように「あ」と声を漏らし、少女の顔を覗き込んだ。


「そういえば、君の名前は? 今更なんだけど聞きそびれてたからさ」

「……な、まぇ?」

「うん。あ、さっきも言ったけど、あたしの名前はアザミね。師匠は……まだ知らないけど」


 うっかりしていた、と舌を出して戯けるアザミの前で、問われた少女はキョトンとした様子でまた首を傾げる。

 数秒経っても応える様子がなく、返答を待っていたアザミは次第に訝しげな顔になっていく。

 しばらく続いた沈黙ののち、少女は首を不思議そうに問い返した。


「なまえって、なに…?」

「……っ!」


 アザミの表情が強ばり、ぐっと息を呑む音があたりに響く。

 少女はその反応に困惑し、黙り込んでしまった彼女を不安げに見上げる。まさか、また自分がやってはいけないことをやって、怒らせてしまったのではないかと。

 父のように、自分を叱るのかもしれない。また、辛い思いをさせられるのかもしれない。

 そんなことを思い、身を縮こまらせた少女だったが、返ってきたのは、先ほどと同じ柔らかさと暖かさだった。


「……どうして、こんな子が。だから……人間ってやつは」


 声を震わせたアザミが、ぎゅっときつく少女を抱きしめる。腕の中の小さな存在を、他のどこにもやるものかと示すような、そんな力強さで。

 若干息苦しさを覚えた少女だったが、拒絶することなどできるはずもなく、大人しくアザミの抱擁を受け入れる。しばらくして体を離したアザミは、真剣な眼差しで少女と目を合わせる。


「……お風呂から上がったら、名前をあげるよ。名前ってのはね、ものすごく大切で素晴らしいものなんだよ」


 溢れ出る感情を無理矢理隠すような、ぎこちない引き攣った声で、アザミは少女に語りかける。

 彼女の頬を伝う雫に気づいた少女が、困惑した様子で見上げてくるのも構わず、アザミはブルブルと肩を震わせ、強い視線で語りかけた。


「この世界に自分の存在を示す……ここに自分はいていいんだ、誰にも否定できないんだって証明する、魔法の言葉なんだよ」


 少女よりもよほど苦しそうな表情でそう告げる、涙を溢れさせるアザミ。

 少女はその意味をよく理解できないまま、目の前の彼女の圧に押され、コクリと戸惑ったまま頷いた。




 最初の部屋に戻ると、師が椅子の上に座り、本に何かを書き込む作業を再開させていた。

 指示通りに自室に行ってみれば、申し訳程度にどけて作られた隙間に、少女と自分の分の着替えが用意されており、物置から引っ張り出す手間を省略できた。

 そのことになんとなく気恥ずかしさを覚えるも、手を貸してもらった手前何も言い返せず、アザミはもやもやとした気持ちを持て余す。

 が、これから師に告げる言葉には関係がないため、アザミは意を決した様子で、少女と共に師の元に歩み寄った。


「お師匠。お願いが……」

「手は貸さんと言ったはずだが」

「お願いします! さっきの今で恥知らずなお願いだとは思いますが、どうかあと一回だけ!」


 近づいてきた時点で何か察していたのか、一瞥さえくれずに冷たく拒否する師に、アザミは深々と頭を下げ、両手を合わせて懇願を始める。

 師は必死な弟子の声に手を止め、少しの間考え込むように沈黙すると、ギロリと面倒くさそうに赤い眼光を向けた。


「……なんだ。馬鹿馬鹿しい願いなら聞かんぞ」


 パタン、と本を閉じ、体ごと弟子に向き直った師に、アザミは思わずぐっと拳を握りしめて喜ぶ。

 目の前で見せられた失礼な態度に、仮面の奥の師の目が細められるが、この場で叱りつけたところで意味がない、何より少女が怯えると判断したのか、特に言及することはなかった。


「いいから用件を言え、用件を」

「えっとね、この子にね、名前をつけてやってほしいんだ」


 少女の形を両手で掴み、前に差し出してアザミが頼み込む。

 父よりもはるかに大きく、強烈な威圧感を放つ師を前にして、少女はびくりと実を振るわせるも、後ろについてくれているアザミのことがあってか、後ずさるようなことはしなかった。


「お前がつけてやればいいだろう」

「こういうのはお師匠につけてもらいたいんだよ。あたしはまだまだ半人前で、そういう責任重大な役目は二が重いっていうか……」

「……それを己に押し付けるか」

「そこをなんとか!」


 パンっ、とまた両手を合わせ、頭を垂れるアザミの前で、師は仮面の奥の目をじっと少女に向ける。

 煌々と光る、人のものとは思えない不気味な眼差しに射抜かれ、不安げに肩を竦ませる少女。アザミがチラリと上目遣いで黙り込む師を見つめ、やや緊張感を孕んだ静かな時間が流れる。

 しばらくの間、雨音のみが耳に届く静寂を破り、ようやく師が声を発した。


「シェラ、と……そう名乗ればいい」


 師は少女にそう告げると、閉じていた本を開いてまた何かを書き込む作業に戻る。

 ぽかんと呆けていた少女だったが、不意に自分の体がグルンと回され、目をキラキラと輝かせたアザミが顔を覗き込んできたため、目を見開いて固まる。


「よかったね…シェラ! ほんとによかった! お師匠に名前をつけてもらえるなんて物凄く羨ましいことだよ! よかった〜!」

「…⁉︎ …⁈」

「お師匠ってば、お偉い方々に頼まれても、絶対こういうの首を縦に振らないんだよ。気分が乗らないとか、面倒くさいとか、そう言って絶対日聞けたりしないのに……よかったね〜!」


 怒涛の勢いで、興奮したまま少女を―――シェラを抱き寄せて頬擦りをするアザミ。

 わかっていないのは、名付けられた当人であるシェラのみ。なぜこんなにも大きな声で騒ぎ、痛いくらいに抱きついてくるのか、呆けたまま翻弄されるばかりだった。

 少しだけ落ち着いたアザミは、シェラと目を合わせ、優しい表情で語りかける。


「これからは……あたしがあなたを守るから。あなたが生きてて良かったって思えるくらい、幸せにしてあげるからね」


 シェラには何も分からなかった。なぜこんなにも、アザミが真っ直ぐに自分を見つめてくるのか、なぜ彼女の目が潤んでいるのか、苦しみを押し殺したような表情なのか。

 そして何より、自分の胸がこんなにも暖かく感じられているのか。

 生まれて初めて感じる〝幸福〟という気持ちに、シェラはただ、戸惑いを抱き続けていた。


 そんな二人の姿を横目で見やりながら、師は描き終えた本を山積みになった上に重ね、椅子の背もたれに体を沈み込ませる。

 きゃいきゃいとはしゃぐ弟子の声に目を細め、呆れるように頬杖をついていた。


         ◆    ◇    ◆


 本や薬の小瓶、薬草の欠片、脱ぎ散らかしたい服が山になっている、魔窟のような状態の部屋。

 アザミに与えられている自室の寝具の中で、シェラは寝息を立てていた。当初のビクビクと怯えた様子はかけらもない、心の底から安心している様子の寝顔に、アザミはふっと微笑みを浮かべる。

 まだ痛みが残っているためか、乱れたままの髪を撫で、慈愛に満ちた眼差しを向ける彼女は、やがて立ち上がってその場を離れる。

 その足で向かったのは、暖炉の前から離れない師の元だ。


「ねえ、お師匠……あの子のことなんだけどさ」


 アザミは嫌悪感に満ちた表情で、椅子の上で沈黙する師に話しかける。

 新たな同居人には決して見せるわけにはいかない、この世界のどこかに必ずいる一人の男を激しく憎む彼女に、師は仮面の奥で鬼火のように片目を光らせる。


「十中八九、ハーフエルフだろうな。純血のエルフよりも耳が短く、肌の色も透明感が薄い。それに、あの髪の色は純潔ではありえない色だ……父か母、どちらかは知らんが、人間との混血で間違いないだろう」

「やっぱり……」


 今にも唾を吐きそうなアザミが、悲痛な表情で自室を見やる。


 彷徨っていた少女に対する保護意欲が強まったのは、彼女を風呂で洗ってからだった。

 ガリガリに痩せた全身には、あちこちに大小問わぬ切り傷があり、青あざが模様のように浮き出ていた。歩くたびに顔を歪めるため、詳しく診察してみると、肋骨にヒビが入っていることも確認した。

 あと数日、見つけるのが遅れていれば、少女は間違いなくこの世の住人ではなくなっていただろう。


「……親が死んだのかな。それで、行くところをなくして、碌でもない人のところに迷い込んで……それで」

「違うだろうな」

「っ……」


 アザミの呟きを、師は即座に否定する。アザミはぎゅっと唇をかみしめ、眉間に皺を寄せて、何かを堪えるように息を呑む。

 師はそれを気遣うことなく、ギョロリと仮面の奥の目をアザミの部屋に向ける。

 正確には、アザミの部屋にいるシェラ、その身にこびりついている、人の匂いに。


「あれに血縁者以外の匂いはついていない。傷跡も殴打の痕が多い……男に殴られたものだ。向こうも相当弱っているのか、大した深さではなかったがな」

「……そっか〜」


 淡々と語る師の言葉に、アザミはしばらくブルブルと握りしめた拳を震わせていたが、やがて諦めたようにその力を抜く。

 俯き、表情を隠した弟子を見やった師は、黙り込んだ彼女に鋭い視線を送り、再び声を発する。


「お前が拾った命だ……最後まで、お前が責任を持って守れ。それができなければ、お前はあの子を捨てた人間と同類に成り果てるぞ」


 浅い考えを咎めるような、あるいは挑発するような響きを持った師の言葉。

 真正面から投げかけられたそれに、アザミはゆっくりと顔を上げると、にっと不適に笑ってみせる。


 師はそれを目にすると、以降口を開くことはなかった。

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