23:決して怒らせてはいけないお方
「……逃げろって言ったよね」
「うん…言った」
頬を痣で青く染めたアザミが、自分の前で正座するシェラを睨みつける。
ジンジンと体のあちこちが痛むが、それを周りに訴えても仕方がなく、そうするよりも為すべきことがあるため、じっと妹分を見つめ続ける。
「こんな、敵の巣窟のど真ん中みたいな場所まで追っかけてきて…自分を大事にしろって、前々から言ってるじゃん。こんなこと、あたしがさせたいわけないでしょ」
「…それは、ねえ様にも言える事だと思う。あんな風に助けられたって、私は嬉しくない」
「っ…それは、だって、あの状況じゃ…」
「これは、前にねえ様が私に言った事。同じことを、姉さまがしてどうするの?」
対するシェラは一瞬息を詰まらせるも、姉の向ける視線から目を逸らすことなく、恥じる事はないというように睨み返す。
しばらく見つめ合う姉妹。やがて、姉の方が諦めたように大きなため息をついた。
「まったく…わかったわかった。あたしが悪うございました。偉そうに語っておいて、あたしがそれを守れていなくちゃ、世話ないわよね……ごめん、心配かけて」
「…うん」
重くため息をこぼしながら、佐々見張惨状となった周囲を見渡す。
四肢を縛られた兵士達や、血の海に沈む彼らの雇い主の男、顔中を腫れ上がらせたシェラの父の姿がある。その周りを、ボロボロの衣服を纏った少年少女達が囲み、暗い表情で見下ろしている。
今にも倒れそうな、痩せ細った身体を覗かせる彼らを、アザミとシェラは沈痛な表情で見つめる。
ややあってから、アザミが少し気まずげに口を開いた。
「あのさ…ありがとうね? あんたたちのおかげで、助かったよ」
「……別に、大したことはしてねーよ」
アザミの感謝の言葉に、子供達の中でも年上の少年が投げやり気味に答える。他の子供達も重い表情で俯き、どこか途方に暮れた様子で佇んでいる。
シェラはそんな彼らから目を逸らし、きつく唇を噛み締める。
彼らの前から去った時の悔しさが、今になって強く蘇ってきたのだ。
「どうして逃げなかったの…? あれ以上何もしてあげられないって言ったのに……」
「借りっぱなしは性に合わなかっただけだ。…檻から出れただけで、あとは何とでもなるからな」
「…だからって、あんな危ない事して」
シェラの問いにぶっきらぼうに返し、少年もまた目を逸らす。
確かに、彼らの助力がなければ危なかった。しかしだからと言って、相手は凶器を持った大人の集団、運がよかっただけで呆気なく死にかねない状況だったのだ。自分が言うのもなんだが、その無謀さを見過ごすわけにはいかなかった。
彼らについて詳しく知らないアザミはしばらく黙っていたが、やがて大きなため息をつき、少年達の傍に歩み寄る。
「! な、何だよ…」
少年は急に近付いてきた年上の少女に戸惑い、思わず後退りそうになる。
アザミは少年が逃げるより先に手を伸ばし、少年の頭を抱え、胸元に抱き寄せた。
「ありがとね……おかげで助かった。ほんと、妹共々、ありがとう」
「…お、お前らの為じゃなくて、俺らが何も返さないのが、気持ち悪かっただけで…」
「それでもだよ。おかげで…あたしは無事に生きてる」
柔らかい胸の中に包まれ、少年は顔を真っ赤にして黙り込む。咄嗟に押し返そうとするも、忘れかけていた人の温もりに絆されたのか、全く力が出せなくなる。
アザミは優しい笑みを浮かべると、他の子供達にも手を差し伸べ、語り掛けた。
「あんた達がいてくれて……よかった」
にっこりと、悪意の欠片もない純粋な笑顔を贈られ、少年少女達は言葉を失くす。
傷だらけの顔を晒し、それでも心の底から感謝を伝えてくれる、自分達と同じ目線で語りかけてくれるアザミの姿を凝視し。
彼らはやがて、心の底から安堵した様子でボロボロと涙を流し始めた。
シェラはそんな少年少女達の姿に、かける言葉も見つけられず、ただ座り込むばかりだ。
そんな妹分をよそにアザミは、ぐすぐすと鼻を鳴らし、自身に縋りついてくる子供達を見つめると、やがてニッと満面の笑みを浮かべてみせた。
「じゃ、さっさと逃げようか。みんなで一緒にさ」
あっけらかんと言ってのける黒髪のエルフに、少年少女達は目を見開く。そして、何を言っているのか、と言わんばかりに胡乱気な目を向け、少しばかり距離をとり始めた。
「…何言ってんだよ、簡単そうに言いやがって」
「ここにいてもさ、もう捕まるだけじゃない? あたし達もここにいたら危ないし、こうなったらみんなで一緒に行こうよ。あいつらの手が届かない所にさ」
「…無理だよ」
「ここまで来れたのだって、奇跡みたいなものだったんだ…」
「第一、ここから出てどこに行けばいいんだよ!」
陽気な笑顔を見せるアザミだが、少年少女達の視線は冷たいままだ。
牢を抜け出し、憎い人間の一人をその手で討ったとはいえ、ここは敵の巣窟といっても過言ではない、人間の国の中心。アザミが言うほど、逃げる事は簡単ではないのだと、全員が理解していた。
加えて少年少女達は皆、親元から引き離されてきたか、もう帰る場所を失って久しい者達ばかり。
牢屋は苦しい未来しか待ってはいなかったが、少なくとも不安に覆われてはいなかった。
「ん~、そんな消極的になる必要はないと思うけどなぁ~?
俯き、明るく笑いかけてくるアザミを直視できずにいるような少年少女達に、アザミは困り顔で頬を掻く。
何をそんなに能天気でいられるのだろう、とシェラはつい思ってしまう。すると少しして、少女の脳裏に、姉の想像しそうなある考えがよぎった。
「…ねえ様、まさかとは思うけど」
「ん?」
「…おししょう様の所に、みんなまとめて転がり込もうとか思ってない?」
シェラの指摘が耳に届いた直後、アザミの表情が強張る。さらにこめかみから一筋の冷や汗が滴り落ち、笑顔のまま固まる姉の内心の動揺をこれでもかと示す。
それに気づいた途端、シェラは思わず呆れかえり、がっくりと項垂れてしまった。
「ねえ様…」
「あ、あの森は広いから大丈夫だって! お師匠だって……怒るだろうけど……即座に叩き出すようなことはないよ! たぶん!」
だらだらと顔中から汗を垂らしつつ、根拠のない断言を口にするアザミに、シェラは咎めるようなきつい視線を送る。
だが、そうするより他に、自分達の恩人でもある彼らを助ける方法はないのだと気付き、シェラは大きなため息をつく。それに苦笑しながら頭を下げてから、アザミは表情を引き締め、少年少女達に向き直った。
「…ここにいるので、捕まっていた子は全員?」
「えっ…い、いや、向こうで騒ぎを起こす役になってくれた奴が、何人かいる。残りは、ここにいるのが全部」
「そっか…」
アザミは大きく息を吸い込み、落ち着きを失くし始めた鼓動を宥めようとする。
シェラは姉の様子の変化に気付くと、何をするつもりなのか気づいたのか、僅かに目を見開いた。
「助けに行く気…?」
「まぁね、彼の言う通り、借りの作りっぱなしは寝覚めが悪いからね。適当に暴れに行って、さっさと逃げてくるよ」
「だからそんな簡単に言って…もういいよ。だったら、私も…」
「うんにゃ、シェラにはこっちの子たちをどうにか外まで逃がしてほしいな。この子達だけだと、まず脱出できそうにないし」
ぐりぐりと、縛られて変な具合になった手首を回してほぐしながら、アザミは王宮の中に目を向ける。
明らかに、残された囮の子供達を迎えにいくつもりであるアザミに、少年は信じられないといった様子で食ってかかる。
「お、おい…! なんでそこまで…!?」
「…んー、なんて言えばいいかな―」
少年の怒鳴るような問いに、アザミは顎に手を当てて深く考え込む。
そしてやがて、悪戯っぽい笑みを浮かべて、肩を竦めてみせた。
「そういう人の弟子だから……かな?」
「は…?」
「ま、気にしない気にしない。あたしの妹が守ってくれるから、さっさとこの国を出なさいな」
「また勝手に…」
「たのんだよ。大丈夫、何とか逃げ切って―――」
少年がぽかんと呆け、シェラが嘆くように頭を抱えるのをよそに、快活な笑みを湛えたアザミが王宮の奥に向けて足を踏み出そうとした。
その時、彼女のすぐ目の前に勢いよく短い矢が数本、何の前触れもなく突き刺さった。
思わず固まるアザミの顔に、先ほど以上の脂汗が噴き出し始めた。
「…みせようと、思ったんだけどなぁ」
「動くな! 亜人共!」
咄嗟に足を止めたアザミや、呆然となるシェラや少年少女達の前に、建物の奥から飛び出して来た数十人の兵士が包囲を作り始める。
全員、隙間のない甲冑を身に纏い、あの弓に似た武器を構えて突き付けている。ぐるりと半円を描くように揃ったことで、アザミとシェラ達の逃走路は一切塞がれてしまった。
「よくもこの城を、汚い足で踏み荒らしてくれやがったな!? 覚悟しやがれ!」
「今ここで、汚らしい体液ぶちまけて死に絶えろ、糞虫が!」
心臓や脳を真っ直ぐに狙う鏃の輝きに、少年少女達は勿論、アザミとシェラも顔から血の気を引かせる。
この状況をひっくり返せるような力はない。この場での騒ぎが広がる前に撤収するつもりだったのに、逃げるどころか動くこともできなくなってしまった。
「み、見つかった…!」
「まずい…無駄に話をし過ぎた。本気でまずい…!」
「…! だから言ったんだよ、ちくしょう…!」
「何をぶつぶつ言っている…! 口を開くな! この清廉な空気が穢れていくのがわからんのか!?」
悲鳴を漏らす少女達に、兵士達は苛立ちを覚えたのか、引き金にかける指に徐々に力を込め始める。
陽光を受けて、鈍い光を放つ鏃。それを前にして、アザミとシェラ達は悔しさに歯を食い縛る。先ほどのような根拠のない自信など、木端微塵に吹き飛んでしまっていた。
「ゴミの分際で、人間様の手をここまで煩わせやがって…! 一回殺すだけじゃ足りねぇ、達磨にして責め続けてやろうぜ」
「いや…! これ以上こいつらの薄汚ねぇ面なんざ見たくねぇ、ここで駆除するぞ!」
兵士達全員が口々に罵倒の言葉を発し、汚らわしいものを見る目を向ける。
話す間も与えられない、ただ貫かれるための的になり果てた少年少女達は、襲い来るであろう痛みと衝撃を想像し、思わず目を瞑る。
アザミは矢を突き付ける兵士達を睨みつけ、意味のないことと知りながら、彼らを庇うように両手を広げ、前に立ちはだかる。
兵士達はそれに、滑稽なものを見るように嗜虐的な笑みを浮かべ、引き金をゆっくりと引き始めた。
「下らねぇな、さっさと死ね―――」
兵士の一人の台詞と共に、彼らの指に力がかかる。
ガッ、ガガガッ!と、弓が力を解放し鏃を放つ音が、立て続けに鳴り響く。前後左右から放たれた凶器が、風を切り近付いてくる音が聞こえてくる。
「っ…!」
「ねえ様…!」
もはやこれまで、と。アザミ達は身を固くしながらそう覚悟する。
少年少女達は嗚咽をこぼしながら、シェラはアザミの背に縋りながら。アザミは脳裏に、一つの大きな背中を思い浮かべながら、ひたすらに最期の瞬間を待つ。
だが、何時まで経っても、少女達に痛みが襲ってくることはなかった。
代わりに感じたのは、ざわりと奇妙な風が頬を撫でた感触だった。
「……え?」
「―――まったく…己が目を離した隙にこうも厄介事を引き寄せるとは、どういう星の元に生まれているのだ、お前は」
恐る恐る瞼を開け、顔を上げたアザミとシェラの視界に入って来たのは、漆黒の壁。
いや、壁と見まがうほどに大きく、揺るぎない後姿を持つ、見慣れた色と聞きなれた不思議な声を持つ者の姿が、そこにはあった。
「……お師、匠?」
「おししょう……様」
姉妹は呆然と、自分達の前に堂々と立っている師を凝視する。
何故ここに、何時ここに、様々な疑問が脳内に何度も浮かび、全く答えが見つからず、ぽかんと間抜けな顔で呆けたまま、立ち尽くす。
固まったままの弟子たちを背に庇いながら、師はゴキリと首を鳴らし、驚愕で目を見開き固まっている兵士達を見据えた。
「己の弟子に手を出したのは……お前達か?」
ばらばらと、砕けた全ての矢を地面にばらまきながら問いかける黒い鎧の大男。
どよどよと辺りからざわめきが響き始めると、獅子の仮面の奥に秘された赤い眼光が、ゆらりと鬼火のような不気味な光を放った。
「なっ…何なんだ貴様は!? どこから湧いて出た!?」
突如姿を現した師に、兵士達は驚愕をあらわにしながらも、脅すように怒号を放ち、新たに矢を装填させて身構える。
森の奥に引っ込み、人里に足を踏み入れない師の異様な姿は怪しさしかなく、その場にいた者、兵士達や亜人の少年少女達からも畏怖の視線を集めていた。
師は自身に突き刺さる視線の全てを無視し、ぎょろりと仮面の奥の赤い目を向けた。
「何者でもいい…今一度問うが、我が弟子達にこの傷をつけたのはお前達か、と聞いている」
「貴様…!」
「それがどうした! せっかく存在理由を与えてやった矮小なごみが、恩を仇で返したのだ! 命を持って償わせることの何が間違いだ!?」
人間とは思えない、異質な威圧感を放つ眼光に射抜かれ、思わず後ずさる兵士達。
しかし、生まれ持った虚栄心によるものか、それとも気圧された事への羞恥からか、誤魔化すようにさらに大きな声で吠えかかる。
キーンと少年少女達の鼓膜を震わせる声が、周りから響きまくる。
「待て…弟子といったか!? ならば貴様、この薄汚い亜人共の大本か!」
「さては貴様か! この亜人の雌共を我が国へ送り込んできたのは! ごみ屑共に加担するとは…恥を知れ!」
目を血走らせ、唾を吐き散らして威圧してくる中、師は一切怯む様子を見せず佇む。
その背に、亜人の子供の何人かが恐る恐るといった様子で手を伸ばし、ローブの端を指で抓む様を見やり、師は仮面の奥の目を細める。
「…聞くに堪えぬな。これまで見てきた、如何なる生物よりも醜悪で滑稽だ」
「な…何だと!?」
「相容れぬ存在を排他せんとすることはまぁいい…しかし己を特別と思い込み、他にも強制しようとするその姿はあまりに見苦しい。何様のつもりか、たかが猿の分際で」
吐き捨てるような師の呟きに、兵士達の顔が一斉に赤く染まっていく。
見る見るうちに殺気が高まっていく光景を前に、アザミやシェラ、少年少女達がさっと顔色を悪化させていく。
「お、お師匠…!」
「それ以上は…!」
「きっ…き、き、貴様ぁ! 誉れ高き憲兵団を侮辱するか!?」
激昂した兵士達が、激情のままに引き金を絞り、師一人に向かって矢を集中させる。
だが、放たれた矢は先程と同じように、何の前触れもなく弾かれ、バキリと乾いた音を立てて砕け、地面に落下していく。
頭に血が昇る兵士達だが、その様を見て思わず息を呑んだ。
「な…何なのだ!? 貴様は一体、何なのだ―――」
ガタガタと全身を震わせ、表情を引きつらせる兵士達。
その一人が悲鳴交じりの声で叫び、よろめいた時、音もなく接近した師の腕が伸び、彼の顔面を掴んで軽々と持ち上げた。
「きっ…! 貴様、いい加減に―――ぎっ!?」
「が、はっ―――!」
「な、なん…だ―――⁉」
周りにいた兵士達が慌てて飛び掛かろうとしたが、動き出そうとしたその瞬間、彼らは自身の首を押さえてその場に膝をついていく。
見れば、兵士達全員の首に、ぞろぞろと黒い影のような者が巻き付き、彼らの首を絞めつけていた。彼らの足元まで続くそれは、元を辿ると、師の作る影から伸びて見える。
目を見開き、泡を吹いて悶絶する兵士達。そしてそれを目の当たりにし、恐怖と畏怖の視線を送る少年少女達。
アザミやシェラからも似たような視線を送られながら、師は冷たい声で続けて告げる。
「お前達は……人間であるから偉いのか?」
「ぐっ…げっ!?」
「人間であるから……己以外の種族は全て下であり、踏み躙り、塵のように扱ってもいいというのか? ……そうだな、確かにその考えは正しいかもしれん」
首一本でぶらさげられ、兵士の一人が苦悶の声を上げて、両足をばたつかせる。
師の声が聞こえているかもわからない、死を目前としたすさまじい形相である。
「蠅を数匹潰すのに、人間は一々心を痛めはしまい。虫けらを殺したところで、罪悪感を抱きはしまい。それはその者にとっての命の価値が、案じるに値しないからだ」
冷酷に語る師の目が、不意に強い光を放つ。
その瞬間、顔面を掴み上げられる兵士に、変化が現れ始めた。
肌は渇き、黒く染まって木肌のように……いや、本当に木の質感に変わっていく。見開かれた目も飛び出し、眼孔から枝が伸びていく。
師の腕を掴んでいた手も痩せ細り、鎧を纏ったまま枝に変じていく。元気に暴れていた両脚にいたっては、長く伸びて地面に到達し、突き刺さって根に変わっていく。
師の影に囚われた他の兵士達にも同じような変化が現れ、耳をふさぎたくなるような苦悶の声が上がる。
目を疑うような光景を、無事なアザミやシェラ達が呆然と凝視していた。
「故に己は―――お前達を踏み潰すことに何の抵抗も遠慮も持たぬ」
ベキベキベキ、と兵士達の頭部からも枝が伸び、頭髪が葉や芽に変わっていく。
苦悶と恐怖に歪む顔だけが、彼らがかつて人間であったことを示していた。
「まぁ、己も殺戮は好みではない故に……殺しはしないがな」
そう言って師は、完全に木に変わり果てた兵士から手を離す。
城内にありながら、まるで小さな森のようになった庭を見渡し、師はどこか満足げに頷いた




