01:深き森の賢者様
しとしとと、木々の枝から垂れ落ちた雨の雫が、頭の上に落ちてくる。黒髪の少女の被る編笠の上にそれらが落ちると、ぼたぼたっと激しい音が鼓膜を揺らす。
揺れる籠の中、入り口に被せられた布を避け、少女は自分を背負う少女を見つめる。それに気づいたのか、浅見と名乗った娘は振り向き、にっこりと笑みを返した。
「待っててね、今あったかいところに連れて行ってあげるから。揺れるけどちょっとだけ我慢しててね」
見たことのない、何故だか安心感を抱かせられる表情に、少女は困惑しながらもコクリと頷く。そして言われた通りに、籠の中に引っ込み小さく丸まる。
少女にとって、自分に向けられるのは激しい怒りの感情だけ。アザミのように、柔らかく暖かみを感じさせる感情の正体を、少女は全く理解できずにいた。なのに、彼女のそばから離れたくないという思いが芽生えていて、戸惑い続けていた。
しばらく籠の中で丸くなっていると、唐突に揺れが大きくなり、ドスンと尻に硬いものが当たる感触を覚える。
不安げに顔を上げると、布が取り払われ、待ち侘びた様子のアザミが顔を覗かせた。
「着いたよ。ほら、こっちにおいで」
アザミが少女に手を伸ばし、両脇に手を差し入れて軽々と持ち上げ、抱き寄せる。
籠の中から物のように取り出される少女だったが、触れたアザミの胸の柔らかさと暖かさに絆され、思わず安堵の表情を浮かべる。
その際、アザミが悲痛げに顔を歪めていたことには、気づかずにいた。
「……こんなに痩せて、冷たくなって。すぐあっためてあげるからね…」
震えた、感情を押し殺したような声の響きに、少女がスッと顔を上げる。
きつく唇を噛み締め、眉間に皺を寄せて何かに耐えるような表情を浮かべていたアザミは、見られていることに気づくと慌てて笑みを浮かべ、少女の手を引いて歩き出した。
「ほ〜ら、ここだよ。あたしの今住んでるお家……っていうか、お師匠の今の家だけどね」
「おし、しょう…?」
「うん、あたしの薬作りの師匠」
照れ臭そうに笑うアザミに示され、少女は彼女が向かっている方を見やる。そして、驚きで目を丸くする。
少女がまず初めに抱いた感想は、これも家なのか、というものだった。
周りの樹よりも大きく、しかし根本から上がへし折れたように無くなっている大樹の根の間。自分が逃げ込んだ熊の巣穴のようなそこに、壁と窓と簡素な扉が取り付けられている。
以前父と共に暮らしていた荒屋とそう変わらないような、しかし初めて見る形の家だった。
「ちょ〜っと気難しい人だけどさ、慣れれば優しい人だってわかるよ。あとお人好しでね、君だってすぐ受け入れてくれるよ。だいじょ〜ぶ!」
少女が家の形に注目していることに気付かず、アザミは安心させようと頭を撫でながら、戯けたように語りかける。
目を丸くして立ち尽くす少女の手を引き、うっすらと灯りがついたその家に手を引いて歩く。不安と怯えで、必死にしがみついてくる少女に苦笑しつつ、アザミは勢いよく扉を開け放った。
「お師匠〜、ただいま〜」
間延びした調子で、家の中にいた人物に帰宅を告げるアザミ。それに手を引かれ、おずおずとためらいがちに足を踏み入れる少女。
敷居の向こう側に入った瞬間、少女の鼻を襲ったのは奇妙な匂いだった。
草木の匂いとも、水の匂いとも、父の体臭とも異なる、表現し難い鼻先に刺さるような独特な匂い。それが、部屋中のあらゆる場所から漂い、少女の全身を包み込んでくる。
その出所が、壁に取り付けられた無数の箱や、机の上に置かれた紙の束だと気づくまで、少し時間を要する。そしてそれが『本』という物であることを、少女は後になって知った。
「いや〜、今日はひどい雨だったよ〜。もうちょっと採集してから帰ろうかと思ったんだけどさ、お土産連れてきたから早めがいいかな〜って思ってさ」
アザミはそう言いながら、腰に巻いていた袋を外し、台の上でひっくり返してぶちまけていく。
どさどさと落ちてきたのは、さまざまな形状の葉や実、種に根。少女には見分けがつかないような、似たり寄ったりの外見の草木のかけらだった。
それを慣れた手つきでより分け、アザミは積み重なった本の向こう側に顔を向けた。
「あ、でもさお師匠! 今日は結構珍しい素材が取れたからさ、新しい薬の製法教えてよ! どうせ今日も家に引っ込んでるんでしょ?」
「…己は薪を拾ってこいと言ったはずだが? 馬鹿弟子」
騒がしく明るいアザミの声に対し、返ってきたのは低く、轟くような奇妙な響きを持った声だった。
誰かいたのか、と顔色を変えた少女は、積み重なった本の向こう、赤く光る何かの前にある真っ黒で大きな人影に怯えた目を向けた。
木の鶴を編み込んで作られた、茶色い椅子のような塊の上に腰を下ろす、大柄な人物。
灯に照らされてなお黒い鎧に、鹿を模したような黒い仮面を被り、全身を同じく黒いローブで覆った、父よりも遥かに大きな体を持つ、異様な威圧感を醸し出す男性らしき人物。
暖炉の火に照らされながら、一冊の本を開いて何かを書き込んでいるその者に、少女はぞくりと背筋に震えが走るのを感じた。
「授業は予定通りに進める。あれを使った薬はお前にはまだ早い……身の程を弁えて物を言え」
「あー! そういうこと言っちゃうんだ! ていうかこんな天気の中で薪拾って来いとか鬼か! どこ探したって濡れた枝しか見つからないっての! 鬼!」
「そのあたりは自分でいくらでも工夫しろ…軽くてもお前には脳みそがあるだろう。たまには使え、腐る前にな」
「あたしに対するその口の悪さって何!?」
背を向けたまま、辛辣な言葉ばかり投げかけてくるその人物に、アザミが目を釣り上げながら抗議の声を上げる。少女はその姿に、ぽかんと口を開けて立ち尽くすばかりだ。
キャンキャンと子犬のように喚く弟子に、やがてその人物はパタンと本を閉じ、傍らの本の山の上に積む。気怠げに首を回したその者は、ぎょろりと仮面の奥の、血のように赤く輝く左目をアザミに、そして入り口近くで棒立ちになっている少女に向けた。
「…で、薪拾いをほったらかしにして持って返ってきた土産というのが、それか」
「おっと、待ってました!」
不満げな表情で、頬を膨らませていたアザミが、途端に満面の笑顔になって駆け出す。
状況についていけず、唖然としたままの少女を抱き上げると、アザミは嬉しそうに師に見せつけた。
「見て見て! 拾ったの! かわいいでしょ!」
直後、がごん!と凄まじい音が鳴り響き、アザミの体が大きくのけ反った。
反動で空中に放り出された少女は、混乱のあまり悲鳴をあげる間も無く、床に頭から落下しそうになる。だが、途中でふわりと風に抱えられるような感触に包まれ、ゆっくりと尻から下ろされていった。
「元いたところに返してこい」
「いったーいっ!」
どたっ、と背中から倒れ込む弟子に冷ややかな一瞥をくれた師は、また本を開いて何かを書き込む作業に戻る。
強烈な何かを食らったアザミはごろごろとその場を転げ回り、やがて赤くなった額を抑えて起き上がると、そっぽをむいたままの師の元に突進していった。
「何すんのさ、師匠のバカァ! 本で殴るとか横着しすぎでしょ!」
「お前があまりに馬鹿なことを言うから、わざわざ立ち上がるのも阿呆らしくなってな……手近にあった道具を使ったまで」
「物は大事にしろって師匠が言ってたじゃん! て言うか虐待反対! もっと弟子には優しくしろ〜!」
「そう思うんなら弟子としての立場を弁えろ。…ついでに言っておくが、己がこれらを適当に置いているのは、お前めがけて投げやすくするためだ」
「嘘でしょ!?」
侃侃諤諤と、一方的にだが激しくなる会話に、少女はただ圧倒されて黙り込む他にない。
果たしてこれは、自分の見ている夢か何かなのではないか。他者とは自分に対し、暴言や暴力など傷つけてくるものばかりなのではなかったのか、とあまりの環境の違いに反応することさえできない。
しばらく二人のやりとりを凝視し続けていた時、不意に師の方が少女に視線を移した。
「…これの親はどうした」
「あん!? あー…知らない。森の主の寝床で震えてたの拾ってきただけだから」
「孤児か…あるいは家出か、口減らしに捨てられたか。いずれにせよ、面倒な物を拾ってきたものだな」
呆れたように呟く師に、アザミは何故か誇らしげに豊かな胸を張る。
ぶるんっ、と揺れて目立つそれを冷ややかに睨んだ師は、頬杖をついて少女に目をやる。ビクッと肩を振るわせる小さな彼女に目を細めると、師は唸るような声で弟子に尋ねる。
「あの姿では、親元に返してもまともな対応は期待できんな…どうする気だ、お前」
「……決まってるでしょ」
確かめるような問いに、アザミはふっと鼻を鳴らして返す。
無言のまま少女の元に近づき、後ろから小さな体を抱きかかえると、キリッと引き締めた顔で師を見つめ返した。
「あたしが大切に、立派な淑女に育て上げてみせる!」
「この馬鹿弟子が」
キラキラと目を輝かせ、鼻息荒くそんなことを宣ったアザミの顔面に、今度は先ほどよりも太く重い本の角が突き刺さる。
より一層強烈な一撃を受けたアザミは、少女の体を放り上げながら真後ろに吹っ飛び、扉に強かにこうとぶをぶつけて悶絶する。中に舞った少女は、またしても不思議な風に包まれ、今度橋の膝の上に着地させられた。
「あーっ! あーっ! 角はダメでしょ角はぁ!」
「お前……己がお前を養うのがどれだけ面倒だったと思っている。人一人養うのを舐めてるならこの場で殺すぞ」
「やめてよ! 師匠の殺す発言は本気じゃん! 本気で殺しにくるじゃん!」
「案ずるな…痛みなく仕留めてやる」
「仕留めるって言葉のどこに安心しろと!?」
目を見開いたまま固まる少女を膝の上に乗せ、弟子に向けるものとは思えない発言をする師に、アザミはひたすらに理不尽さを訴えて吠え続ける。
しかしすぐに表情を改め、仮面越しに師の目を見つめる。数秒前までのふざけた態度からは考えられない、確かな覚悟を秘めた真剣な表情だ。
「あたしは本気だよ! 一目見てほっとけないって思ったんだ! こんな小さな子が……こんなに汚れて痩せて、かわいそうじゃないか! 一人くらい、あたしでなんとか…!」
「傲慢だな。人間一人救うのをそうも軽く考えているのか…恥を知れ、小娘」
「傲慢なんかじゃ……」
必死に師を説得しようと、声を荒げるアザミ。対する師は変わらず、冷たく突き放す物言いでまともに相手をしようとしない。
少女はオロオロと、自分をめぐって対立しているであろう二人を交互に見上げ、悲痛に顔を歪める。
「師匠の手は煩わせない…あたしだけでなんとかする。だからお願い、場所を貸してくれるだけでいいから……」
師の肩を強く掴み、アザミが今にも泣き出しそうな声で懇願する。
師は無言で、弟子が背にしている少女を見下ろす。対する少女は、不気味な赤い眼光にびくりと肩を震わせるが、目を逸らさずに向かい合う。
しばらくの間続いた無言の見つめ合いののち、先に目を逸らしたのは、師の方だった。
「……勝手にしろ。お前の言う通り、己は手を貸さん」
「…! うん!」
肩をすくめ、椅子から腰をあげた師の返答に、アザミは満面の笑顔になって力強く頷いた。
師はそれに横目をくれると、鈍い靴音を響かせ、部屋の奥に歩き出していく。
「先に、昨晩作った煮汁を保存してあるから、適当に温めて飲ませてやれ。その様子では、碌な物を食えていまい。流動食から腹に入れてやれ」
「うん…!」
「その濡れ鼠の格好もどうにかしてやれ…その分じゃ入り方もわかるまい、お前も一緒に入れ。風呂を沸かしておくから、上がったらお前の昔の服でも貸してやれ。埃を被っているだろうが、ないよりマシだ」
「う、うん…!」
「寝床はお前の部屋でいいだろう……製薬道具は片付けておくことだ。うっかりこぼしたら怪我では済まん…ほったらかしのままの着替えや本もどかさねば、横になる隙間などないぞ」
「……うん」
遠ざかっていく最中、師の口から送られる注意事項に、アザミは次第に渋い表情になる。なぜだか、引き受けたのは自分だが、自身の思慮の浅さを咎められているような、微妙な気分に陥らされる。
師弟のやりとりを見守っていた少女は、ぽかんと惚けたまま棒立ちになる。
そんな彼女の手を掴み、しゃがみ込んだアザミが、優しい笑みと共に少女と視線を合わせた。
「あんな感じでさ、お人好しなのに悪ぶる変な師匠だけど、怖がらないであげてね? 口ではああ言ってたけど、聞いての通り君のこと心配してくれてるからさ」
にこにこと、本心から迎え入れているのがわかる明るい笑顔に、少女はますます困惑の表情になる。
本人の言葉も聞かないままに、この家で暮らす流れが出来上がってしまったことが、いまだに信じられない。何か、恐ろしいことでも考えているのではないかと、そんなことばかり考えてしまう。
「……どぅ、して」
「ん?」
「どうして……たすけ、て…くれる、の……?」
疑わしげな、恐れを孕んだ少女の問いに、アザミはんー、と虚空を見上げて考え込む。
しばらくの間、眉間に皺を寄せて唸っていた彼女は、やがて照れ臭そうに赤く染めた頬をかき、はにかみながら答えた。
「……似てたからかな、あたしに」
「似て、る…?」
「さーさー! 難しい話はこの辺にしといて! お師匠の言う通り風邪引いちゃうから、まずはお着替えして、その間にご飯用意しといてあげる。忙しくなるぞ〜」
無理やり話題を逸らし、大きな声をあげるアザミに促されるまま、少女は不思議そうに首をかしげたまま部屋の奥へと歩かされる。
相変わらず流されてばかりだったが、なぜだか今は、悪い気はしていなかった。