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00:昏い洞の中

 その少女にとって世界とは、自分に苦しみしか与えない牢獄でしかなかった。

 常に空腹が体を苛み、全身をズキズキと鈍い痛みが襲う。意識を失ってしまえば苦痛は紛れるが、その代わりに毎日のように悪夢に魘され続ける羽目になる。

 寝ても覚めても、周りにあるモノ全てが自身を苛み、苦しめる。

 生きている事そのものが、少女にとって責め苦でしかなかった。




「これっぽっちじゃ酒も買えねぇだろうが、クソガキが!」


 俯せに倒れ、額から血を流す少女にぶつけられるのは、怒りに満ちた男からのしわがれた罵声と空の酒瓶。

 ピクリとも動かない少女に憎々しげな目を向けた、血走った目に小汚い格好をした中年の男は、舌打ちと共に横たわる小さな体を踏みつけだす。


「帰って来るならもっと大量に盗ってきやがれ! 財布でもなんでも、死んででもどっかから奪ってこいよ! そんなくらいもできねぇのかてめぇはよ⁉」


 ブンッ、と腕を振るい、穴だらけの床にぶちまけられるのは、汚れた小さな貨幣。

 それは少女が必死に辺りを駆け回り、時に野良犬に追われながらも拾い上げてきた、どこかの誰かが落とした金銭だった。

 だが、そんな努力など男にとっては知ったことではなかった。


「おい! なに勝手に寝てんだ、おい! タダ飯食らいのゴミが! クソして寝るしか能がねぇてめぇのために寝床をやってんだぞ、こっちは! ちっとぐらい役に立てってんだよ、おい!」

「……っ、ごめ…なさ……」

「喋んじゃねェよ、鬱陶しい!」


 腹を丸め、胎児の様に丸まりながら泣きじゃくる少女に、男は執拗に足を踏み下ろす。

 幼く、力もない少女はただ、自身を襲う嵐が収まるまで、大人しく小さくなっているほかになかった。


「チッ…母親はあんな別嬪で、器量もいい極上品だったってのに…やっとできた子供はこんな不細工! その上勝手に死んじまいやがって! 俺が投資した分が無駄になっちまったじゃねぇか、あのクソ女が! 胸糞悪ぃ!」


 少女を、自分の娘を蹴るのに飽きたのか、あるいは単に疲れたのか、大きく肩を上下させた男は、どっかりと床に座ってまた別の酒瓶を開ける。

 ぐびぐびと口の周りを汚して、座った目で喚き続ける男に、少女は怯えた視線を向け続けていた。


「見てんじゃねぇよウザってぇ! どっか行け! やる事がねぇなら酒代でも見つけてきやがれ、クソガキが!」


 くわっと鬼の形相になった父に怒鳴られ、少女はのろのろと立ち上がり、外に向かって歩き出す。

 その背後から空瓶が投げつけられ、少女の後頭部に当たる。強烈な衝撃で少女は倒れ込み、地面に顔面から倒れ込む。

 鼻の奥を切ったのか、たらたらと溢れ出てくる赤い雫を見下ろして、少女はグッと唇をかむ。


「っ…」


 もう、限界だった。

 衝動の赴くままに、力の入らない足を無理矢理立たせ、歩き出す。

 体に巻いただけの襤褸布で顔を覆い、自分に生えた尖った耳を隠しながら、少女はあばら家が続く中をひたすらに、よろよろと進み続けた。




 少女は、半森人(ハーフエルフ)だった。

 純血の森人(エルフ)である母と、猿人(ホモ・サピエンス)である父の間に生まれた、双方から蔑まれ、見下される存在であった。

 森で平穏に過ごしていた母が猿人に囚われ、奴隷として高値で売り出された際に、今の父に買い取られ、孕まされた結果に生まれた存在である。


 当時の父は、貴族と呼ばれる由緒正しき家柄の出身で、権力に頼り、弱者から搾取することで生計を立てていた。

 黒い商売、特に奴隷売買や武器密輸によって莫大な財を成した父に頼り、逆らう者や癪に障る者を気分次第で処分するような、性根の腐った男であった。

 そんな彼がある日考え出したのが、総じて見た目が美しく生まれる森人を捕らえ、家畜のように育て出荷するという商法。

 神秘的な容貌で非力な森人の奴隷は、愛玩用としても玩具としても人気を博す、そんな予想を立てた彼は、父にねだって売りに出されていた森人を―――少女の母を買い取り、自分の道具にしたのである。


 ―――これで俺はさらなる権力を手に入れられる!

    これでいずれは…親父の家さえ乗っ取ってやる!


 しかしその目論見は、失敗だった。

 森人は基本、一代に一人しか子供を産まず、他の種族との間ともなると妊娠の可能性は非常に下がる。さらに言えば森人は非常に繊細な存在で、環境が悪ければ容易く流産してしまうほどに儚い種族だったのだ。

 調子に乗って数人、膨大な額を払って森人の女性を手に入れた男だが、自分が孕ませた子供は全て死産。加えて、母親の方も後を追うように死んでいった。


 男は焦った。自分が自由に使える大きな財を成すはずだった商いが、ただ父に莫大な金を溝に捨てさせるだけに終わってしまったことに。

 無論、失敗を知った男の父親は激怒し、息子を勘当し屋敷から追い出した。純潔を失い、病にかかり商品価値がなくなった、たった一人生き残った森人を押し付け、二度と自分の目の前に出てこない事を命じた。


 そこからの男の人生は、転落そのものだった。

 今まで見下していた弱者からは、もう恐れる必要はないとこれまでの仕返しを食らい、危うく嬲り殺しになるところを命からがら逃げ出し。

 何とか住むところを見つけたはいいが、先立つものが一切ないまま空腹に苦しむ日々。


 せめてもの慰みに、唯一の財産である森人の女を抱こうとした時だった。

 屋敷にいた時に仕込んでいた胤が、ようやくうまく育ち始めていることに気付いたのだ。


 ―――まだだ。

    まだ俺には機会が残っている…!


 そこから男は、態度を一変させる。

 これまでただの道具として扱い、ぞんざいに扱っていた奴隷に、甘い言葉をかけて励ますようになった。

 無論、彼に愛情が芽生えたわけではない。

 子供と言えど、見目麗しい森人ならば、買い手が見つかる。それを元手に今度こそ森人奴隷の家畜化に成功させ、かつての栄光を取り戻す事ができると、浅はかな野望を抱いたのである。

 ならばと、今度は注意深く慎重に育てさせようと、森人の女に媚びるような優しい言葉をかけ、手懐けようとした。自分の元から逃げ出さないように、依存させようと。


 森人の女は、当然そんな自分勝手な男に心を開いたりなどはしなかった。

 やがて生まれた子供を抱いたまま、森人の女は男の元から逃げ出したのである。


 ―――ふざけるな!

    買い取ってやった恩も忘れて逃げるなど、絶対に許さねぇ!


 男は烈火のごとく怒り、森人の女が逃げ込んだ森の中を必死に探し回った。

 そしてやがて発見する。無理がたたって冷たい亡骸となった奴隷と、その腕の中で泣く赤ん坊の姿を。

 財産の一つを失った男ではあるが、その顔に浮かんでいたのは笑みのみ。唯一必要だった、今後の財を成す森人の子供を手に入れる事ができたのだから。


 男は意気揚々と泣き続ける赤子を抱え、帰路についた。

 母親が相当な美人だったのだから、放っておいても美しい存在になるだろう。餌は適当な、どこぞの家畜の父でも与えてやればいいだろう。そんな浅い考えで、男は赤子を育てることを決めた。


 それから数年が経ち、男は自身の選択を大いに後悔する。

 成長した森人の子供の顔は、お世辞でも美しいとは言えない微妙なもの。加えて言えば、以前に鏡で見ていた自分の顔と、どことなく似た雰囲気がある顔立ち。

 自分の分の遺伝が、濃く現れてしまったのである。


 ―――こんな不細工なガキ、森人でも誰も買わねぇ!

    俺の五年の苦労は何だったんだよ⁉


 嘆く男だが、最早後の祭り。努力の全てを赤子を育てることに使った男は、枯れ木のように痩せ細り真面に動くこともできない。

 ただ一つの支えだった商いの計画が頓挫したことで、自身の中に燃えていた野心さえ勢いが死んでしまった。最早男は自分で立ち上がる事もできない、ただ喚いて糞を垂れるだけの存在になり果ててしまった。


 故に男は、自分の娘に全てを押し付け、酷使する日々を始めた。

 自分が苦労しているのは此奴のせい、自分が辛いのは此奴のせいと、現実の全てを否定し、娘に当たり続ける日々が始まったのだ。


 そしてそれからさらに二年。

 親という絶対的な存在からの命令に、ただ従う外になかった少女の心は壊れ、ついに逃亡を望んだのだった。




「……ひっ、えぐっ」


 雨が降り注ぐ、右も左も全く同じに見えるほどに深い森の中。

 その中でも一回りは太く立派な木下、根っこの間にできた空間で、少女は膝を抱えて泣いていた。


「おど、ぉさん……おとぉさん…」


 過酷な環境から逃げ出した少女だが、その心にあるのはひたすらに悲しい感情。

 自分を生み出した、他に変わりのない絶対的な存在。自分よりもはるかに大きく、力の強い、逆らうことの許されない存在。

 それがいた場所から逃げ出した今、少女の目の前にあるのは絶望だけだった。


「ごめ…なざぃ、ただめしぐらぃで…ごめんぁざぃ……やくたたずで…ごめんなざい……」


 何が悪かったのか、そしてどうして自分が悪いと言われるのか。

 小さな、隙間風が吹く襤褸小屋の中が唯一の安全圏で、外の世界で命懸けの戦いを行う少女にとっては、教えられることのない事柄。

 ()が言うのだから、自分が悪いのだ。そんな考えが、少女の中に根付いていた。


「……おなか、すぃた」


 一際強くなる、自身の腹の痛みによって、少女の意識がフッと遠くなる。

 途端に瞼が重くなり、全身を気だるさが包み始める。何度も経験した、ここではないどこかへと引っ張り込まれる、二度と戻って来られなくなる感覚だった。

 これまで何度も経験し、何とか意識を保っていたが、今はもう耐えられそうになかった。


「……さむ、ぃ…ねむ……ぃ……」


 冷たさが全身を刺し、身体の奥底まで凍っていくような感覚に、少女はやがて力を失くしていく。

 自分の中にある温かさが消えていくことに僅かばかりの恐怖を覚えるも、それをどうすることもできず、じっと蹲ったまま、瞼が閉じられていく。

 そして、少女の発する音の全てが停止する、その刹那だった。


「―――あっれぇ? こんな所で誰か寝てる~?」


 不意に聞こえた、自分が初めて耳にする〝声〟に、少女の意識が引き戻される。

 冷え切った体のまま、重い顔をあげて視線を向けて見ると、大樹の根元の外から、誰かが覗き込んでいることに気付いた。


「ありゃま、ちっちゃな女の子がいた。ここってば熊の寝床だったはずなんだけどなぁ~、まぁもうずいぶん昔に引っ越したらしいけど。でも人の子がいるとは思わなかったな~」


 少女はその声の主に、ひどく戸惑いを覚える。

 自分に向けられる声と言えば、強烈な怒りや憎しみが混じった刺々しいものばかりで、自分の耳と心を苛むものばかりだった。

 なのにこの声は、優しく包み込むような、そよ風のような柔らかさを感じていた。


「こっちにおいでよ、そんなとこにいたらそのうち死んじゃうぞ? 死ぬのは辛くてきっついよ?」


 声の主は、少女が見た事のない口角を上げた表情を見せ、少女に手を伸ばしてくる。

 どうすればいいのか、と困ったように声の主を見つめていると、唸るような声と共に、声の主が少女の脇に手を伸ばし、抱きよせた。


「来てくれないならこっちが行っちゃう。君みたいに汚れた、かわいそうな子はなんかほっとけないからね~、勝手に連れてっちゃうから覚悟してなよ?」

「……な、に…」


 答える間もなく、樹の根元の洞の中から引っ張り出された少女は、不安気に目を潤ませて声の主を見上げる。

 夜の闇のように真っ黒な髪に、すらりと伸びた手足。細く丸い顔に大きな瞳、自分と同じ尖った耳。そして父とは異なる、柔らかさと温かさを兼ね備えた身体。

 呆然と、父とは全く異なる存在を見つめていた少女に、彼女は目を細めて言葉を発した。


「あたしはアザミ、賢者の弟子で薬師見習い! それで、あなたはだぁれ?」


 固まる少女に、声の主―――アザミはくすくすと喉の奥から音を鳴らす。

 それが、彼女がよく見せる優しい表情―――笑顔だと、少女はまだ知らずにいた。

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