後編 どうやら本当に、大公は全員いたようです
たっぷり十八回分、曲を繰り返して終わる頃には、さすがの俺もじんわり汗をかいていた。
デイセントローズなんて、もとからしっとりしていたラマ毛から、ボタボタと水たまりができるほどの水滴をしたたらせている。
あと、どうでもいいことだが、終了時には右隣の女性の手汗がものすごいことになっていた。さらに、なかなか離してくれなかったので、振り払うかのような乱暴な方法をとって、やっと解放されたことを付け加えておきたい。
各人、息を整えてから輪になったままで魔王様に向き直り、改めて深々と長めの礼をとる。
それに応じるかのように、ゆったりとした拍手が頭上から響いてきたとみるや、たちまち観衆からのものも加わって、波のような喝采が巻き起こった。
それが水を打ったように静かになったタイミングで顔を上げてみると、魔王様が立ち上がっているではないか。いいや、それだけじゃない。
「高位魔族による輪舞、それも大公が五名も参加してとは、なかなか見られるものではない。誠に大儀であった」
そう言いながら、今まさに、こちらに降りてくるために階段に足をかけたところだったのだ。
「次は兄貴も参加するか?」
あんなに参加を渋っていたくせに、ベイルフォウスは上機嫌なのだが? なんだったんだよ、あの態度!
「いや、輪舞はやめておこう。だが……」
魔王様はちょうど壇の真下で停止していたウィストベルの前で足を止め、すっと右手を差し出した。
「姫君、今宵最初の栄誉を、お与えいただけますか?」
「あはぁぁぁぁん! 素敵ぃ! とろけちゃうぅ~!」
右隣の女性の反応が、地味に怖い。
「若君、光栄に存じます」
恋人でもない女性魔族までとろけさせるような優しい声音に返すには、やや毅然としすぎているような笑みを浮かべながら、女王様は恋人の手を取った。
ベイルフォウスが苦笑を浮かべ、身を引く。ウィストベルを本命と公言していたのだから、さぞ複雑な心境もあるだろう。
……まぁ、本当に本命だったのかどうか、俺なんかは怪しんでいるんだけども。
部屋中のシャンデリアが消され、さらに外からの光も遮断された会場は、暗闇に包まれる。その中で恋人二人が向かい合う姿だけに照明が当てられ、絵画のように浮かび上がっていた。
見て、あの魔王様の幸せそうな顔……!
やだもう、なんなんですか、この二人。関係を公表してからというもの、公衆の面前でいちゃつきすぎじゃないですかね。
別に俺は羨ましいとか、そんなことは全く思ってないけども!
どうせ、ベイルフォウスはこの隙にいなくなっているだろう。なんなら俺も、しばらく席を外してもいいのじゃないだろうか。担当と言ったって、こう薄暗けりゃ、いるかいないかも見えないだろう!
そう考え、その場を離れようとした瞬間――湿った手にがっちりと、手首を掴まれた。
「はぁはぁ……ジャ、ジャーイル閣下……よろしければ私も……ぎゅっと……ぎゅっとしていただいて……! はぁ、はぁ!」
いや、ぎゅっとってなんだよ……。手汗がヌルヌルして嫌だし、息の荒さが怖いわ!
「密着するのに、生肌の方がよろしければいますぐにでも!」
「いや、待て待て待て!」
片手で衣服を器用に脱ぎ出そうとするんですけど、なにこの女性!
いくら薄暗いからって、なくない!? ノリがどこぞのラマ母を思い起こして怖いんだけども!
「そんな無愛嬌な奴より、俺の方が相手としてよくないか?」
近くの暗がりから聞こえた声は、誰あろう、俺がもうとっくにいなくなっているだろうと見越した親友のものだった。
光から暗闇に目を転じてみれば、薄明かりの中でも親友の赤髪を認めることができる。
「ベ、ベイルフォウス様……!」
女性もそうだったらしく、俺の腕を解放するや、すぐさま声のした方に向き直った。
「それとも俺じゃあ力不足かな?」
「まさか、そんな……! あり得ません!」
腰を引かれ、顎をクイッとされて、女性は思う存分ベイルフォウスにしがみついている。どうやら俺でなくともよかったらしい。
……いや、違うからな! 間違ってもガッカリなんてしてないからな!
「なら、一曲踊って、それから……」
両手をかっちり恋人繋ぎで絡ませた後、ベイルフォウスが女性の耳元で何事かを囁き、一歩踏み出したとみるや――
「はぁぁぁん!」
腰が砕けたように、女性が膝からガクリと崩れ落ちたではないか。
「おっと……」
彼女が床に膝をつく前に、軽々抱き上げたのはさすがベイルフォウスだ。俺なら単に支えるだけで終わったろう……。
どっちがいいかはわからんけども!!!
「まさか、気を失ったのか?」
いくらなんでも、そんなことあり得る!? 俺に興味津々だった感じなのに、実はベイルフォウスが本命だったってこと?
驚く俺に対して、ベイルフォウスはため息で応じてきた。
「こうなるから常日頃、俺は踊らんことにしてる。ま、ここまで過剰なのは、先にお前に欲情してたからだろうが」
えぇ、なにそれ……なにそれ……。
「まさか、お前……それが特殊魔術だってんじゃないだろうな……」
ベイルフォウスが手を差し伸べるだけで女性を落とせる、とかいう定評は、まさか特殊魔術のせいだった!?
「あー」
ベイルフォウスは眉を顰めている。
「いや、違うな。それに付随する能力ではあるかもしれんが……」
は? なにそれ……特殊魔術に付随する能力とかあるの!?
でも、そういえばデイセントローズを例にとっても、『呪詛を受け甦った後、魔力が強くなる』というのが核の能力とするなら、『触れた相手に呪詛をかけられる』というのが付随する能力といえるか。
っていうか、女性と踊るだけで腰砕けにする能力が付随するって、核の能力はなんなんだよ!?
「ウィストベルとサーリスヴォルフは平気そうだったが……」
二人とも、ベイルフォウスとは手までつないでたのに、別にいつも通りだったもんね!
「本命がいる相手に影響はない。俺に興味を持ってる相手だと、やばい。俺の特殊魔術そのものを知っている相手にも、効果は薄いようだ。……ちなみに、サーリスヴォルフにはどっちも知られているが……」
ああ、それでサーリスヴォルフは自分がいてよかった、という風に言っていたのか。
「俺の特殊魔術、聞きたいか?」
「いや、いい」
なんか、聞いたところでろくな能力じゃない気がする。
「そうか? ま、機会があればいずれ、な……」
いや、ほんとに別に聞かなくていいんだけども……。その代わりにお前の能力も教えろ、とか言われても困るし。
たとえどうやらバレてるっぽい! と推測できる状況でもな!
「とりあえず、相手がこうじゃ仕方ない。医務室にでも預けてくるか」
「え、その女性になにもしないのか?」
てっきりこのまま個室に連れ込むのかと思ったのに!
「お前……俺が気を失ってる相手にどうこうするような男だと思ってるんじゃないだろうな」
「え、いいや…………うん…………」
ベイルフォウスが眉尻をあげる。
「いや、思ってるのか思ってないのか、どっちなんだよ……」
あきれ顔で見てきた後、「どっちでもいいがな」という言葉と共に、親友は去って行った。なんか、ごめん……。
そんなこんなをやっている間に、魔王様と女王様のダンスは無事に一曲を終えたようだ。
さすがにいつまでも薄暗いままではいけないと誰かが判断したらしく、舞踏会場も明るさを取り戻す。続いて二曲目を楽しむ二人を囲むように、それまで観衆に徹していた魔族たちも、それぞれめいめいが踊り出した。
相手を見つけるつもりもない俺は、舞踏に勤しむ集団を離れて壁際にひく。
そこで――
「よいところで会った、ジャーイル」
今日もゴリラ胸を見せつける金獅子が、グラス片手に肩をいからせ、こちらにやってきたのである。
「プートまで? まさか、アリネーゼまで来ていないだろうな。七大大公、全員がこの場にいるとか、ないよな?」
「さあ知らぬが、おる可能性は高かろうな」
「え、なぜ……」
「なぜ? そなたはまさか今日がどういう日か、知らぬと言うのではなかろうな?」
「どういう日って?」
ちょっと待って……プート、あきれ顔浮かべてる?
「明日からは大公位争奪戦が始まる」
「ああ……それはもちろん、知っている」
「ならばなにを疑問に思うことがある。落成記念大舞踏会に大公が参加できるのは、実質、本日が最終の日であるということだぞ」
ああ……改めてそう言われれば、そういうことだけども。
でも意外だ……よりによってプートから、そんな寵臣じみた台詞が出てくるとは……。だって今のって、魔王様をお祝いする舞踏会に自分が参加できる最後の日なのだから、当然、参加して祝意を表明したいって意味だよね?
いや、まさかベイルフォウスみたいに、「他領の女性と気軽に知り合える最後のチャンス」みたいな目的があってのことでは……ないよな?
だが、わかるまい。そうだとも……その可能性も、ないとは言い切れない。
なにせ俺のプート評は、魔王大祭が始まって以降、降下の一途を辿っているのだ。
「ところで我は、ジャーイル……そなたを探しておった」
「え、なぜ……」
まさかまた、アレスディアがらみか?
もう一度言うが、俺のプート評は、男女関係に対する彼の態度のおかげで、著しく低下してしまっているのである。
「それはもちろん、明日から始まる大公位争奪戦……その前に、打ち合わせておきたいことがあってのことよ」
大公位争奪戦のことで打ち合わせ?
俺とプートで、なにを打ち合わせることがある。ただお互いが全力を賭して戦えばいいだけの催しで……。
まさかプート。アリネーゼのように、俺に手を抜け、などと暗にすすめてこようってんじゃないだろうな。
だが、金獅子の口から出た言葉は、俺の予想だにしないものだった。
「以前言っていたであろう。貫禄を出すために、そなたの顔に傷をつけてはどうか、と。できれば本人の希望通りの場所を狙う方が」
「いや、希望なんてないから!!」
なに言ってるの、この人!
なに言ってるの、この人!
脳筋もほどほどにしてほしい。確かに以前、俺が配下になめられすぎてるので、顔に傷でもつければ貫禄が増していいのではないか、という提案をもらったことがある。でもさ、その提案自体、意味のわからないものだから!
魔族の顔に傷がついたからってなんだというのだろう!
治せない傷を顔にうけるなんて、とんだ間抜けだ、とでも思われるだけじゃないだろうか!
「希望はない……なるほど、どこであろうが覚悟はできている、ということだな!」
え、いやいやいや! そんなこと一言も言ってないけども!
人の答えを都合よく変換するの、やめてくれない!?
第一、提案された時にちゃんと「お断りします!」って言ったよね?
「そうじゃなくて、傷をつけること自体、意味がないと……」
「プート!」
やはりいたのか、アリネーゼ! だが、なぜこのタイミングで邪魔をしようとする? いつもプートに声なんてかけてこないじゃない!
「二人揃って、なんの悪巧みかしら?」
これぞデヴィルの女王、といった貫禄を漂わせて、アリネーゼがゆったりと歩み寄ってきた。
「おお、眼福じゃ……今日舞踏会に来て、正解だったわ」
そんな男性諸君の感想が、ちらほら聞こえてくる。
美男美女コンテストではデヴィル族の二位に甘んじたとはいえ、その美貌が衰えたわけではない。絶世の美女と讃えられるアリネーゼは、ウィストベルがデーモン族に対してそうであるように、デヴィル族男子の視線を侍らせているようだった。
そもそもが大公第一位であるプートからして、常に衆人の注目を浴びている。
ベイルフォウスといるときはもう慣れたし、そもそもあいつに視線が集まるからいいとして、こんな風にプートとアリネーゼのおまけみたいな立場で見られるのは居心地悪い。俺、目立ちたくないのに……。
「先ほどは見事な輪舞だったわね、ジャーイル」
「見ていたのか……」
社交辞令でしょうか。約一名のリズム音痴のおかげで、結構ぐだぐだだったと思うのですが。
「大公五名が踊りで魔王陛下に祝意を表した舞踏会場にあって、今現在、ここに存在していながらそうしていないのは、プート。私とあなただけ……」
アリネーゼが意味ありげな流し目を、プートに向ける。
「む……」
「あの女の隣で踊るというのは気に食わないけれど、魔王陛下のことのみ思い至って、私も踊りで祝意を表しようと思うのだけれど、あなた付き合ってはくださらないかしら」
そう言ってアリネーゼはプートに手を差し出したのだ。
……は?
え、どういうこと……? つまり……。
「おお」
いつも厳ついばかりの金獅子が、珍しく相好を崩して彼女の手を取る。
「そなたと踊れるのは、何年ぶりか……断る道理がない」
「プート! どうでもいいが、俺が断ったことはちゃんと覚えておいてくれよ!」
行っちゃってもいいから、いや、むしろ二人でどこへなりと行くがいいが、馬鹿な提案だけはちゃんと撤回してほしい!
だが、プートは俺の存在など忘れ去ったかのように、アリネーゼから一時も視線をそらさず、彼女をリードするよう、中央に躍り出て行ってしまったのだ。
いや、大丈夫だよね! 開幕一番、訳のわからない顔への攻撃とか、してこないよね!
それにしても、アリネーゼからプートへの誘いというのは、かなり珍しかったようだ。
だが、正直俺は引っかかった。
それこそ、なぜ、このタイミングで?
確かに、魔王様への祝意云々は、その通りかもしれない。でも、だからって本当にアリネーゼがそんなことを気にするだろうか。
邪推かも知れないが、俺は彼女が俺に提案してきたように、プートにも何らかの理由をつけて手を抜くように――あるいは、そうでなくとも衆人環視の中、無残に痛めつけないようにと、頼みにきたのではないかと思ってしまったのだ。
もっとも、そうだとしたところで判断するのはプート本人。俺には関係ないことだが……。
それにしても、いよいよ明日からは大公位争奪戦か。何事もなく、一人も欠けることもなく、無事に終わればいいのだが――
そう願いながら、俺はその日の後半、ほとんど壁の前で時間を潰したのだった。