崩壊.3
昨日の夜、夕食を済ませて早々に床についたシーナを尻目に、エルディンは酒場の片隅で酒を飲んでいた。酒場の中は収穫の無事を祝う村人たちでどんちゃん騒ぎだった。村人たちはぼろぼろのテーブルを囲み、エールをあおりながら、フロントドラムのリズムに合わせて歌っていた。
通常、旅人というのは村人の注目の的になり、外の世界の出来事や風景の話などをねだられるものなのだが、この時のエルディンは村人たちが祝賀気分で眼中になかったのか、それとも持ち前の陰険な雰囲気のせいなのか、誰にも話しかけられることはなかった。
エルディンはしばらくぬるいエールを飲み続けていたのだが、ほどよく酩酊した村人たちの管の巻きかたがあまりにも煩わしくなり、外へ出て星でも肴にしながら飲もうと思い立った。そのために追加のエールを頼もうと席を立った時、見覚えのある青年が酒場に入ってきた。
ジョアンだった。彼はエルディンを見るなり、気さくな笑みを浮かべた。
「やあ、昼にあった旅人さんじゃないか。どうだい、一緒に飲まないか?」
断る理由がなかったので、エルディンは快くうなずいた。
「いいだろう。なら、俺の分のエールも持ってきてくれ」
ふたりは席に着き、大いに飲んだ。ジョアンは若く、活力あふれる青年だった。他国の話は彼に深い好奇心を抱かせ、比例するように酒を飲む速度も上がってゆく。このまま飲めば夜が深まる前に潰れてしまうだろうと思われた。
ジョアンが十杯目のエールを注文しようとした時、騒いでいた村人の一団からふたりの男が向かってきた。行方不明になったマートとニックスだ。ふたりとも、ジョアンよりいい感じにでき上がっている様子だった。
「よおジョアン。しばらく見かけねえと思ったら、こんな薄汚え野郎とつるんでやがるのか」
背の低いほうのマートが口を開いた。ニックスはその後ろで日焼けした顔を歪めて意地悪く笑っていた。ジョアンは持っている木のジョッキを潰れんばかりに握りしめ、ふたりをにらんだ。
「誰のせいでこれなかったと思ってるんだ。お前たちが僕の腕を折ったくせに」
「さあな、何のことだか」
ふたりはゲラゲラと下品に笑った。ジョアンの怒りはますます強くなり、彼は手にしているジョッキでマートに殴りかかろうと勢いよく立ち上がった。
が、それより先にエルディンが身を起こした。マートとニックスは突然の出来事に面食らったが、すぐにもとの威勢を取り戻し、背の高いニックスがエルディンを見下して凄んだ。
「何だ、てめえ? やるってのか?」
だが、エルディンは怯むどころか一切の表情が消えてゆき、その地獄の底を覗いたかのような冷たさに男たちはたじろいだ。そして、同時にエルディンが懐に手を伸ばしていることに気がついた。
「酒くらい静かに飲ませろ」
豹のような三白眼、歴戦の剣士が放つ鋭い気配。エルディンの所作は引き絞られた弓のようだった。
喧騒に溶ける緊張。きりと胸を刺す恐怖に気圧され、男たちはエルディンと対峙するする意思をなくしてしまった。
「ちっ、気味の悪い野郎め。おいジョアン、憶えてろよ。喧嘩の弱いくそ狩人が、腕が治ったらもう一度へし折ってやる」
男たちは捨て台詞を吐き、エルディンたちに背中を向けた。
本来なら、ここで何ごともなく終わるはずだった。だが、ジョアンは泥酔しており、それに加えて、日ごろの鬱憤も溜まっていた。
「おい、待てよ!」
ジョアンはニックスの肩を掴んだ。
「くそ狩人、くそ狩人だって? こっちは命懸けで弓を握ってるんだ。畑でのんびり家畜と遊んでるお前らにはわからないだろうがな!」
「だったら何だってんだ? お前が弱いのは事実じゃねえか」
ニックスは苛立ち混じりに手を振り払った。
「お前ら、今から北の森に行ってこいよ。森の奥で一晩中すごせたら、お前らの靴を舐めるなりなんなりやってやるよ」
ジョアンは自信ありげにいったが、すでに息は切れ切れだった。マートとニックスはお互いに顔を見合わせると、不敵な笑みを浮かべた。
「良いだろう。そのくらい楽勝だ。俺たちが帰ってくる前に、売れるもんは全部売っておけよ」
――
「そのあとのことはあんまり覚えてない」
エルディンは肩をすくめた。
バスチアンは紙を置いた。
「大方、ジョアンのいったことと同じか。ジョアン、以前からふたりと揉めていたのか? 理由を聞かせてもらっても?」
「それは」と、ジョアンは答えた。「むかし、ニックスと女のことで揉めたことがあって……。その時から僕が税を納めずに遊んで暮らしてる、なんて噂が流れだしたんだ。たぶん、あいつらだと思う。確かに、僕は家畜や小麦を納めてはいない。でもちゃんと金納してるし、ギリギリで生活してるんだ。あの時も、酒場であいつらと喧嘩して、ふたりがかりでやられて……。あいつらはずっと僕の仕事を馬鹿にしてた。だから、どれだけ森が危険なのかわからせようと思って、あいつらを北の森へ行かせたんだ」
そこまでいうと、ジョアンは怯えた様な表情を浮かべた。エルディンはその瞳に強い恐れの色を感じ、詳しく訊こうと身を乗り出した。
「北の森というと、怪物が出ると聞いたな。まさか、怪物の姿を見たことがあるのか?」
ジョアンは首を振った。「いいや、声を聞いただけで姿は見てないよ。一か月くらい前、つい獲物を深追いしすぎて、北の森に入ってしまって、帰るころには真っ暗になってたんだ。暗闇の中でどうにか歩いていた時、闇の向こうから恐ろしい声を聞いたんだ。あれはまるで、板を裂いたような叫びだった。それで恐ろしくなって急いで逃げたんだ。すごく、恐ろしい声だった」
ジョアンは涙ぐみ始めた。
「僕は……あいつらに本気で死んで欲しいと思ってたわけじゃない。怪物の声を聞いて、少し大人しくなってくれればそれでよかったんだ」
「落ち着け、まだ死んだと決まった訳じゃない」
「まってまって」と、シーナ。「じゃあそのふたりを探しに森へ行かないといけないよね? それは誰が……」
とはいえ、考えればすぐにわかることだ。よそ者に白羽の矢が立つのは自明の理である。シーナの顔はみるみる曇っていった。
事情を察して、エルディンが立ち上がった。
「俺が探そう。気乗りはしないが」
「やりたいというならそちらに任せる」と、バスチアン。
「報酬しだいで、だがな。いくら払う?」
エルディンは不敵な笑みを浮かべた。
交渉はすぐに終わった。バスチアンの提示した額より少し多いところで話はまとまった。
「15で決まりだ。何かあればすぐに知らせる」
いうが早いか、エルディンは黒く塗られた扉へと向かった。
「ちょっと待って!」と、シーナもそれについて行く。
エルディンがドアに手をかけた時、彼はふと振り返り、机の上で頭を抱えているジョアンを見つめた。
「心配ならお前もくるか?」
だが、ジョアンは顔をしかめながら首を振るだけだった。
「そうか」
エルディンはそのまま背を向けて出ていった。ばたり、とドアの音が空しく響いた。