来訪者.1
夏のあたたかな光につつまれている部屋の隅で、クリフォード・ジェンナーは椅子に座りながらため息をついた。彼のとなりには大きな棚があり、そこには薬草や小さなナイフ、フラスコなどが整然とならんでいる。
クリフォードは医者だ。彼はリーベンという村で娘と暮らしている。しわのない白いシャツ、短く梳かれた髪、剃り残しのないあご。整った身なりが彼の人柄をうかがわせる。だが、その清潔感とは裏腹に、彼の目もとには深いくまが刻まれていた。
この客間は診察室として使っている。貧しい農村では珍しく、この家は床も天井も板張りであり、すべてきっちりと掃除が行き届いていて、隅に置かれたベッドや本棚の下にさえ埃ひとつない。薬草の清涼感ある香気が部屋中にただよっていた。
その部屋で、クリフォードはずっと思案をめぐらせていた。
彼には一年前まで妻がいた。だが、あの出来事のせいで、彼の最愛の伴侶は返らぬ人となってしまった。それから彼の生活は一変した。クリフォードは陽が沈むと、秘密を守るために森へ行かなければならなくなった。
今のところ、秘密の隠蔽はうまくいっている。森へ行く時は、極力人目を避けて歩いた。足跡にも気を配った。少しばかり噂を流し、村人を森に近づけないようにした。そのおかげで、今日まで大きな騒ぎがおこったことはない。
だが、彼にはもうひとつ問題があった。
クリフォードの頭の中で、徐々に焦りや憤りが強くなってゆく。いても立ってもいられなくなった彼はひょろ長い痩身を丸め、こつこつと足音をたてながら部屋中を歩き回った。この家は村の中では大きい方だが、今の彼にはどうにも窮屈に思えた。天井のとがった形のシミが苛立ちに拍車をかけた。
これ以上うろついていてもしょうがない。いったん落ち着かなければ。
しばらく歩き回ったあと、クリフォードは深呼吸して本棚から本を取り出そうとした。
その時、となりの寝室からごそごそと物音がした。娘――ブランカが起きてしまったようだ。彼女はいつも昼すぎまで寝ているはずなのだが、今はまだ正午になっていない。足音で目を覚ましてしまったのだろう。
クリフォードは寝室に向かった。
薄暗い部屋の中で、ブランカがベッドから痩せた体をおこし、血色のよくない顔で父を待っていた。寝おきのせいか長い睫毛の下の目は据っていて、唇が半開きになっており、白いブラウスは少し乱れている。窓から漏れる光が、ブランカの色の薄い髪と面やつれした顔を線状に照らしていた。
「ブランカ、どうしたんだい? 寝ていなくては駄目だろう」
「ごめんなさい、お父さん。ばたばたしてたから気になっちゃて」
ブランカは目を細めて父を見た。クリフォードは申し訳ない気持ちになった。
ブランカはすぐ横の机に置いてある水瓶を手に持ち、コップに水を注ごうとした。だが、いくらかたむけても水が出てくる気配がない。
「ああ、そういえばまだお水を入れてなかったね。すぐに持って来るよ」
そういってクリフォードは客間にある樽に行って水を汲み、なみなみと満たされた水瓶を手にして戻り、コップに水を注いだ。
ブランカはそれを一気に飲みほし、
「ありがとう……」
と一息つくと、ゆっくりとベッドに丸まった。
クリフォードは微笑み、そしてまた考えこんだ。
もうひとつの問題というのは、ブランカのことだ。
今年で十二歳になるブランカは、二年前から消渇病という病に侵されている。ブランカに口渇や倦怠感などの症状が現れて目に見えて痩せはじめた時、クリフォードは彼女が医学書に記されている“若年性の消渇病”を患っているとすぐに気がついた。彼は娘が死の病に罹患したことに愕然として悲嘆に暮れたが、諦念に飲まれることはなかった。彼は占星術や祈祷術といった迷信に頼らず、専門である解剖学と薬学の知識を駆使して研究を進めた。そして、奇跡的に効果のある薬を発見したのである。
だが今は、材料がないため薬を新しく作ることができない。材料のひとつは動物から採れる。いつもはそれを狩人から買い取っているのだが、数日前、その狩人が些細な喧嘩が原因で腕の骨を折ったのだ。
クリフォードは考えあぐねていた。村の家畜をむやみに殺すわけにもいかず、また運わるく弱っている家畜もいなかった。ほかの村人に頼もうにも、狩りの心得がある者はひとりとしておらず、クリフォード自身も狩りがまったくできないのである。
「お父さん、大丈夫? 何か心配事があるの……?」
目を向けると、ブランカが心配そうな表情を浮かべていた。
「ああ、ごめんな。ジョアンのところに持っていく薬をどうするか考えてたんだ。でも大丈夫、もう決めたから。今はゆっくり寝てなさい。もう少ししたらお昼ごはんとお薬を持ってくるからね」
クリフォードは嘘をついた。ジョアンの軟膏はすでに用意してある。薬が少なくなってきているなど、本人の前でいえるわけがなかった。
ブランカは安心したようにうなずくと、静かに目を閉じた。
ブランカのそげた顔を見ていると、クリフォードは神や運命を呪いたくなった。――なぜ、この子なのだ。なぜ、娘が病に苦しまなくてはならないのだ。娘も私も何も悪いことなど何もしていないのに。
クリフォードはそっとブランカに布団をかけた。そして、彼女が寝息を立て始めたのを見届けると、おもむろに立ち上がった。
悲憤慷慨していてもしかたのないことだ。クリフォードは気を取り直し、午後の往診のことを考えた。
その時だった。
コンコン、とノックの音が響いた。
患者だろうか? クリフォードは扉を見つめた。彼の村での立場上、急な来訪はよくあることだ。
クリフォードは娘をおこさぬよう静かに玄関の戸を開けた。
そこにいたのは、ブランカと同じ年齢くらいのかわいらしい少女だった。柔らかな亜麻色の髪を片側だけおさげにして、おっとりしたはにかみ顔を浮かべている。まるで子犬のようなあどけなさだが、どこか芯のある雰囲気も感じられた。
「あ、こんにちは。こちらにクリフォードというお医者さまがいると聞いたのですが」
遠慮がちな声。おずおずと、少女は瑠璃色の瞳でクリフォードを見上げた。
一体どこの家の子だろうか。クリフォードは記憶をたどったが、彼の知るかぎり村に住んでいる誰の子供でもなかった。肩には紺色の厚手のショールをかけ、羽織っている薄水色のチュニックの前かけには大きなポケットがついている。これは北方の様式で、彼が目にするのは久しぶりだった。
「ああ、私がクリフォードだよ。君はど――」
突然、扉の死角から男が現れた。クリフォードは突然の出来事に思わずたじろいでしまった。
陰険な気配をまとった、とっつきにくそうな男だった。男はクリフォードに比べてやや身長が低く、体格はがっしりとしていた。色あせてところどころ破けている焦げ茶色の外套を羽織り、伸ばし放題の髪を束ね、やつれた相貌からのぞくその黒い瞳は猛禽を彷彿とさせた。一挙一動すべてを査問するように冷徹な目つきだった。
男の外套の下に無骨な剣がぶら下がっており、それを見たクリフォードの体がこわばった。
クリフォードが声を失っていると、少女は彼が動揺しているのに気づいたのか、申し訳なさそうにいった。
「あの、ごめんなさい。わたし、シーナ・ルーフェイっていいます。こっちはエルディン」
少女は一歩前に踏みだし、胸に手を当てて頭を下げ、北方式のおじぎをした。
「えっと、エルディンが腕を怪我していて、診てほしいんです」