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怪物は月に哭く  作者: 氏 抹茶
三章 慟哭 Cry For The Moon
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慟哭.3

 ふたりは来た道を戻り、途中で村の広場に行って、畜舎で牛乳を買った。エルディンは値段に文句をいっていたが、これはいつものことである。


 農道で牛の群れとすれ違う。先頭を歩いている少年が振り返った。柵に挟まれた道がずっと続いている。

 

 空は明暗はっきりとわかれていて、西、つまりシーナたちの後ろはどんよりとしていて、反対の東は抜けるように青かった。


 そもそも、本当にクリフォードが人狼なんだろうか? シーナはいまだに違和感をぬぐえないでいた。たぶん、そう。いや、間違いなくクリフォードが人狼なのだろう。だが、信じたくないだけかもしれないが、彼女はどこか釈然としないものを感じていた。


 正義とは個人によって違う。そして、社会的観念における正義――法律や道徳、宗教的観念――は、個人という枠の上に成り立っている。なんじ殺すなかれ盗むなかれ。貧者にほどこしを、喜捨をおこない高潔な者となれ。だがそれは、あくまで個人の安全や社会的地位あっての話である。個人の正義は大衆の正義に勝る。たとえば、生きるためにパンを盗むように、罪を犯した息子をかくまう母のように、あるいは金がないからと孤児を無視するように、人が個人的な思想や主義にもとづいて大衆の正義に背くのはままあることだ。


 考えているうち、シーナはエルディンについてきたことをふつふつと後悔し始めた。知らない方がよかった。もし、クリフォードが人狼だったらと考えると、何故だか申し訳ない気持ちがわきおこってくる。葛藤――自分の信念はどうなの? 流されるだけ? 知り合いだから人を殺した怪物を助けるの? でも友達なんだよ? 


 シーナは過去に吸血鬼の少女を助けたことがあった。エルディンと出会って間もないころの話である。母親――彼女もまた吸血鬼だ――が人を殺したというだけで、人々は無慈悲にも少女に剣を向けた。エルディンもその一人である。彼はシーナが少女を助けたことに憤慨して、その哀れな吸血鬼をシーナともども斬ろうとした。だが、紆余曲折あって彼は吸血鬼を見逃した。


 なので今回も、とシーナは考えたのだが、前回とは状況が違うと思い至った。吸血鬼は人を殺していなかった。だが今回は違う、人を殺している。恐らく、吸血鬼が人を殺していたのなら、シーナは庇うことができなかっただろう。 


 けど友達のためなら――


 シーナはじっとりと汗ばむ手を握りしめた。




 老婆は膝を抱え、穏やかな川のせせらぎと、大地をなでるそよ風に身をゆだねていた。ふたりが橋のたもとに近づくと、老婆はおもむろに立ち上がった。


「意外と早かったねえ」

「俺は回りくどいことが嫌いなんだ」と、エルディン。

「悪かったね、ちょっとした試験だったのさ。ある程度頭がしっかりしてないと、混乱して駄目になっちまうからねえ。占いはその子とやらせてもらうよ」

「え……?」


 暗い顔をしていたシーナが驚いて顔を上げた。老婆は杖をつきながら歩きはじめた。


「きな、こっちに準備してあるさね」


 ふたりがついてゆくと、川が少し広くなったところにござが敷いてあった。


「ほんとはもっと気の利いた場所でやりたいんだけどねえ、宿なしの身じゃ、これが精一杯なのさ」


 ござには六芒星が描かれており、その中心に木の器が置かれていた。


 老婆がござの端に座った。老婆に指示され、シーナは老婆の向かいに座り、エルディンはその横で立つことになった。


「魔力は自然と融和するのさ。川、風、土……、魔術師はそういうじゃろ? わしも、むかしは魔術師を志したもんじゃ。まあ、結局無駄じゃったがね」


 そういいつつ、老婆は器に様々なものを入れていく。何かのしっぽ、乾燥した草、赤い粉、牛の乳、燈台草の汁。


 出来上がった液体は、茶色く、ドロドロしていた。酸味と苦みの混ざったにおいだ。シーナは鼻をつまんだ。


「まずこれをわしが飲む。次にお前さんじゃ」

「え? これを? 絶対いや!」

「ごちゃごちゃいうんじゃない!」


 シーナは何かいいたげに老婆をにらんだ。


「飲んだら、あとは目を閉じて、狼を思い浮かべるんじゃ。それでだけでええ」


 老婆は手にした器をためらいなくあおると、残りをシーナに手渡した。シーナはしばらく器を凝視していたが、意を決してそのにごった液体を飲みほした。


 腐った土の味がする。むせ返るのをどうにかこらえながら、シーナはぎゅうと目をつぶった。


 暗い森、佇立するシラカバたち、恐ろしいほどの静寂、燦々(さんさん)と輝く満月。その中で、やせた灰色の狼が何をするでもなく立ちつくしている。


 老婆は何かを唱え始めた。歌うようになめらかなリズムを刻む。古き言葉――意味はわからなかったが、耳心地はよかった。


 まどろみ。シーナの体は無意識に揺れていた。


 湯につかったときのように体が弛緩する。森が長くなる、大きくなる。狼がこちらを見つめ、近づいてくる。いや、自分が近づいているのだ。徐々にじょじょに――


 狼に触れた。すると、すべてが真っ暗になった。見えなくなった。何もない。


 体が軽い。浮いている……


 光が遠くにある。近づいてくる。


 光に触れた。すべてがまぶしい。


 さまざまな光景が目の前を通り過ぎていった。


 暗い部屋、ベッド、男の背中、薬草の匂い、本棚、オレガノの花。


 ひとつひとつはゆっくりと。でも過ぎてしまうと一瞬で、すぐに忘れてしまいそうな気がする。


 どこかで声が聞こえた。


「お父さん」




 そこで、シーナは目をさました。深緑色の瞳。老婆の顔が目の前にあった。川のせせらぎ、緑の草。暖かい空気。どこにでもあるはずのものが、とても懐かしく感じられた。


 シーナはずいぶんと長い間眠っていると思っていたが、はたから見れば意識を失っていたのはほんの一瞬で、目を閉じた瞬間にたったひとこと呟いただけであった。


「うまくいったみたいさね」


 老婆がいった。シーナはくらくらする頭でうなずいた。まだ口の中がほろ苦い。


「何を見たんだ?」


 と、エルディンはシーナの顔を覗きこんだ。


「クリフォードさんの家、だった。薬草の匂いもおんなじ。クリフォードさんもいたよ。顔は見えなかったけどね。とっても、懐かしい感じだった」


 シーナの体には、今でも感触が残っている。まるで、誰かに抱きしめられたときの温もりのようだった。


「やはりか」


 シーナが見上げると、エルディンは無表情まま、剣の柄頭を握っていた。シーナはそれに焦り、恐怖した。その瞳に、底知れぬ冷たさを感じたのである。


 シーナはおそるおそる訊いた。


「ねえ、やっぱり殺すの?」

「もちろんだ」


 嫌だ。シーナはふらつきながら立ち上がった。そして、すがるようにエルディンの外套を掴むと、瑠璃色の瞳をじっと見据え、怒りや戸惑いそのままにエルディンに迫った。


「どうして? クリフォードさんを殺したら、ブランカはどうするの? ねえ!」

「知らん。怪物は殺す、それだけだ」


 エルディンはシーナをはねのけることもせず、厳然たる態度でいった。


「どうしてそんなことがいえるの? 怪物に家族を殺されたから? だから、怪物を、クリフォードさんを殺すの? でもそれって一緒だよ! エルディンの家族を殺した怪物と同じ、エルディンがやろうとしてることは、同じなんだよ……」


 シーナの目には涙が浮かんでいた。感情がわからなくなる。正義、友達、そんな言葉がぐるぐると回った。奪われる悲しみはもう見たくない。


 そんなシーナにエルディンは怯み、そして、一瞬でも同情したことに苛立ちをおぼえたようだった。


「うるさい!」


 シーナは突き飛ばされ、砂利の上に倒れ伏した。


「余計な口を出すな! わかってる、わかってるんだよ、そんなことは……。だがな、殺さなければならないんだ。悲劇を繰り返さないためにな」

「悲劇? 思ってもないことをいわないで!」


 シーナは擦りむいた左手を押さえながら立ち上がった。


「エルディンは、怒りとか悲しみとか、そういうのをぶつける相手が欲しいだけでしょ? 人を守るためっていうのは建前で、復讐でもない、ただ憂さ晴らしがしたいだけ。違うの?」

「違う!」


 エルディンの呼吸が荒くなり、顔もますますゆがんでゆく。


「ねえ、本当に殺すの……?」


 しゃがれた声。シーナはエルディンの腕に触れた。


「いいか、俺の両親と妹を殺したのはな、人狼なんだよ」


 エルディンが苦しそうにいった。


「俺がまだ九歳の時だ。あいつは、俺が兄と呼んで慕っていた男だった。いい奴だったよ。真面目でやさしくてな。あいつは俺の目の前で母さんを、みんなを食ったんだ。俺がどんな気持ちでそれを見ていたかわかるか? 自分の家族が、内臓を引きずり出されながら死んでいくところを。あの時ほど自分の無力を呪ったことはない」

「エルディン……」


 家族のことは知っていたが、人狼に殺されたというのは初めて聞いた。シーナはショックを隠せなかった。


「エルディンがすごくつらい思いをしたのはわかってる。でもね、それとクリフォードさんは関係ないよ」


 シーナはエルディンの手をやさしく握り、諭すようにいった。


「ああ、そうだろうな。人狼化は自分の意思じゃどうすることもできない。だがな、俺はもうどうしようもないんだ。二十年間、怪物を殺すことだけを考えて生きてきた。いまさら、どうすることもできないんだよ」 

「だからこそ、もう一度考えてほしいの。クリフォードさんにお世話になったよね? ブランカはどうなるの? なにも殺す必要なんかない。村から出ていってもらえば大丈夫だよ。お願いだから考え直して、ね?」


 だが、エルディンは手を振り払った。


「わかった。もういいよ……」


 シーナは寂しそうにつぶやくと、一歩二歩とあとじさった。


「エルディンのばか! この……ばか!」


 このろくでなしのわからず屋! シーナは心の中で叫びながら、紫雲におおわれた村へ猛然とかけだしていった。目的地はただひとつだ。もう、それしかない。


 エルディンと袂をわかつ気はさらさらなかったが、それでも、あらがわずにはいられなかった。とにかく、ふたりのところへ行こう。あとでエルディンが何をいおうと知ったこっちゃない!


 エルディンはそれをただ見送ることしかできなかった。ぎゅっと、こぶしを握りしめる。


「いひひ、若いねえ……」


 後ろで老婆がいった。エルディンは振り返って、何もいわず、ただ蛇のように老婆をねめつけた。


「これも道、あれも道さね。おぬしはおぬしの道をゆけばよい」

「ああ、そうだな」


 エルディンは自嘲した。


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