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怪物は月に哭く  作者: 氏 抹茶
三章 慟哭 Cry For The Moon
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慟哭.2

 昼下がり、クリフォードは目が覚めてからも往診には行かず、ブランカのそばを離れずにいた。彼はずっと、ブランカとこの家の思い出にひたっていた。だが、おだやかな記憶とは裏腹に、迫りくる焦燥感がじりじりと彼の胸を焼いていた。


 ブランカが寝返りをうち、体を丸めると、その指先がクリフォードの手に触れた。細く、小さく、今にも崩れて消えてしまいそうな儚さと、生命の脈動を感じるあたたかさ。クリフォードはその手を強く握った。


 すると、ブランカがたぐり寄せるように彼の手を握り返した。それと同時に目が開く。クリフォードは愛おしく悲しそうに唇を噛んだ。ブランカはぼんやりしたままの瞳で父を見上げ、安心させてあげようと精一杯にほほえんだ。


 ――私の、たった一人の愛するの娘。


 クリフォードは娘の弱々しい笑みに涙がこぼれそうになった。一番つらいであろうブランカに気遣われたのだ。


 クリフォードの中で荒涼とした風が吹いた。もやが晴れ、深雪に足を踏み入れてゆくような感覚になる。


「……ブランカ、話がある」


 クリフォードがいうと、ブランカの表情が険しいものになる。唇を一文字にむすび、やわらかな髪をかき上げて耳をあらわにする。


 きっと、ブランカは知っている。これから何をいおうしているか。クリフォードは押し黙ったままのブランカを見つめた。


「父さんな、決めたんだ。ふたりで、この村を出ようって」


 ブランカはうなずいた。


 悲しみと、小さな期待、大きな不安。それらがブランカの瞳に一瞬にしてうかんだ。仕方のないことだ。運命なのだ。それがブランカにとってどんなに心憂いのか、どんなに苦しいのか。いくら悲観的に自分をとらえようと、つらい感情は嘘をつかない。いくら外への憧憬を口にしても、フランカの顔は沈痛そのものだった。


「こんなことになって、すまない……」


 クリフォードはブランカを抱きしめた。ブランカは父の背中に手をまわし、しっかりと抱きかえした。


 いくしかない。早く準備をしなくては。


 ――


「女からしたたる血、ね」


 エルディンはシーナを見つめた。彼女の向こうでは、収穫後の麦畑が丘のふもとまで広がっている。土の香り、ツグミの鳴き声。畑の真ん中で、牛の見張りをしている少年がふたりの旅人を興味津々に眺めていた。


「……何?」


 シーナが不審そうにエルディンを見上げた。


「いや、何でもない」


 エルディンは目をそらした。その瞬間、シーナはエルディンがいわんとしていることに気がついて、思わず真っ赤になった。


「最低……!」

「別にそういう意味じゃない」

「じゃあどういう意味?」

「言葉どおりじゃない、ってことだ。あれじゃないとしたらどういう意味か、偉大なる魔女様なら何か知ってるじゃないかと思ってな。得意分野だろ?」


 シーナはむっとしたが、すぐに気を取り直した。


「さあ、でも血に関係するのは間違いないと思う。魔術や祈祷、それも怪物に関することといえば血が必要だしね。でも人狼は……どちらかといえば獣に近いと思う」

「ちなみに狼の乳については? 俺には思い当たりがあるが」

「エルディンも? 狼の乳って、燈台草(とうだいぐさ)のことだよね。探せばそこらへんに生えてると思うけど」

「ああ、山のふもとあたりに生えてたな」

「とりあえず、先にそっちに行ってみる?」


 エルディンはうなずいた。ふたりはそのまま正面にそびえている山まで向かうことにした。




 ふたりが真っ直ぐ向かった先は、ちょうどジョアンの家があるところだった。前にきた時とは違い、うしろにある木々は、どうにも生気がないように見える。ジョアンの小屋にかかっている毛皮を見て、またシーナは気分がわるくなった。


 燈台草はすぐに見つかった。山道の入り口近くに、クローバー型の葉を二重三重にして、上の葉に丸っこい緑の花が咲いている植物があった。


 ふたりはそれを二房ずつ摘み取った。


「狼の乳、だね」


 シーナは切り離された茎から白い汁がたれているのをしげしげと見つめた。


「そういえば、この花の毒は人狼に有効だったな」

「へえ、初めて聞いた。だから狼の乳なんだ。あ――」


 その時、シーナの頭に、あるひらめきがおこった。溜まっていた冷水が噴き出したような感覚。シーナは歓喜と快感で飛び跳ねた。


「わかった! わかったよエルディン!」

「いきなりどうした?」


 シーナは満面の笑みでエルディンを見つめた。


「乳だ! 乳だよ!」

「乳? どういうことだ?」

「女からしたたる血って、おっぱ――母乳のことだったんだ!」

「はあ、なるほど」


 シーナの喜びように、エルディンは苦笑した。


「つまり、血というのは母乳だったんだな。じゃあ誰に頼めばいいんんだ? 母乳を下さいっていって、素直にくれる奴がいるのか?」

「わかってないなあ」


 シーナは勝ち誇ったような笑みを浮かべた。


「狼は獣だよ? 獣の母乳じゃなきゃダメ。つまり――」

「牛の乳でいいわけか」

「そう!」

「なるほどな。しかしあの婆さん、初めからそういえばいいのに、面倒くせえ真似しやがって」

「まあいいじゃない、わかったんだから」


 その時、ふたりの背後にある茂みが、がさがさと鳴った。ふたりはそろって振り返った。


「やあ、こんにちは」


 出てきたのはジョアンだった。シーナとは対照的に、暗い表情をしている。太い眉もハの字になっていた。無理もないとシーナは思った。おそらく、彼は人死にの原因を作ったことでことで村中から非難を浴びていたのだろう。いくら相手が憎かったとはいえ、罪悪感もあるはずだ。


「あ、こんにちは……」


 シーナは乳だ乳だと騒いでいたのが恥ずかしくなり、嘘のようにしおらしくなってしまった。


「例の怪物について、進捗は?」ジョアンが訊いた。

「まだ調査中だ」と、エルディン。

「そう、か。ありがとう……」


 と、ジョアンはそそくさと家に入ろうとした。その時、エルディンがそれを引き留めた。


「ちょっと待て、ひとつ聞きたいことがある」

「はい?」

「はじめて会った時、クリフォードの妻が行方不明になったといってたな? それはいつごろの話だった?」

「ええと、一年と少し前……だったはず」

「その前から怪物の噂はあったのか?」

「いや、ボニーさんが行方不明になってからだったと思う」

「ふむ……、怪物が出没し始めたのはそのころからか」


 エルディンは難しい表情になった。


「一年前に何か変わった出来事は? 誰かが怪我をしたとか」

「ああ、そういえばクリフォードさんが怪我をしたなあ」


 エルディンの表情が消えた。


「ボニーさんが行方不明になる少し前だったか、クリフォードは僕と一緒に森に入ったんだ。薬の材料をとるためにね。たぶん、じっとしてるのがいやだったんだと思う。そこで運悪く、狼に襲われたんだ」

「どういうことだ? あいつの怪我は軍医時代のものじゃないのか?」

「いや、クリフォードさんは軍医時代に怪我をしたことはなかったはずだよ」


 ――え? 


 後ろで聞いていたシーナが声を漏らした。あの腕の怪我、あのギザギザの傷跡。あれはたしかに軍医時代につけられたものだといっていた。ジョアンが嘘をついていないなら、クリフォードは嘘をついていたということになる。けど何で?


 シーナは考えた。人狼は狂犬病と関係があるという説もある。そして今、クリフォードが狼に傷をつけられたといっていた。もし、クリフォードが人狼なら、余計な疑いを持たれたくないと、外部の人間に嘘をでっち上げることもありえるかもしれない。それに、もしその説が本当なら、狼につけられた傷が原因で人狼になった、とも考えられる。


 シーナはクリフォードの言動をひとつひとつ思い出していた。


「あっ」


 そして思わず声をだした。もうひとつ、クリフォードが人狼たりうる疑いを持つのに十分な根拠があった。


 ――モーリュの花だ。


 なぜ今まで気づかなかったんだろう。モーリュの花には、魔女退治の逸話があるように、魔除けの効果がある。つまり、クリフォードは人狼の呪いを解くためにモーリュの花を使おうと考えたのかもしれない。クリフォードは医者で、それも消渇病の薬を見つけることができるほど薬学に精通している。なので、呪いを解く薬を研究するために、モーリュの花を手に入れたかったのかもしれない。


 シーナは胸が締めつけられるのを感じた。


 クリフォードが人狼など、想像したくもなかった。でも、彼が人狼だとすれば筋は通る。そういえば、北の森には近づくなと念を押していたし、人狼が現れたと聞かされたあとの態度もどこか変だった。


 シーナはブランカと談笑したときのことを思い出した。もしクリフォードが人狼だったら、彼女はいったいどうなってしまうのだろう。もし、彼が殺されたら――


 シーナはかぶりを振った。まだクリフォードが人狼と決まった訳じゃない。ほかの見知らぬ誰かかもしれない。もしそうなら――とはいえ、それでも心は痛むが――友達が悲しんだり、生きていけなくなったりすることもないだろう。まだ希望はある。


「わかった、感謝する」


 エルディンはジョアンを見送ると、ずっと考え込んでいるシーナに声をかけた。


「おい、戻るぞ。おい、おい!」

「え? ああうん、ごめん……」


 エルディンは暗い顔のシーナを見つめ、そしてその心中を察したように声をかけようとした。だが、結局何もいわなかった。怪物に同情はしない。彼はそういいたげに、暗い面持ちで剣をなでた。

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