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怪物は月に哭く  作者: 氏 抹茶
三章 慟哭 Cry For The Moon
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慟哭.1

 結局のところ、逃げるのが一番いい選択なのだろうか。クリフォードは見慣れぬ山道を歩きながら考えた。


 明け方とはいえ、山道はまだうす暗い。クリフォードは道をあやまらぬようにじっと目を凝らし、崩れかけた土塊や鋭く突き出た岩をよけた。足もとの落ち葉がざわめく。


 クリフォードは疲労困憊だった。寝不足で頭が痛み、力を入れるたびに手足がぎしぎしときしむ。それでもなお、彼は歩き続けた。歩かなければいけなかった。落ち葉を踏みしめながら、彼は山を下り続けた。


 クリフォードは死んだ妻のことを思い出した。ボニーは快活で楽天的な女性だった。クリフォードがこの村を訪れた時、彼女は病に苦しんでいた。献身的に治療した結果、彼女は快復し、すぐに畑仕事ができるようになった。クリフォードは村に留まり、しばらく彼女の様子を見ていた。そうしている内、彼はボニーに求婚された。その時の押しの強さときたら――クリフォードは思わずほほえんだ。


 結局、そのまま押し切られて結婚することになった。正直なところ、クリフォードも積極的な彼女がまんざらでもなかったのである。結婚した翌年の秋にブランカが生まれた。難産だったが、このときはクリフォードの職業が幸いした。


 ブランカの笑った顔がボニーとそっくりで、よく夫婦ふたりで幼少のブランカの目尻を引っ張って困らせたことを、クリフォードは今でも憶えている。彼女の笑顔は、ノヂシャの花のように小さく、とても愛らしかった。


 ブランカが消渇病を患ってから、ふたりは意見を対立させた。生命第一のクリフォードに対して、ボニーは娘の人生を充実したものにしたいと考えていた。短い命でも、楽しく過ごせたら――そう、彼女はいっていた。


 薬を見つけた時は、ふたりで泣きながら抱き合った。なのにその矢先、彼女は死んだ。


 もし、今でもボニーがいれば――


 クリフォードは漠然とした不安にさいなまれた。そう、不安なのだ。ここから逃げたとして、ブランカの病気では、環境を大きく変えることは望ましくない。それ以外にも、さまざまな不安要素がある。 薬は? 住む場所は? そもそも、ブランカが旅に耐えられるのか? 考えればきりがない。


 もしかしたら、怪物が誰なのか見つからないのではないか。そんな淡い期待を――それが甘えなのを知りつつも――クリフォードは捨てられずにいた。だからこそ、彼は苦悩を強いられていた。


 クリフォードは歯を食いしばった。決断せねばならない。今までの暮らしを捨てて、大海に(さお)をさして着くかもわからぬ新天地を目指すか、それともここで祈りながら嵐が過ぎるのを待つのか。


 クリフォードは背中にかかる重みを確かめた。歩いているとしだいに木々が開けて、頭上に空が広がる。薄明。クリフォードは山を下り、明かりが灯り始めた村を誰にも見られぬよう慎重に通り抜けた。


 ようやく家に着いた。クリフォードはブランカをおこさぬようにそっと戸を開いた。ブランカはおきなかった。クリフォードはそこで一息ついてから寝室に行き、ブランカに新しい布団をかけてやると、眠っている娘の顔を見つめた。眉間にしわを寄せ、少し呼吸が荒い。すこし寝苦しそうだ。


 クリフォードはそのままぼうっと立ちつくした。また物思いにふける。


  あの口ぶりでは、恐らくエルディンは容赦しないだろう。ならばいっそのこと、エルディンを殺せばよいのではないか?


 彼は恐らく腕が立つ。殺すなら直接的ではなく間接的な方がいいだろう。毒を使うのがよい。茶に毒を入れて、彼に飲ませれば――


 クリフォードははっとした。馬鹿な考えだ。彼を殺したとして、死体はどう隠す? もし殺したことがばれたら? それに、自らの意思で殺せるのか? 彼を殺したらシーナはどうなる? 


 そもそも、彼を殺したところで次の人間がやってくるだけだ。都市から派遣される調査員か? もしくは討伐部隊か? 生き残る道は針の穴のように小さい。


 クリフォードはぐったりとうなだれた。


 クリフォードはブランカの寝顔を見ながら、握りこぶしを胸に当てて考えた。


 やはり、逃げるしかない。死を伴う岐路(きろ)が迫っている。


 だが、彼はまだ迷っていた。ほとんど臍を固めているとはいえ、暗澹(あんたん)たるイメージが彼の脳裏にこびりついている。ただ誰かに背中を押してほしかった。それは亡き妻か、ブランカか、それともシーナか。誰でもいい、ひとことだけ大丈夫といってくれればよかったのだ。そうすれば、今すぐにでも荷物をまとめることができる。


「お父さん……どこにいるの……」


 ブランカが寝言をつぶやいた。クリフォードははっと我に返り、ブランカの乱れた布団をかけ直した。そして、椅子に腰かけてひじをつくと、ブランカの苦しそうな寝顔を漫然とながめ、知らぬ内にまどろみの底へと落ちていった。


 ――


 シーナとエルディンは農道を歩いていた。すれ違う村人がこちらを見てこそこそと何かを話すたび、シーナは背中を羽でなでられたような思いになった。自分のせいじゃないのに。と、目の前を歩いているエルディンの背中を怨めしくにらみつけた。


 ふたりは村の広場のかたすみに着いた。昨日とは違い、やはり活気が少ない。あたりに並んでいる木造の建物もより暗くくすんでいるように見える。中央では上半身裸の男たちが粗朶を抱えて黙々と歩いていた。恐らく葬儀のためだろう。シーナは何とも神妙な面持ちで閑散とした広場を見渡した。


「ここにはいないのか? 昼はサイロの近くにいるっていう話だったんだがな」


 広場を周りつつ、ふたりは例の乞食の女を探した。だが、女はどこにもおらず、エルディンは面倒臭そうにつぶやいた。


 シーナは一息ついて空を見上げた。雲の流れが速い。もしかしたら夕方には雨が降るかもしれない。


 ふたりは村人に女の居どころを訊こうとしたのだが、村人はみな気のない返事をするか、関わらないように無視するか、まったくもって話しにならなかった。エルディンは悪びれることもなく村人たちに悪態をついた。


「駄目だ。面倒臭えがほかを当たるか」


 エルディンが痺れを切らした。ふたりは広場を出て、水車小屋や畜舎、畑のすみずみまで探し回った。だが、女はどこにもいなかった。


 ふたりは村の東端に流れている小川でいったん体を休めることにした。川は背の高い草のに囲まれ、せせらかに南の丘をそれながら流れている。シーナが小石を水面へ放り込むと、大きなマス飛び上がって逃げていった。ちゃぽんちゃぽんと水がはねる。


 シーナがそのあぶくを目で追っていると、下流に橋があることに気がついた。木製だが、それなりに頑丈そうだ。大きな道が村の畑を半分にさきながらここまで続いている。橋の向こうは街道に繋がっているのだろう。


 ふたりが橋に近づくと、そのたもとにみずぼらしい恰好をした老婆が座り込んでいるのに気がついた。それが例の占い師だと、シーナは直感的にさとった。老婆の持つ気風が、謎めきつつも偶像のような威厳を感じさせたからである。


 ふたりを見つけると、老婆は怪しげな笑みをうかべた。


「やっぱり来たかい。ここにいれば旅人に会えると思っていたよ」

「何いってんだ、俺たちが探したからだろう。どれだけ時間がかかったかわかってるのか?」


 と、エルディンは怒気を露わにした。


「まあ落ち着いて」


 シーナはエルディンをなだめた。そのおかげで、エルディンはむすっとしたままだが、どうにか溜飲を下げることができたようだ。


「おやおや、なかなかいい子じゃないさ」

「ふふん、当たり前です!」


 シーナは得意顔だ。


「それで、わしに何かようさね?」

「ああ、占ってほしいことがある」エルディンが老婆の前にしゃがんだ。「村に人狼が出たというのは知っているか?」

「人狼かい? そりゃ難儀だねえ」


 老婆は透徹した目でエルディンを見つめた。エルディンはそれを冷然と見返した。


「そう、人狼だ。俺たちはその正体を探している。あんたが占いをできるって聞いて探してたんだ。それで? できるのか?」

「あんた、まだそこまで老けてないのにずいぶんと苦労しているみたいだねえ」老婆はおどけた。

「関係ない話をするな。できるのか? できないのか?」

「できる、できるわい。でも占いはずいぶんとやってないのでねえ、今すぐに、というのは難しいの」


 エルディンは舌打ちをした。


「……ではいつまで待てばいいんだ?」

「道具がいるんじゃ、それを持ってくればよい」

「わかった。何を用意すればいい?」 


 老婆は指を折って、ひいふうみい、と数えだした。土まみれの黒い指が折りたたまれるのを、シーナは無いで見守った。


「よし、いいじゃろう」老婆は顔を上げた。「あんたらに持ってきてもらいたいのは、女からしたたる血と、狼の乳じゃ」

「……謎かけか?」

「いいや、そのままの意味じゃ。集めたら、ここまで持ってきな。それと、この哀れな老人に施しを忘れんように」

「チッ、ほらよ」


 エルディンは懐から出した銀貨を老婆に投げつけた。


「こりゃありがたい。親切なあんたに祝福あれ」

「がめついばあさんに災いあれ、だ」

「エルディンも相当がめついよ? ――いたっ!」


 エルディンに叩かれ、シーナはむくれ顔になった。


「まあいい、日が暮れる前に探さないとな」


 そういって、エルディンは踵を返した。シーナもぺこりと頭を下げ、エルディンについて行こうとしたが、それを老婆が呼び止めた。


「のう、おぬし」

「え、なんですか?」

「魔女は元来、狼や梟を付き従える。おぬしは、どう歩むのかの?」


 老婆はじっとシーナを見つめた。その深緑色の瞳は、深海のように重く、どこか神秘めいていた。


「えっと……、わかりません」

「ま、そりゃそうじゃの」


 老婆はからからと笑った。

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