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怪物は月に哭く  作者: 氏 抹茶
一章 来訪者 Visitors
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プロローグ・目覚め

グロテスクな描写があるので苦手な方はご注意ください。

 薄暗い森の中で、怪物は意識を取りもどした。白み始めた空のもとで、林立するシラカバがじんわりと浮かんでいる。森の中は動物や虫の声もなくしんと静まり返っており、空気は凍えるような寒さをともなっていた。静寂の中で怪物はただ茫然(ぼうぜん)と、異形の体を糸のようにゆらめかせながら立っていた。


 怪物の意識が徐々に覚醒し始める。それと同時に、体中をじくじくと毛虫が這い回るような痛みに襲われた。


 怪物は混乱した。この痛みはいったい何なのか、どうしてここにひとりでいるのか。怪物はずきずきと痛む頭を押さえて考えた。家族とともに薬草を摘みに森へ出かけたことは憶えていたが、それ以上はよく思い出せない。なぜこんなところにひとりでいるのか、一切が判然としなかった。


 怪物は痛みに耐えながら、気を落ち着かせようと目をつぶり、こぼれてくる涙をぬぐった。しかし、その手の感触は、怪物自身がよく知っている滑らかな肌ではなかった。濡れたブラシのようなものがまぶたをなで、ただよう生臭さが鼻をついた。


 その瞬間、怪物は初めて自分が人間ではないことに気がついた。動悸が激しくなってゆく。


 怪物はまぶたに残る未知の感覚におののきながら、恐る恐る視線を下に向けた。


 人の物ではない毛むくじゃらの手があった。灰色の毛におおわれ、黒く鋭い爪がギラリと伸びている。目をやれば、胸も、腹も、足もすべて灰色で、そこに人というものは残っていなかった。


 怪物は呼吸を忘れるくらい全身が冷たくなり、恐怖と緊張で胸が杭に打たれたように痛んだ。


 そして、怪物はさらに恐ろしいことに気がついた。足もとが真っ赤に染まっている。血を吸いこんだ土や落ち葉が波立っている。真っ黒なそれは、まるで奈落の入口ように感じられた。全身をおおう獣毛は、吐き気をもよおすほどに強い鉄のにおいを放ちながら濡れそぼっていた。


 一瞬、この血が自分のものなのかと怪物は思った。だが、すぐに違うとわかった。


 背中にぬるりとした気配を感じる。


 ()()がある。見たくない何かがそこにある。血だまりの中に無言でたたずんでいる。


 ねばつくような恐怖。振り返れば後悔することになると、怪物の本能が警鐘(けいしょう)を鳴らしていた。しかし、それとはまた別の考えが頭をよぎる。怪物は恐怖に支配されながらも、どこかで感じていた。それを見なくてはいけない。今おちいっているこの状況の答えがあるかもしれないと。


 意を決して怪物は振り返った。ゆっくりと体をひねり、そこにあるものを見た。


 血と内臓。四辺に散らばった肉片と、剥きだしになった骨。赤と、ピンクと、黄色。そこには人間だったものが散乱していた。かすかな光に照らされて、ちぎれた手足や赤黒い物体がぬらぬらと光を放っていた。


 恐怖で世界がちかちかと点滅する。怪物の意識が混濁し始めた。嗚咽(おえつ)が止まらず、のどの奥から吐き気がこみ上げてくる。目をそらしても、一面が血と肉片におおわれ、目をつぶっても真っ赤な残像がまぶたに浮かぶ。


 これは夢だと、怪物は思った。夢だと思いたかった。


 ゆっくりと右足を動かし、怪物は歩き出す。一刻も早く森を出たかった。そうすれば夢から覚めると思ったのだ。

 

 その矢先、何かが足に当たってごろりと転がり、怪物は思わずそれを目で追った。そしてそれに釘づけになった。


 ひじから先しかない血まみれの左手。血の気を失い、土に汚れている。怪物は力なく開かれた手の中で、白銀に輝く指輪を見つけた。


 指輪、この人は――


 その時、怪物の頭に遠い日の悪夢のような光景が流れこんだ。金属を擦り合わせたような悲鳴、見開かれた悲しい目、腹部からこぼれる内臓、地面に落ちた肉塊。


 がらりと、怪物の中で何かが崩れた。おぼろげながらも怪物は思い出した。自分がこの人を殺した、自らの手で愛するひとを引き裂いたのだと。


 もはや考える力さえ残っていなかった。怪物は抜け殻のような心持ちのまま、消えゆく名残り月に慟哭(どうこく)した。喉を引きしぼり、何度も何度も、悲痛な声を張りあげる。どこかで狼の声が響いていた。


 そして、怪物の意識は暗転した。

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