元就の死
前話を一部修正し、1570年のお正月から1571年としました。
才菊丸は名前を変えた。
元就に命じられて大田英綱の領地を継ぎ、大田元綱を名乗る。
家老として白井景俊を付けられ、幼いながらも家臣を持つ身となった。
醤油の製造と硝石丘法の開発という重大案件を任され、その胸には戸惑いばかりが浮かんでいた。
「どうして僕が? 僕ってまだ子供だよね?」
元就に期待されていると喜んでいるのは母や兄達のみで、自身はとんでもない事になったと大いに悔やんでいた。
現代知識無双を夢見ていたが、この様な責任が発生しそうな状況は勘弁である。
マヨネーズを作ってドヤ顔をするといった感じで良かったのに、これでは働くのと同じではないかと思う。
前の人生では働く年齢に達していなかったし、今回と併せてもまだまだ早い筈だ。
どうしてこうなったのだと、自身の軽率な発言を反省していた。
「才菊丸ちゃん、頑張るのよ!」
とはいえ励ます母の存在に、やるしかないのかと考えを改めた。
「白井よ」
「はい、元就様」
布団に臥せた元就の近くに景俊が侍る。
元就は正月が明けてから調子を崩していた。
「お前を家老としてあの者に就けるが、補佐と共に監視する為でもあるのだぞ?」
「心得ております」
権謀術数深謀遠慮でここまでのし上がって来た元就の指図であるので、そう単純な物ではないと景俊は思っていたが、その予想は当たっていた様だ。
「醤油だけでも大した手柄であるのに、硝石の作り方だと? それが成功したらどうなる?」
元就が独り言の様に呟く。
「毛利家を率いるに足るのはあの者だと、後先考えずに言う輩が出るに決まっておる! 戦働きもした事がない幼子であるのに!」
幸い、一族の中でその様な揉め事は起こっていないが、これまで争ってきた勢力の家中では良く見た事案だ。
寧ろ元就がそうなる様に仕向けてきただけに、家督争いの恐ろしさは嫌という程理解していた。
「輝元は凡庸ではあるが、当主を任せられぬ程ではない。しかし、当主としての実績を積まぬうちに、別の者が目立てば家臣に要らぬ動揺が走ろう」
それを心配した。
「醤油の実績だけで今は十分だ。景俊よ、硝石の結果が出るのを出来る限り延ばすのだ」
「はっ!」
その人となりを元就に見込まれた景俊は、二心のない顔で答える。
「硝石自体は毛利家に必要だが、それによって家が分裂するのでは本末転倒なのだ」
「はい」
「あの者は結果が出るのは5年と言っていたが、出来ればもう5年、都合10年は先延ばしにする事を目指せ」
「心得ました」
それだけの時間があれば十分であろう。
「10年あれば輝元も27歳だ。それまでに当主としての実績を残せればそれで良し、駄目ならば元春らが考えるだろう」
自分がそこまで生きられそうにないのは分かっている。
仮に生きていたとしても、その歳まで何の実績も残せていない跡継ぎであるなら、早目に隠居させて才能ある者に継がせるかもしれない。
それもこれも毛利家の安泰の為だ。
「家の存続を一番に考えるのだ。正当な跡継ぎがいるにも関わらず、中途半端に優秀な者を担いで家を二分させるくらいなら、凡庸な主の下で家臣一同団結し、現状を維持していた方がマシである」
自分に匹敵する者でなければ、未だ群雄が割拠するこの時代で、毛利家の版図を維持するどころか下手をすれば没落する可能性も大である。
少なくともこれ以上、領土の拡張は望めそうになかった。
「まあ、そんな憂慮を軽く打ち砕く、並外れた器量持ちであるのならば話は違うのだがな」
末っ子を思い浮かべ、元就は呟いた。
その器量を計るには流石に時間が足りていない。
頭は回りそうだが、それだけでは戦を勝ち残れないのだ。
どれだけ用意周到に準備しても、一か八かの賭けに出なければならない場面が出てくる。
その時に勇気を振り絞って全力で乗るのか、それとも計算高く潔く降りるのか、瞬時に決断せねばならないのが当主たる者の勤めである。
輝元にその決断が出来るとは思えない。
優柔不断のまま先延ばしにし、時機を逸するのがオチに思われる。
隆景や元春がいるうちは問題が出ないだろうが、二人がいなくなった後にはどうなるのか不安に思う。
「毛利家は天下を望んではならぬ」
その心配があったからこそ、元就はそれを家訓として残すのだった。
「お醤油は磯部ぇがやればいいじゃん」
才菊丸改め元綱が不満顔で言った。
年上なので始めはさん付けしていたが、身分が違うのにとんでもないと抗議を受け、止む無く友達風にして誤魔化している。
それは兎も角、両方も出来る訳がないと思う。
「手前は味噌を作る事には通じておりますが、商売の事などさっぱりです。醤油を作る事は味噌と似ているからまだしも、その為の軍資金を自分達で調達しろと言われましても、何をどうすれば良いのか……」
昌弘が弱気に言う。
元就の指示では作って売るまでがセットで、その為の費用も自分達で集めろとの仰せである。
その様な事をいきなり言われても、どうしたらいいのか分からない。
「自分で売るなんて考えなくても、商人に任せればいいじゃん」
元綱はなげやりに言った。
自分も良く分からないのだ。
「任せると仰られても、一体誰にでございますか?」
「知らないけど、お城に出入りしている商人がいるんじゃないの?」
「大豆を納めに来る者らは知っておりますが、その者らに高価な醤油の販売を任せても困るだけだと思いますが……」
「僕たちも困ってるんだから、一緒に困って貰えばいいじゃん」
「そんなご無体な……」
元綱の言葉に昌弘が困り果てた。
心情的には同意したい所だが、流石に彼らに申し訳ない。
「城に出入りしている商人に物を頼むのは厳しいかと」
話を聞いていた景俊が助け船を出した。
どういう事かと二人は彼を見る。
仕方ないので事情を説明した。
「隆元様がご健在であった頃は良かったのですが、元就様を始め元春様も隆景様も商人には余り信頼されておりませぬので、醤油作りの資金調達等を頼むのはどうかと」
初めて聞く話に元綱が不思議そうに尋ねる。
「どうして信頼されていないの?」
素朴な疑問であった。
「いえ、某にもそこまでは分かりませぬ」
無表情で答える。
「じゃあ、直接聞きに行くしかないね」
商人の下を訪れる事になった。
一行は安芸高田の商人高田松次郎を訪れていた。
吉田郡山城から江の川を少し下った所に屋敷があり、軍資金の提供を求めた元就を追い返したという逸話を持つ人物である。
今回の目的には最適に思われた。
「お店にお醤油が売ってあったけど、高かったね」
「そうですね」
店内に置いてあった醤油を見つけていた。
その値段は他の物に比べて高い。
「半額でも元が取れるんじゃないの?」
「味噌があの価格ですから、絞ったり火入れをする手間を考えてもそんな気が致しますね」
昌弘とその様な話をしている時だった。
「この度は態々私どもの家までようこそおいで下さいました」
やって来たお店の主人は年の頃50を越えているだろうか、元就を追い返したという割には優しそうな人物に見えた。
「どうして父上の事を信頼していないの?」
挨拶もそこそこに、単刀直入に元綱が尋ねた。
そんな不躾な質問にも嫌な顔をせず、淡々と答える。
「かつてこの様な事がございました。商売上の問題を解決する事を条件に軍資金の支援をさせて頂いたのですが、いざ約定を果たす段になって有力な国人衆が反対し、結局約束が反故にされたのです」
「あー、それは……」
ありがちな駄目なパターンだと思った。
「石見銀山を手に入れられてからは、軍資金の確保に困られなくなったからか、私どもの訴えに耳を貸して頂ける事が少なくなったのでございます。我々を大事にして頂けない方を、我々が信頼出来るでしょうか?」
「何も言えないです……」
返す言葉が無い。
「でも、隆元様は違いました」
「それも聞きたかった事なんだよね」
その違いは何なのか。
「隆元様は我々の事情を考えて下さり、解決の為に尽力して下さいました。時に元就様の方針に逆らう事となろうとも、です」
「そういう事かぁ」
それなら納得出来る。
「本日はその事をお聞きに来られたのですか?」
「うーん、本当は商売をするのにお金を貸して貰いたかったんだけど、いいよ」
事情を聞けば理由は良く理解出来る。
協力の要請は無理そうだ。
「何の商売なのかお聞きしても?」
こんな幼い子が何をするのか気になったのであろうか。
「お醤油を作って売ろうと思ってるんだけど……」
「お醤油でございますか? 作る?」
醤油を作るという意味が飲み込めずに問い返す。
「磯部ぇ、詳しい作り方は内緒だけど説明してあげて」
「はっ!」
元綱に指名され、昌弘は醤油の新しい作り方の概要を説明した。
「まさかそんな事が?!」
信じられないといった風である。
「毛利家を信用出来ないんだから、僕が何かを言っても無駄だよね?」
「これは一本取られましたな」
「いや、そういう事じゃなくて」
冗談を言い合いにやって来た訳ではない。
「では、本当に?」
「だからもういいよ。自分達だけでやるから」
信用されていない以上、松次郎に答える意味はなかった。
「若、どうされるのですか?」
気になったのか昌弘が問う。
「もうさ、作ったお醤油を樽ごと担いで町に売りに行こうよ。溜まり醤油の半額だったら、買う人は多いと思うんだよね」
「成る程! では、作る費用はどうされるのですか?」
「今あるお醤油一樽を売った分だけで始めればいいでしょ? それ以上の事は知らないよ。だって何も言われていないんだしさ」
「それもそうですな!」
何の目標も設定はされていない。
好きな様にやればいいのだろう。
そんな二人の会話を耳にし、松次郎が提案した。
「では、その全てを私が一括して買い取りましょう」
「え?」
思ってもみなかった言葉に、元綱はキョトンとした顔で松次郎を見つめた。
「いえ、丁度お醤油を切らしてまして、買おうと思っていた所なのです」
「そうなの? 全部買ってくれるなんて僕たちもありがたいけど、一樽って結構あるよ?」
「それは大丈夫です。使用人もいますから、意外に量を使うのです」
「そうなんだぁ。じゃあ、今から持って来るね」
「そうして下さい。代金は用意しておきます」
「えーと、こういう時は何だっけ……」
思い出そうとして記憶を探る。
幼い顔がパッと笑顔になり、笑って言った。
「毎度ありぃ」
「こちらこそ」
そんな様子に、景俊は笑い出しそうになるのを必死に堪えていた。
そして元綱が醤油を売り切り、新たな醤油の仕込みを終え、次は硝石丘法だと思っていた頃の1571年7月6日、策謀に長けた戦国大名である毛利元就は、その74歳の生涯を閉じた。
次話で硝石丘法について少し触れ、10年時間を進めます。