乃美の子育て
才菊丸が生まれてから年が変わった。
「ほら、才菊丸ちゃん頑張って!」
母に励まされ、才菊丸は四肢に力を入れ、懸命に立ち上がる。
日頃から訓練を積んでおり、物を掴みながらなら立つ事が出来た。
今日は物を持たずに立つ事を目指している。
震える足を気力でねじ伏せ、まずはその一歩を踏み出した。
「ほら、こっちよ!」
両手を出して自分を手招きする母に向かい、もう一歩を踏み出す。
そして倒れ込む様にして母の胸に飛び込んだ。
「ははうえー」
「歩けたねぇ! 偉い!」
乃美は我が子を抱きしめ、頬ずりする。
才菊丸は嬉しそうに身を任せた。
彼は母に甘えた記憶が殆ど無い。
初めは気恥ずかしかったが、本当の事を言えば母親に甘えたかっただけに、一度やってしまえば恥ずかしさは無い。
以降、事あるごとに母の体にしがみつくのだった。
抱きつくたびに幸福感があり、安堵があった。
転生出来て良かったと心から思う。
そんな彼であったが、甘えるまでの心の逡巡を、母である乃美に気取られていたとは知らない。
(どうしてこの子は甘えるのを躊躇うのだろう?)
それはハイハイを始めた頃だった。
抱きかかえても、こちらにしがみつかない感じがした。
何だかよそよそしく、どうしようか迷っている風に思えた。
何かの弾みでこちらに倒れ掛かった折にも、「ごめんなしゃい」と言ってすぐに離れようとした程だ。
乃美は何とも言えない悲しい気持ちになり、何も言わずにぎゅっと才菊丸を抱きしめた。
そんな母に才菊丸はビクッと固まっていたが、放そうとしない間に緊張を解いたのか、その小さな手で乃美を抱きしめ返すのだった。
初めはおずおずと、やがてしっかりとである。
(遠慮していたの?)
どうしてこんなに小さな子がと思う。
(でも、優しい子。凄く優しい子)
それは強く感じる。
(きっと大きな天命を得て生まれてきたのだわ)
この年にして言葉を喋れるなど、そうとしか思えない。
(だとしたら天命を無事に果たす事が出来る様に、しっかりと学ばせてあげないといけないわね)
改めてそう決意した。
(でも今は私の子……)
更にぎゅっと抱きしめた。
「それでね、ここは貴方のお父様である元就様が治める国なのよ」
乃美は才菊丸を取り巻く環境を説明していった。
才菊丸はフンフンと頷きながら聞いている。
本人が希望した話でもあった。
「元就様は安芸国から身を起こし、一代で中国地方を支配する大大名になられたのだけれど、周りには尚も手強い相手が多いの」
そう言って諸大名の勢力図を描いていく。
「豊前の大友宗麟、京の三好、尾張の織田信長」
その名に驚く。
「おだのびゅなが?!」
「才菊丸ちゃん知ってるの?」
才菊丸は日本の歴史を大まかにしか知らない。
毛利元就の名は初めて聞いたのだが、織田信長は好きな漫画の主要なキャラであり知っていた。
本能寺で斃れた際に異世界に転移し、島津豊久や那須与一らと共に大暴れする作品である。
「のびゅのびゅつおい!」
「そうね、東海道一の弓取今川義元を討ち、上洛を果たした今、最も勢いがあると言えるわね」
この頃、足利義昭を戴いた信長は京へと入っている。
「でも、甲斐の武田信玄、越後の上杉謙信、小田原の北条もいるわよ?」
「たけや、うえしゅぎ、しってりゅ」
その辺りは有名どころであろう。
「強敵が多いのもそうなんだけど、毛利家の中にも難しい問題があるのよねぇ……」
「しょれは?」
才菊丸は問うた。
「元就様は国人領主から身を起こしたんだけど、周りには同じ様な力を持った勢力が多かったの。姻戚関係を結んで取り込んだり、攻め滅ぼしたり、毛利家の支配体制を作り上げたのは最近の事なのよ」
「へぇ」
単語の意味が良く分からないが、とりあえず頷いておく。
「嫡男の隆元様がお亡くなりになった今、元就様の御子息である吉川元春様、小早川隆景様共々団結しているからいいけど、元就様もご高齢だし……」
「じーじ」
「ちょっと才菊丸ちゃん! そんな事を他の人のいる前で言わないでね?」
「はぁい」
才菊丸の言葉を乃美は窘め、続ける。
「毛利家は大大名だけど、その支配体制は必ずしも盤石じゃないのよ」
「ふぅん」
想像がつかなかった。
「でね、盤石ではないとは言っても、私は元就様の正室ではないから、才菊丸ちゃんがどんなに賢くても毛利家での出世は難しいのよ……」
毛利家では元就の正室妙玖の子、隆元、元春、隆景に重きを置き、側室の子らは余程武将として優秀でなければ重用されなかった。
元就の嫡男隆元は才菊丸が生まれる4年前に亡くなっており、その後を継ぐのは隆元の子輝元(15歳)となっている。
才菊丸の賢さは十分だと思うが、将には戦での強さが必要である。
優しい才菊丸には難しのではと思う。
「こんな母親で御免なさい……」
乃美はシュンとなって言った。
大きな天命を持って生まれてきたと感じる我が子であるが、母として力添えが出来そうにない事に申し訳なく思う。
言われた才菊丸はキョトンとした。
毛利家での出世と言われても何の事か分からない。
生まれた時には魔法を使って冒険をしてみたいと思っていたのだが、魔法の無い世界と知ってそれは諦めている。
今は母との時間を大事にしたい。
「しゃいききゅまりゅは、ははうえのもとにうまりぇてきて、とおてもしあわしぇでしゅ」
「才菊丸ちゃん?」
落ち込む母親に言う。
「ははうえ、だいしゅき!」
そして抱きついた。
乃美は感動し、強く抱きしめた。
「私もよ!」
吉田郡山城で繰り広げられていた母子の日常である。
「この吉田郡山城は安芸にあるんだけど、周りは山ばっかりなのよね」
「でしゅね」
縁側に立って外の景色を眺める親子が言った。
塀を越えて目に入ってくるのは周りの山々の姿ばかりである。
「強い国を目指せば、平野に進出して開発を進めないとね」
「でしゅか?」
「ここだと石高もたかが知れているもの」
国の将来を見据えた展望が語られていた。
そんな母子に声が掛けられる。
「そんな話を幼子に……。あんまり早過ぎませんか母上……」
「母上は何を言っているの?」
「あら、二人共」
現れたのは乃美の産んだ息子達であった。
元清(17)、元政(9)の二人である。
既に元服している元清は、今は別な所で寝起きをしていた。
「ほら、才菊丸ちゃん、お兄ちゃん達ですよ~」
「に、にーに」
才菊丸はチョコンと頭を下げた。
そんな弟を、元清は不思議な物を見る目で見つめる。
「えっと、才菊丸は確か1歳にもなっていない筈でしたよね?」
「そうだけど?」
元清の質問に乃美は首を傾げた。
「いえ、色々とおかしいのではないかと思いまして……」
ぎこちないが一人で歩いているし、会話も成り立っている様だ。
弟の元政や他の子供達の事を知っているが、そんなに早かったかなと思う。
乃美が言った。
「普通よりは早いけど、何もおかしい事は無いわよ?」
「そ、そういう物ですか?」
「そういう物よ」
母の断言に元清は納得せざるを得なかった。
その夜、才菊丸が眠りに就いた頃、乃美は元清達を呼んだ。
「あの子は何か大きな天命を持っていると思うの」
母から切り出された話に元清は面食らう。
しかし、母親がそう思うのならば昼の事も理解出来た。
「それであの様な話を聞かせていたのですか?」
「そういう事よ」
英才教育というヤツであろう。
「二人共、才菊丸ちゃんを助けてあげてね」
これも3本の矢の教えには違いない。
「母上、ご心配には及びません。我ら兄弟、元より助け合うつもりでございます。なあ、元政?」
「はい、母上!」
「ありがとう!」
兄達の言葉にホッと安心する乃美であった。
元清の述べた事は嘘ではなく、以後3兄弟は良く協力し合い、助け合っていく事となる。
1568年頃の大名図(大まかなイメージ)
図はイメージです。




