才菊丸の生誕
吉田郡山城にて。
「生まれたか?」
「殿、元気な嬰児でございますよ」
「そうか! して、乃美は?」
「居室にて休まれております。」
「良し!」
部屋へと急ぐ。
「乃美!」
「お帰りなさいまし」
「おお! 元気に飲んでおるのぅ!」
母親のお乳を吸う赤ん坊の姿に、城の主毛利元就が歓喜の声を上げた。
用事で他所から帰ってきた所で、生まれた瞬間には立ち会えずにいた。
齢70にして生まれた我が子である。
最近は体の調子を崩しがちであったので、沈みがちな心が上向く出来事であった。
「乃美、大儀であったな」
「かたじけのうございます」
継室の乃美に声を掛ける。
彼女は腕の中の赤ん坊を愛おしそうに眺めた。
「で、どちらだ?」
「男の子でございます」
「でかした!」
お乳に満足したのか盛大なゲップをし、途端にスヤスヤと眠り込んでいる子を見つめ、元就は嬉しそうに言った。
そうとなれば相応しい名前を考えねばなるまい。
「よし! この子は才菊丸と名付けよう!」
「才菊丸でございますか? 良い名です」
1567年、中国地方の覇者毛利元就の九男才菊丸、後の秀包の誕生であった。
一方の才菊丸は、手術の前の麻酔が効き始めた時の様なまどろみの中で考えていた。
(あれってやっぱり日本語、だよね?)
目は開かないが耳は割としっかり聞こえていた。
両親と思わしき人物の交わした会話を、朦朧とした意識の中で覚えている。
(殿って言ってた? ヨーロッパ風の異世界じゃないのかな?)
テンプレでの転生先は中世のヨーロッパの筈だ。
転生という願いが叶ったらしい事は体が打ち震える程に嬉しかったが、異世界ではなさそうな事が気にかかる。
というのも、
(魔法はあるの?)
魔法が無ければ空を飛ぶ事は難しいだろう。
(まあ、今はいいか。眠いし)
しかし今は眠気の方が強い。
才菊丸は深い眠りへと落ちていった。
(なろうのテンプレだと、いきなり言葉を話すとか、危険だよね?)
起きている間の意識の覚醒している短い時間を使い、思考を巡らせる。
その様な展開の作品を読んだ事があった。
前世の知識やチートな能力がある事に油断し、赤ん坊の内からその能力を自慢気に披露して周りに猜疑心を抱かせ、悪魔が憑いたとして村から迫害されるお話である。
ここではどんな風習や規範があるのか分からないので、下手な振る舞いは不味い。
(今は大人しく待つだけだね)
状況をしっかりと把握するまでは、殊更に目立つ事をしてはならない。
才菊丸は自戒した。
幸いな事に、待つ事には前世で散々に慣れている。
手術後の数週間はベッドで安静が必要であったし、日常の検査にも長い時間が掛かるからだ。
(魔法は無いみたいだし)
テンプレでは体内を巡る魔法の力を感じ、練る事によって赤ん坊の内から修行が出来た筈だが、どうにもそんな力は感じない。
聞こえる話からも魔法はなさそうである。
(それは仕方ないよね。漫画の続きでも考えようっと)
それは習慣と化していた癖である。
体を動かせない時には空想くらいしか楽しい事が無い。
漫画の続きがどうなるのか予想し、読んで確かめた時の期待の裏切られ具合を喜ぶのだ。
と、そこで気づく。
(あ! もう読む事は出来ないのか……)
初めは転生出来た事を単純に喜んでいたが、好きな漫画を二度と読めないかもしれない事に打ちひしがれる。
ネット通販を利用出来るチートでも無ければ難しいだろう。
(そう、だよね……。転生するって事はそういう事なんだ……)
それに、もしもここが中世レベルの世界であったら、便利だったあんな物やこんな物も存在しないという事だ。
(スマホどころかパソコンも無いよね……)
スマホさえあれば好きな漫画もなろう小説も読めた。
手元にスマホが無さそうなので、スマホを使っての異世界無双も待っていそうにない。
続きが気になるあの漫画を二度と読めないかもと思うと途端に寂しさが募り、悲しみの余り才菊丸は泣いた。
「はいはい才菊丸ちゃん、おっぱいが欲しいの?」
我が子の泣き声を鋭敏に聞きつけ、母である乃美が駆け付けた。
吉田郡山城