想い出の記念に
国境の牛小屋はまだ健在だったが、見ないうちにすっかり荒れたようだ。屋根は風で枝が引っ繰り返っている上、地面はぬかるんで泥に浸かったようになって、小屋も少し傾いている。
「ボロボロみたい……」
アフラがそう言うと、アルノルトが泥の中を小屋の中まで歩いて行った。
「泥が溜まって小屋の中もドロドロだ。水捌けが悪いんだ」
マリウスも小屋を一周見て回って言った。
「ホントにドロドロー。やっぱり屋根はダメダメだったね。でも僕等がやったんだった!」
「僕もやったな。もっといい屋根の作り方を習っておきたいね」
「そう言えば僕、布を屋根に投げて雨漏り少なくしてたんだ。それも飛んじゃってる」
イサベラが思い出すように言った。
「確かにそうなってたわ。あれはそういう事だったのね。私が後で戻したのだけど。それも想い出ね」
マリウスは「あんまりいい想い出じゃないね」と笑った。
イサベラもそれに答えるように笑い返した。
「いい悪いだけじゃないわ。あの時、ゼンメルの治療の為の小屋を作ればいいと私が言い出して、無理と言われたけど、ラウフェンブルクの方々が土地を貸して下さって、この小屋を作るのにウーリのみんなが協力してくれた。ほんのひとときだったけど、私はゼンメルを護ることが出来た。皆の協力を得られた事も素晴らしかった。そんな全部のことを少しだけ誇らしく思うわ。全部が想い出なのよ」
イサベラは思い出深そうに小屋を見ていた。
マリウスも言った。
「僕も。僕も屋根の葉っぱを取って集めたり、紐で結んだりした。まあ雨漏りは酷かったけど……。ウーリから藁を届けたのも初めての仕事だったんだ。その時は友達のポリーも一緒に僕の馬車で来てね。もう忘れられないよ。ここが無くなっても、ずっと想い出だね」
「マリウス君にも想い出になって、とても嬉しいわ」
イサベラがとてもいい笑顔になったので、アフラが言った。
「想い出がいっぱいね。マリウスは始めの日、私の為に一緒に来てくれたのよね。その日来るときに私、牛に突かれて怪我しちゃって……」
「じゃあ、あの時にはもう怪我をしてたのね?」
「ええ。痛いのを我慢してたの。ここへ来るまでにも色々あって、りんごやお菓子貰ったりして、それを皆でここで食べて。ここには本当に想い出がたくさん。これももう撤去してしまうのね……」
アフラがしみじみとそう言った。
「牛に餌を与える人に祝福を……か。これはもう外した方がいいね」
看板を見て、アルノルトがそう言った。
「そうね」
イサベラがそう言うと、アルノルトは釘で留めた看板板を引っこ抜いた。それはアルノルトが形の悪い丸木を薄く割って平らにし、イサベラが字を書いたものだ。
「それ、私に下さるかしら?」
「いいよ」
アルノルトは釘を石で打って外してから、看板をイサベラに渡した。
「想い出に取っておくわ」
「これを? 少し重いよ?」
「いいの」
イサベラはそう言って、それを大事そうに抱えた。
「ブルグントに行く時に荷物にならないかい?」
「私には優秀な護衛達がいますもの。でも、乗る人も多いから、馬車が一杯になってしまうかしら?」
イサベラの目がピエールに向けられ、ピエールは思わず目を反らした。
騎士が亡くなり、その遺体を運ぶためにオーギュストが別の馬車を手配していて、もうこちらへは帰らない事は、まだ知らないはずの事になっている。
「まあ、何を持って行くかは自由だ。どこか壁に飾ってしまえば邪魔にはならなそうだし」
アフラが手を打つようにして言った。
「どうせなら、記念に皆で名前を彫っておきましょう!」
「まあ。嬉しい! 寄せ書きね」
「僕も書くよ。僕が割った板だし」
そう言って順番に、看板の木に名前を彫り始めた
エルハルトはその間、国境の看板を見に行っていた。
元の国境の場所には今や立派な立て札が立っている。
エルハルトはその立て札の前で、その国境を出たり入ったりしてウロウロしていた。
「何をしてるんです?」
クヌフウタとペルシタがそこへやって来た。
「ああ、ここはウーリとニートヴァルデンの国境でね。ウーリに入ったと思うと心が落ち着いたもので、ちょっと出てみたんですよ」
「出たらどうなります?」
「ええ、やっぱりちょっと不安になります」
「国境でそんなに変わるものなんですね。私はどうかしら?」
クヌフウタとペルシタもそれを同じようにやってみて、「変わりませんね」と首を捻るのだった。
「兄さーん! クヌフウタさんも! こっちで書いて!」
アフラがそう叫んで呼びに来た。
そしてエルハルトも、そして小屋を建てた時にはあまり関係の無かったクヌフウタ、ペルシタも板に名前を刻んだ。
イサベラが書き終わった板を眺めて言った。
「書いてくれてありがとうございます。大事にします」
それから、アルノルトは肝心なことを思い出した。
「ところでだ。アフラはエンゼルベルクからいつ帰る? 迎えがいるのか?」
アフラはモジモジと肩を揺らした。
「いつにしよう。しばらく帰りたくない……怒られる……」
その途端、エルハルトが怒って言った。
「世の中には帰りたくても帰れない人だっているんだ! 怒られるのくらい判ってたんだろう! それでもやるんなら、自分で最後まで通して責任を持てる行動をしろ!」
「はいぃ!」
アフラはエルハルトがいつになく怖い顔だったので、怖くて縮み上がった。それでもエルハルトは行ったらダメだとは言ってない。アフラはしっかり前を見て、もう一度考えた。
「私、クヌフウタさんに薬草のこと習いたいの。これは今しか出来ない事だわ。確かクヌフウタさんは、簡単な事なら三日って言ってましたね?」
クヌフウタは頷いた。
「ええ。三日あれば基本的なことは教えられます」
そう言われるとエルハルトは頷かざるを得ない。
出来れば自分もクヌフウタに教わりたいくらいだったからだ。
「三日だな。父さんにはそう言っておく」
「ありがとう……あと、お迎えもお願いします!」
アフラはエルハルトを見て言ったが無理そうだったので、すぐにアルノルトに縋るような目を向けた。
アルノルトは頭を悩ませつつ言った。
「一週間後には僕の怪我の抜糸に行くから、三日後に迎えに行くとまた行ったり来たりだな……まともに仕事に復帰出来ない……」
エンゼルベルクとウーリの間には高山が横たわっていて、馬車で行くには半日がかりで道を大回りするしかない。天候次第では一泊が必要な程だ。近道するには相当な高地の峠を越えるより無かった。
傍で聞いていたクヌフウタが言った。
「じゃあ、こうしませんか? 三日目は実地の勉強で薬草を採りに峠まで行きますから、そこでアフラを迎えて貰うというのは?」
「ああ、それは良さそう! 放牧ついでに行けるし」
「良かった。では、三日間、ご家族はしっかりお預かりしますね」
エルハルトが言った。
「妹をよろしくお願いします。クヌフウタさんもローマへ行く準備があるのに、すみません」
「そうですね。その準備もしませんと。イサベラさんもここを離れる事ですし、少ししたらゲシェネンへ行ってみようと思っているんです」
「ラッペルスヴィル家の領ですね」
「ええ。その道の途中ですし、その時にアルノルトさんの抜糸には、こちらから伺いましょうか?」
「いいんですか?」とアルノルトは喜んだ。
エルハルトも礼を言う。
「助かります。そのお礼と言っては何ですが、うちに泊まって準備を調えるといいですよ。山越えに必要な大抵のものは揃いますから。ゲシェネンは既にかなり山の中ですからね。道は大丈夫そうですか?」
「頂いたガイドマップ通り進んで行けば、歩いても行けそうな気がしてるんですが」
そう言ってクヌフウタは腰布からガイドマップを取り出す。
「その地図を少し見せて貰っていいですか?」
エルハルトはそのガイドマップを開いて道を辿ってみた。
「巡礼道はザンクトゴットハルト峠じゃなく、ジュネーブの方、もっと西のブルグント側の道ですね」
「あら? そうなんですか? イサベラさんの方?」
イサベラがそれを聞いて一歩近寄った。
「領に入る辺りかもしれません。途中まで一緒にいらっしゃいます? でも距離は遠くなりそうです?」
イサベラは首を傾げ、地図を覗き込む。
エルハルトは地図を指さしつつ言った。
「距離ならこう迂回するより、ここからまっすぐ山を越えた方が遙かに近い。山さえ越えてミラーノまで出れば、あとは地図に沿って行けそうですね」
「そうですか。帰りもありますし、近い方がいいですね」
「ただ、山を越えるまではヴィンテルトゥールからここまで来たくらいの距離がありますから大変です。しかも泊まる所も少ないアルプス越えの山道ですしね。今日のように盗賊が出る危険もありますから、護衛がいる集団に加わって一緒に行く方がいい。戻ったら一緒に行ける人を探してみますよ」
「本当に助かります」
クヌフウタは小さく礼を取った。
アルノルトはマリウスの背を叩いた。
「そうと決まれば、さあ、馬車に乗れ」
「あれ? ボクは帰るの?」
「当然だろう。マリウスは行く理由が無い」
「ちょっと見たい……」
「ダメー。帰って父さんに成り行きを説明しろ」
「ちぇー」
マリウスは幌馬車の御者席の真ん中に乗り、アルノルトはその横に座った。
アフラがマリウスに声を掛けた。
「そうだ! マリウス。お父さんが怒らないよう、自分から付いて行ったって言ってよね。旅はいい勉強になったってしっかり言っておいてね」
「うん。判った。いい旅だったよ。城にも入ったし、自慢出来る」
そうして、エルハルトも馬車に乗り込むと、「じゃあまた」と手を振り、あまりにあっさりと馬車を出し、そのままウーリへの帰路を取った。
見送るイサベラとアフラ、そしてクヌフウタ達も、やがて馬車に乗り込み、逆方面のエンゲルベルクへと戻っていった。




