日曜日の教会
明くる日の日曜日は雨だった。村の風習として日曜日は皆、仕事を休み、教会へ礼拝に向かう。子供達はその後に日曜学校があり、教会で勉強をする。シュッペル家では牛や羊の世話を休めないので、朝早くに多くの仕事を片付け、それから教会へ行かなければならなかった。
エルハルトとアルノルトが牧場での仕事を終えて帰って来る頃には、次第に雨が強くなった。
「こんなに雨が降るなんて。今日は日曜日で助かったなあ」
「まあ朝からこんな天気なら、最初から山へ行くことはないと判るさ」
「兄さんなら雨が降る時はすぐ判るもんね」
「まあな」
「僕は兄さんの弟で良かったよ。便利だし」
エルハルトはアルノルトの肩を拳で叩いた。
「こいつ。俺を便利に使う気か?」
「違うよ」
小突き合いながら家に帰ってきた二人を迎えて、母のカリーナが言った。
「雨で大変だったわね。お父さんは昨日遅かったせいでまだ寝てるの。先に朝ご飯を食べてて」
「ああ。父さんの分も仕事はしておいたよ。お腹も減ったし、待ってられないよ」
「それはご苦労様。それと今日の礼拝へはお父さんと三人で行って来て」
「母さんは?」
「アフラがまだ良くないの。家を空けられないわ」
アルノルトが部屋を見回して言った。
「マリウスは?」
「マリウスは看病するから行かないって言うの」
「マリウスも頑張るなあ」
エルハルトとアルノルトは朝食のパンを手早く食べてしまうと、二階のアフラの様子を見に行った。マリウスがそこでうつらうつらしながら看病していたので、エルハルトは戸口で人差し指を立て、二人は起こさないよう静かにアフラの様子を窺った。
アフラの熱は下がるどころか、とても苦しそうな息をしていた。悪化しているのがそれだけでも見て取れた。
エルハルトとアルノルトはそんなアフラを気にしながらも、教会へ行く時間なので準備を始めた。父のブルクハルトも起き出してきて準備を始めていた。
「おおエルハルト。牛の世話までしておいてくれたようだな」
「ああ。牛の呼ぶ声で目が覚めたからね」
「お前には助かるよ」
「シュタウファッハさんに助けるように言われたしね」
「そうか。いや。それはでも少し違うな。国を跨いで駆けまわるあの人をこそ、いつか助けたいものだな」
エルハルトはその言葉に頷いた。アルノルトにはその意味するところが判らなかったが、その真摯な心を感じ取っていた。
三人が雨避けの外套を着て、帽子を被り、教会へ行く準備を整えると、カリーナが来て言った。
「行ってらっしゃい」
「アフラをよろしく頼むよ」
「教会でアフラの病気が早く治るように祈って来て。みんなもね」
「うん。そうする。じゃあ行って来る」
三人の親子は雨の中を歩いて村の教会へ向かった。
シュッペル家は村でも山間にあり、村の中心にある教会までは少し遠かった。フェルトに蝋を塗り込んである雨避けの外套も、強い雨では次第に浸み込んで来る。三人が教会に着く頃には水が浸みてきて、あちこちが濡れていた。
教会にはもう村人が集まっていた。ブルクハルトが入ってくると、村人はブルクハルトに目礼をする。アーマンは修道院の後見貴族が任命する村の管区長であり。領主の手下のように思われる面もあって、村のゲマインデで伝統に則って決められる村長ほど人望が無かったが、シュッペル家は古くからビュルグレン村の共同牧場を切り盛りする要職にあって、家畜が世話になっている家も多かったので、やはり一目置かれる存在だった。シュッペル家の礼拝の席はいつも最前列の村長の隣と決まっていたので三人はその席に着いた。すると村長が声を掛けてきた。
「やあブルクハルト。昨日はありがとう。遅くまでご苦労だった。エルハルトも昨日はいい働きじゃった」
そう言われたエルハルトははにかんで会釈した。ブルクハルトが憮然と言った。
「今はまだあまり誉めんでくれ」
「良いことをしたら、良いと誉める。それでいいじゃないか。なあ」
「今回は相手が王家だ。少し事が事だからな」
「おお。まあ違いない」
村長は頭を掻いて笑った。
後で手持ち無沙汰にしていたアルノルトの所には村娘のソフィアとポリーがやって来た。この近くに住む二人は姉妹だ。
「ねえ。今日はアフラは来てないの?」
そう言うソフィアはアフラの一つ上で、仲のいい友人だった。
「ああ、ちょっと熱を出してね。病気なんだ」
「そう。大変ね」
「マリウスは?」
ポリーはマリウスと同い年で、マリウスの友達だった。
「マリウスは看病を買って出てね。今日は来ないってさ」
「残念ね〜」
そうしている内に教会のシスター達が祭壇に蝋燭を灯し始め、そしてパイプオルガンの音が響き出し、聖歌隊が賛美歌を歌い始めた。教会は厳かな雰囲気に包まれる。
そこへ牧師が出て来て礼拝が始まった。礼拝の間、牧師が聖書の一説を読み上げる声にも耳を貸さず、アルノルトはアフラの病気が治るようにとただ祈り続けた。
教説が終わると、そこへ一人の若い修道女が壇上に立って浪々と響く声で話しを始めた。
「ウーリの皆様。私はモラヴィアにある聖アネシュカ修道院から来ました。先年の飢饉の折りに、皆様には多くのご寄付を戴き、誠にありがとう御座いました。皆様のご寄付は戦争で農地を失い、飢えと病で困窮する人々に届けられ、多くの人々がこの冬を越える事が出来ました」
アルノルトがその話に興味を覚え、顔を上げると、その修道女と目が合った。一時、話しが止まった。その顔には見覚えがあった。それは若く凜々しい修道女、クヌフウタだった。アルノルトは咄嗟に顔を下げた。
「隣人を愛するように隣の国、その向こうの国まで救いの手を差し伸べる。その行いは主の御心に叶いましょう。このウーリの人々に大いなる祝福があらんことを。アーメン」
クヌフウタはしばし祈りを捧げ言葉を結んだ。
礼拝と小講義が終わって、牧師が退席しても、アルノルトは祭壇に祈り続けた。エルハルトもそれを見て十字を切り、そして声を掛けた。
「アルノルト。そろそろ行くぞ」
アルノルトが見回すと、もう教会の中の皆が席を立って、解散していた。隣では村長一家が席を立って出て行くところだった。席の後ろには隣の家に住むオイゲーン・ビュルギ一家がいて、ブルクハルトと話していた。
「昨日は名演説でしたな。シュッペルさん」
「いやいや。ウーリの一大事となれば私も黙ってられないよ。全てはシュウィーツのシュタウファッハが教えてくれたことだ。我々だけなら何が起こったのか判らないままだったろう」
「演説していたあのシュタウファッハ殿だね」
「ああ。彼とは旧知の仲なんだ。我々はさらにシュウィーツと連携して、ハプスブルクへの対抗策を練らねばならん」
ブルクハルトがそう演説ぶっている横を縫って、オイゲーンの息子が二人やって来て、兄のモリッツ・ビュルギがエルハルトに話しかけた。
「エルハルト。お前、ゲマインデに出たんだってな」
モリッツはエルハルトの一つ年上だったが、背は少し低く、それでも骨格が一回り太かった。エルハルトは言いたいことに予想が付いて、時間を置いて言った。
「……ああ。ものの成り行きでね」
「どうしてお前が出て、俺が出られないんだ?」
モリッツは何かとエルハルトと張り合うようなところがあった。それは、一つ下のエルハルトが何でも一つ先を行ってしまうせいもあったろう。
「ゲマインデの招集に村全部を回ったから、村長に言われて確認のためにも出席することになったんだ」
「そうか! そうすれば出られるんだな」
「簡単に言ってくれるが、村の大事を預かるんだ。遊びじゃないんだぞ」
「そんなことくらいは俺でも出来るよ」
エルハルトは呆れて笑うしかなかった。
「じゃあ、今度は手伝って貰うとするよ」
「おう……いつでも言うがいい」
モリッツは何かもの足り無さを感じたが、何が足りないかは判らなかった。
モリッツの弟のテオドールがアルノルトに言った。
「アフラはまだ良くないの?」
テオドールはアルノルトと同い年で、性格も優しかったので仲が良かった。
「やあ。テオ。そうなんだ。ものすごい高熱でね、大変なんだ。今日はマリウスが看病してる。まあ日曜学校が嫌なだけかも知れないけど」
「そうか……それで必死に祈ってたんだ。早く元気になるといいね」
「うん……」
「雨が止んだみたいだ」
「本当だ。みんな外へ出て話している」
「見て来よう」
テオがドアの方へ行くと、アルノルトを後ろから呼び止める声があった。
「お兄さん」
振り向くと、そこにいたのはシスター達だった。一人だけ白い修道服を着たシスターがいて、歩み出て声を掛けて来た。
「アフラさんは、まだご病気なのですか?」
「そうですけど………どうしてそれを?」
「私です」
シスターが頭を覆っていた白のキャップを取ると、それはイサベラだった。隣りにはキャップを目深に被ったユッテがいた。後にはクヌフウタが微笑んでいる。
「あっ。君逹!」
驚いたアルノルトは転びそうになり、周囲を見回した。
「あっ。被って!」
アルノルトは慌ててイサベラのキャップを戻させた。周囲の目を気にしたと言うより、今、イサベラはここにいる村人全員の仇敵とも言える立場だと思ったのだ。
「どうしてここに………」
ユッテはアルノルトの気も知らず、さも楽しそうに言った。
「修道院の学生だから、ウーリの分教会に賛美歌を歌いに来ることもあるわ。アフラさんのお見舞いをしたいの……」
「今日は日が悪過ぎる。帰った方がいい」
「どうして?」
「悪いが今日はダメなんだ」
ドアを開けたテオが振り返って言った。
「雨はもう止んで来たよ! あれっ? 懺悔でもするのかい? アルノルト」
「いや。ちょっと……ぶつかっただけだ」
アルノルトは小走りにテオの待つ出口へ向かった。
「あっ。待って」
ユッテはアルノルトを呼び止めたが、その声は届かず、アルノルトはテオの後に付いて外へ走って出て行ってしまった。二人の家族もその後に付いて教会の外へ出て行く。
ユッテとイサベラはそれを追うように教会を出た。入り口からアルノルトを探すと、広場の隅の木の下でアルノルトとテオは笑顔で話している。外の雨は小降りになっていたがほんの少しは降っていて、そんな中でも教会前の広場では村人達が話し込んでいた。話題はやはり昨晩この場所で行われたゲマインデについてだった。村長がそこに加わると、村人は村長を囲んで話を求めて群がった。
「村長! 詳しい話を聞かせてやってくれ」
「詳しいのは儂よりブルクハルトだ」
ブルクハルトが外へ出ると、それを母のサビーネが見つけて駆け寄って来た。
「いいところに来たよ。みんなお待ちかねだよブルクハルト」
「母さん。そんなに走って来るなんて。元気で何よりだ」
「そんなことより今回の騒ぎは本当なの? このウーリに何が起ころうとしているんだい」
ブルクハルトには村人達、特に女達からの目が注いだ。男達はゲマインデで知っていたが、参加していなかった女達は噂で聞くのみで、はっきりしたことを知りたかったのは当然だった。
「話せば長くなるからかいつまんで言うと、聖母聖堂の守護権者が変わった。教会の元締めが変わったということだ」
「教会が変わるのが村に何かあるのかい?」
「それによって、教会預かりのウーリの土地が王の領下に入りそうなんだ。ザンクト・ゴットハルト峠のウルゼレンは既に王領になったそうだ」
広場の村人達は一斉にどよめいた。
「教会預かりって……村の殆どじゃないか!」
「うちの土地は教会に預けてるわ!」
「ザンクト・ゴットハルト峠は俺達が命懸けで開いたものだぞ! 我々の権利じゃないか」
「王家が泥棒するの!」
一斉に驚きと抗議の声が上がって、ブルクハルトは質問攻めに遇い、その質問を聞き取ることすら出来なくなった。
「それに対抗するためにだな! 我々は然る方と協議して司法の面から尽力している! だから今騒ぐのはまずい。表立っては騒がず、私等に任せて欲しい」
村の古老のヘンゼルが言った。
「お主、いざとなったら王家の犬になるんじゃないか。アーマンはもともと領主の使いっ走りみたいなものだからな」
「何を言う! この私がか? 牧場の為、村の為に私財も献げて働いているこの私がか? それを取られてまず一番の被害者は私だぞ! その言葉は許せん!」
ブルクハルトはヘンゼルの方へ歩んで、鼻を突き合わせるくらいの近くへ立った。
サビーネはブルクハルトの手を引いて言った。
「ブルクハルト! 話を混乱させないで! ヘンゼルさんも!」
村長も間に割って入って言った。
「そんなことで啀み合ってる場合じゃない。今は皆で協力して王家に対抗せねばならん時だ」
ブルクハルトは我に返って言った。
「いかんいかん。そうだった。私は昨日からそう言いもし、行動もしてきた。ただ、言いがかりは止してもらいたい」
古老はブルクハルトの肩を叩いて言った。
「すまんかった。ついな。しかし、王家が敵となれば、誰が尻尾をまくるか判らん」
村長は古老の意を汲んで頷いた。
「ここにいるみんなは大丈夫さ。のう?」
村長が振り返ると、村人は口々に頷いた。
「皆よありがとう。少しでも裏切りもんが出れば、ウーリは取られかねんぞ。皆もよく肝に銘じて、裏切りもんが出んようにして欲しい。この戦いはみんなで結束してするんじゃ。無冠の王なんぞ、全員が言うことを聞かなければ帰るしかあるまい」
「おお! そうだ! 無冠の王など村に入れるものか!」
「王家の犬がいたら追い出してやる!」
村人は口々に王を罵った。
その騒ぎは当然、ユッテとイサベラの耳にも入った。ユッテは足が震えるほどショックを受けた。ユッテは立っていられなくなった。王女である気高い誇りが崩れて、謝るように地面に崩れた。隣にいたイサベラが肩を揺すって言った。
「大丈夫?」
ユッテはアルノルトとの約束を思い出していた。それはこんなに簡単に破られようとしている。遠くから心配そうに見ているアルノルトと目が合った。その目に点る疑念は心を突き刺すような気がした。
「こんな事って……」
アルノルトの目には始めから全てを見透かされていたように思えた。そしてはらはらと涙が溢れて来て顔を伏せた。
アルノルトはそれを見かねて歩み寄った。アルノルトを見上げたユッテの目には、大粒の涙があった。アルノルトは掛けるべき言葉を探し、ユッテに手を差し出して言った。
「そうしてると目立つ……立って」
ユッテは何か言おうとしても声にならず、その手に掴まって静かに立ち上がった。
「君のせいではないさ。それは判っている………」
ユッテは顔を上げ、何か言おうとした。
そのとき、騒ぎを聞き付けた牧師とシスター達、そしてクヌフウタが教会から慌てて出て来て、囲み込むようにユッテとイサベラを教会内に連れて行った。しかし次の瞬間には牧師が村人に捕まって、質問攻めに晒された。村長が牧師に言った。
「レッセマン牧師。何か聞いていないか。我々の預けた土地をまさか、はいどうぞと王家に譲り渡すんじゃないだろうな」
「それは……我々にもまだどうなるかよく判らないのです。新しく代官に任命された者の指示に従うように言われています」
「まずいな。その男は王家の犬だ。王の名でお触れを出したらもう手出しも出来なくなる。レッセマン牧師。我々の預けている土地を今のうちに返してはくれまいか」
「そうだ! 返してくれ!」
村人達も口々に頷き牧師に詰め寄った。
「それは無理です。証書は聖母聖堂にあります。この分教会には置いていないのです」
村人がまた騒然となる中、ブルクハルトが静かに考えていた。
「では! こうはどうだ」
ブルクハルトが大きな声で言うと、村人は静かになって続きを聞いた。
「判る範囲でいいから土地の預かり証を書くのはどうだろう。預けただけだとはっきりさせるために」
「いいでしょう。双方の記憶が合うものならば、更新して書くことが出来ます。シュッペルさんなら大抵覚えているでしょう?」
「ああ。新しい所はそうだが、古い所は村長かな」
「うむ。そうさのう。順番にやってみるかのう」
村人に安堵が広がった。
村人達は教会へ入り、一人一人順番に、証書の作成に取りかかった。
「あら。お帰りなさい。遅かったのね」
カリーナは先に帰ってきた兄弟に泥拭き巾を渡して出迎えた。エルハルトがため息を吐いて答えた。
「ただいま。昨日より凄い騒ぎだったよ。聞こえた?」
「そうね。そう言えば騒がしかったわね」
アルノルトは母に言った。
「アフラの様子はどう?」
「今日はずっと静かに寝ているわ。これだけ眠れば良くなるんじゃないかしら」
「教会で治るように祈って来たかいがあったよ」
「アルノルト……ありがとう」
それからかなり遅れてブルクハルトが帰って来た。カリーナは同じように泥拭き布を渡して出迎えた。
「お帰りなさい。大変だったみたいね」
ブルクハルトは靴の泥を落としながら言った。
「いやいや大変だった。土地の預かり証を作るので結構揉めてなあ。思うようには進まんよ」
「預かり証?」
「教会預かりの土地が王家に取られないように、預けた人が皆証書を書いておく事にしたんだ」
「うちのは書かなくてもいいの?」
「うちの土地の殆どは逆に教会から預かっているものだからな」
「この家の土地はビルゲンさんの預けている土地でしょう?」
「そうだ。ビルゲンさんを忘れてた」
「しっかりして下さいよご主人様?」
「ビルゲンさんはあまり村には出てこないから言っておかないといかんな」
「早くしないと、ここの土地が取られたら大変よ」
泥を落とし終わったエルハルトが言った。
「じゃあ今から馬車で行って来るよ」
「今から行くの? 戻るなりすぐじゃ大変じゃない?」
「ゲマインデの時もビルゲンさんの所までは呼びに行けなかったから、まだ何も知らないと思うんだ」
「それはまずいな。私も行こう」
「これくらいは一人で行くよ。任せて。ここまで連れて来るよ」
「そうか。では頼む」
エルハルトはその足で荷馬車を出し、山間のビルゲンの家へ向かった。
それを見送りながらカリーナは言った。
「それにしても……ビルゲンさんもどうしてここを貸して、山奥に引っ込んでしまったんでしょう」
「粉挽きするには水車小屋に近い方が何かと便利なんだろうよ」
「でも家族もなくてたった一人だもの。寂しいと思うのよ」
「まあサビーネ母さんとは旧い間柄だし、うちとも家族付き合いだけどな」
「いつかお返しをしないと駄目ね……」
アルノルトがアフラの様子を見に行くと、アフラは息を立てて眠っていた。マリウスが横で看病しながら林檎を弄んでいる。
「マリウス。様子はどう」
「うん……今日は殆ど寝たままなんだ」
「そうか。お母さんはこれだけ寝ていれば治るって言ってたよ」
「でも、お姉ちゃん……ずっと食べてないんだ」
「そうなのか? 普通、お腹空いて目が覚めないかな」
「ほんの一瞬目を覚ましたら、すぐに寝ちゃうんだ。だから食べる暇もないんだ。だからずっとリンゴ剥いて構えてるんだよ。ボク、リンゴ剥くの上手になっちゃった」
皿の上に山盛りになった林檎は変色して茶色になっていた。
「なんだこの林檎。変色してる」
「置いておくと色がこうなっちゃうんだ」
「古いのはアフラも食べたがらないんじゃないか?」
「でもつい暇だから全部剥いちゃったんだ」
「全部? もう無いのか?」
「うん…」
「そうか……いいものがある」
アルノルトはイサベラに貰った篭を台所から持ってきて、マリウスにそれを渡した。
「わーっ。すごい一杯」
「ここに林檎も沢山入っているだろう。アフラに食べさせてやるといい」
「どうしたのこれ」
「イサベラって言う貴族の娘に貰ったんだ。羊を連れて行ったお詫びにってね」
「イサベラ様知ってる」
「何かあったの?」
「昨日イサベラ様の馬車が来たんだよ」
「来たのか! 何て言ってた?」
「熱出して寝てるって言ったら帰って行った。明日教会にゴランリンと鐘が鳴るって言ってた。昨日の明日だから今日?」
「そうか……」
アルノルトはイサベラの気が知れないと思った。昨日は馬車、今日は教会にも顔を出している。そんなにもアフラに会いたいものなのか。だとすると、いつかは連れて行くつもりなのかもしれない。アルノルトはそう思うと信用出来ない気がして来た。すでにイサベラの誓いも意味を失いつつある。王家がウーリを丸ごと王領にしてしまったら、領内のものは王家のものになってしまう。
「くそっ!」
アルノルトはあの誓いの時、イサベラを信用していいと思った。それはこうも簡単に裏切られようとしている。優しかった村人も今日は暴徒のように荒々しかった。アルノルトは信じていた全てが信じられなくなりそうな事態に、初めて恐ろしさを感じていた。
広場は皆の集まる憩いの場であり、市場であり、会議場だったのです。