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青空会議


 アフラの熱は次の日になっても、またその次の日になっても引くことはなく、次第に熱は高くなっていった。そんな妹を心配しながらも、エルハルトとアルノルトは今日も早朝から羊の放牧に出かけ、父もまた牛の世話に出かけた。

 母のカリーナは残って看病していたが、夕食の買い出しに行く仕事があった。


「マリウスー。マリウス。少しアフラの看病をしていておくれ」

「僕どうすればいいの?」

「額のおしぼりが熱くなったら水に浸して替えてあげてね。あとはちょうど果物があるから、アフラが欲しがったら食べさせてあげて」

「わかった」

「じゃあお留守番をお願いね」


 母が家を出て行くと、マリウスはアフラの額のおしぼりを替えたり、汗を拭いたりして、付きっきりで看病をした。

 マリウスはアフラの額に時々触ってみた。


「お姉ちゃんの頭、熱いなあ」


 おしぼりは思ったよりもすぐに熱くなってしまうので、頻繁に替えなくてはならなかった。

 そうしていると、外に立派な白亜の馬車がやって来て玄関先に止まった。そしてそこから降りてきた御者が玄関のドアを叩いた。

 マリウスはドアを開けて訪れた客に言った。


「誰?」

「ここはアフラ・シュッペルさんのお宅ですかな?」

「そうだよ」

「アフラさんはご在宅かな?」

「いるよ。でも熱を出して寝てる。僕、看病してるの」

「そうですか。それは大変お労しいことです。では、ユッテ様とイサベラ・アニエス・ド・カペー様からご招待があったことだけお伝え下さい」

「アニさんどっかへ? お兄ちゃんは今いないよ」

「ゆっくり言います。イサベラ・アニエス・ド・カペーです」

「イサベラ・アニさんー・どカッぺー? ど田舎者! まあこんな山じゃあしょうがないね」

「違います! 唯一イサベラという名前だけは合ってますので、その名前だけお伝え下さい」

「イサベラ?」

「そう! もう一つ言うと、イサベラ様を呼び捨てにしてはいけません」

「イサベラ様?」

「そうです。そうです。その名を確とお伝え下さい。それともう一つ、ユッテ様とイサベラ様は明日ビュルグレンの教会へご来臨になります。それも併せてアフラ様にお伝え願います。では失礼致します」


 御者は馬車に戻って、勢いよく駆け出した。

 マリウスはこの事を伝えようと、姉のいる寝室へと走って行った。伝言の言葉を反芻してふと首を捻った。

(ごらいりんって何だろう?)

 アフラはまだ熱にうなされて眠っている。


「お姉ちゃん、お姉ちゃん!」


 マリウスは額から落ちていたおしぼりを取り替えて、顔に滲む汗を拭いてあげた。

 しばらくして、アフラは目を覚ました。目を覚ましたアフラは寝ぼけ声で言った。


「マリウス……頭が痛いわ……水を頂戴」

「うん。リンゴも食べる?」

「うん………」


 水を持って来ようとして、マリウスは振り向いた。


「あのね。さっき見たこともない馬車が来たよ」

「馬車………」

「えーと何て言ったっけ。アニさんじゃなくて、エイサラべーじゃなくて」

「イサベラさん………」

「そう! その人からご招待だって」

「やっぱり来たのね………それで何て?」

「兄ちゃん田舎者だって。熱で寝てるって言ったらすぐ帰っちゃった」

「そう。悪いことしたわ………」

「あとねえ。明日教会の鐘が鳴るんだって」

「教会?」

「うん。ごらりんごらりんって」

「ごらりん?」


 すると玄関から再びノックの音がする。


「あっ。またお客だ。僕、行ってくる」


 玄関に訪れたのは、シュウィーツに住むブルクハルトの友人、コンラート・シュタウファッハだった。シュタウファッハはシュウィーツでアーマンの地位にあった。


「シュタウファッハさん。こんにちは」

「こんにちは。マリウス。元気そうだね」

「でも、お姉ちゃんは病気で寝てるの。僕、看病してるの」

「そうか。それは大変だな。こちらも少し大変なんだ。お父さんはいるかな?」

「お父さんは共同牧場の方だよ」

「そうか。行ってみるよ。有難う」


 マリウスは出て行く客を見送ると、水を汲んでアフラの所へ戻った。


「お姉ちゃん。水だよ」


 その時アフラはもう深く眠っていた。


「もう。せっかく水とリンゴ持って来たのに。リンゴ食べちゃうぞー。知らないぞー」


 マリウスはそう言って、林檎を剥きにかかった。


 共同牧場へ行ったシュタウファッハは、そこでカリーナに会ってブルクハルトの居場所を聞いた。


「主人は干し草を集めに行きました。きっとあの丘の辺りですわ」


 シュタウファッハは牛を避けながら牧草地を歩いて行った。丘の近くまでくると、木の陰の岩に腰掛けるブルクハルトを見つけた。


「おーい。ブルクハルト!」


 シュタウファッハはブルクハルトに手を振った。


「おお! これはシュタウファッハ! 久しぶりだな。まあここに座って採れたてのミルクでもどうだ」


 シュタウファッハとブルクハルトは、その場で岩に座り込み、近況を話し合った。


「シュタウファッハよ、わざわざシュウィーツから訪ねてくるなんて、一体何があったんだ?」

「それが大変なんだ。ラッペルスヴィル家の断絶が決定した」

「ご実姉のエリーゼ様が女伯継承するんじゃなかったのか?」

「それがだ。若い女伯の継承を王が許可しなかったのだ」

「それは横暴だな。修道院が既に認めていたし、女伯継承なんて時にあることじゃないか」

「女伯継承にも条件がある。婿がいること、もしくは次代を継ぐ男児がある事だ。残念ながら未婚のエリーザベト様には二つとも無い。あまりに若い弟君の急逝が惜しまれるな」

「未婚なら、これから婿を迎える事だって出来るはずだ。時間を与えるべきだろう?」

「その通りだ。結婚の予定があるなら、考慮の余地はあるはずだ。新しい王は断絶した貴族の領土を掠め取って来たからな。また狙っているのさ」

「ラッペルスヴィル家と言えばウーリにも別邸と農園があるぞ」

「ああ。あの土地はヴェッティンゲン修道院預かりになっていたからそのまま保持するらしい。チューリヒ湖畔の本領地もそのままだ。だが他の領主権やアインジーデルン修道院と聖母聖堂の守護権は没収になったんだ」

「そうか。だが、修道院の守護権なんて、うちはそんなに騒ぐことは無いじゃないか?」

「それが大ありだ。両修道院の守護権は財産管理と人事権が含まれる。それが王の一時預かりとなるんだ。ウーリの多くは面目上、聖母聖堂の領地だろう? 人事権でもお前の首くらいは飛ばせるわけだ」

「何だって! じゃあ、このウーリもシュウィーツのように重税が掛けられるのか?」

「このままだといずれ……そういうことになるだろう」

「そういうことって……シュタウファッハよ。ウーリは一体どうなってしまうのだ」


 シュタウファッハは改めて状況を説明した。


「ウーリは今、特許状によって、土地の税や人頭税は無いな」

「そうだ。税はラントの共益費と修道院に献納する一割の税だけだ」

「それに王領の税が上乗せして掛かってくるだろう。人頭税と土地の税だ。収穫に対する税も徴収されるだろう。戦争があればさらに上乗せだ。人も徴発される」

「そんな! 二重取り、三重取りじゃないか」

「住民は修道院と王とさらにラントにも税を払うことになるだろう。とても払えないという人が溢れて、大混乱になる。そうなれば、まず払わないのは罰の少ないラントの方だ」

「それではウーリの自治はとてもやって行けなくなる。どうすればいいんだ……」


 頭を抱えるブルクハルトにシュタウファッハは言った。


「そこでだ。私に腹案がある」


 ブルクハルトは目の色を変えて向き直った。


「どんな案だ?」

「ホーンベルク伯をラッペルスヴィル家の後継者として擁立するのだ」

「ホーンベルク伯?」

「ホーンベルク伯はアインジーデルン修道院縁の方だ。前王家ホーエンシュタウフェン家の血を引いている。おそらく何処からも反対されず上手く纏まる」

「しかし、どうやって?」

「これはまだ秘密の話しだが、さっきの婿の話だ。ホーンベルク伯には跡取りがいなくてな。親族を養子に取っている。ルーディック二世と言うんだ。この方とエリーゼ様を結婚させるのさ」

「それは名案だが、出来るのか?」

「合意さえしてもらえればな。ただ、少しでも疑われるとこの話はダメになる。特に王家に漏れれば何をされるか判ったものではない。秘密裏に進めなければならない。それにこの話を持って行くのは、縁遠い私だと残念ながら不適任だ。信用が足りない。ウーリのアーマンのアッティングハウゼンさんなら、ラッペルスヴィル家とも、ホーンベルク家とも昵懇にしていると聞いた」

「そうか、アッティングハウゼンさんか! あの人ならいつもはアルトドルフの宿駅にいるはずだ。案内しよう」


 長話をしていると、放牧を終えたエルハルトとアルノルトが羊を連れて帰って来た。エルハルトは遠くから父を認めて手の平を上げた。


「ただいま!」

「おお。あれは我が息子達だ」


 エルハルトとアルノルトは近くまで来ると、客の姿を認め挨拶をした。


「こんにちはシュタウファッハさん」

「こんにちは」


 シュタウファッハはエルハルトとアルノルトを見て言った。


「やあやあ。しばらく見ないうちに二人とも立派になったな。エルハルトの方は背がもう父を抜いたか。ブルクハルトはいつ引退しても大丈夫なんじゃないか? いい跡継ぎに恵まれたものだ」


 と言いつつシュタウファッハはエルハルトの肩を叩いている。


「まだまだ父には敵いません」

「これから村は自立のため、君たち若い人が頼りになる時が来るだろう。お父さんも忙しくなる。家を支えて頑張って欲しい」


 いつもより熱の籠もった言葉にエルハルトは戸惑った。


「はい。シュタウファッハさん………ところで何かあったのですか?」

「ハプスブルク王家との争いが始まるかもしれない。ウーリの諸権利が一時ながらハプスブルク家の手に移ったのだ」

「何ですって!」


 ブルクハルトはエルハルトに言った。


「エルハルト、これから村長のところへ言って、夕方に広場で緊急ゲマインデを開きたいと伝えて欲しい。私達はこれから話を纏めて来なければならない」

「わかった。羊を戻したらすぐ行って来るよ」

「シュタウファッハ。早速だが行こうではないか。馬車を出そう」


 四人は牧舎へ帰り、その後ブルクハルトとシュタウファッハは荷馬車に乗って山を下った。

 二人はアルトドルフの外れにある、ヴェルナー・フォン・アッティングハウゼンの宿駅を訪ねた。道の険しいザンクト・ゴットハルト峠を越える人は、必ずメイン通りにあるこの宿駅で泊まり、荷を運ぶ馬や強力の手配をした。そのための費用に加え、峠の通行料もここで一括精算するのが常であった。

 二人の訪問を受けて、アッティングハウゼンはウーリの古株のアーマンらしく、努めて落ち着いて言った。


「その事か。まあ落ち着いてくれ。実は昨日、代理執政官とラッペルスヴィル家のお嬢さん、エリーゼ様がここに来たのだ」

「何だって! で、何と言われたのだ」

「その代理人によると、ラッペルスヴィル伯が亡くなって、エリーザべート様の継承資格をハプスブルクのルドルフ王は認めず、その本領地以外の諸権利や修道院の守護権は王家の預かりとなったそうだ。移管されたその権利により、ウーリの多くを占める修道院の領地はその新しく代理執政官に任命されたその者が管理するという事だった」

「まさか! 多くの土地は領主が入らないように、面目として聖母聖堂に預けて、そのまま自治体の共有地として仕立てているんだ。それを取られると言うのか?」

「エリーゼ様は全ては代理人に任せるとの事だった。その時に渡された聖母聖堂からの書面によると、領有地の管理をその代理人に委任するとの事でな。まだ様子を見ないと判らないが、上位の権利は渡ってしまったんじゃ」

「そんなことになるとは……」


 シュタウファッハは沈痛な面持ちで言った。


「シュウィーツのアインジーデルン修道院もラッペルスヴィル伯の守護権下なので、全く同じような事態が起こっているのです。その代理人は王の腹心で、実質はハプスブルク家に領地と守護権が渡ったのです」


 アッティングハウゼンは悲痛な声で言った。


「やはりハプスブルク家、ルードルフ王か。実は、取られる権利はそれだけではないのだ。ザンクト・ゴットハルト峠のあるウルゼレンは、ルードルフ王の子のアルプレヒトの管理地になった。ハプスブルクはザンクト・ゴットハルト峠の権利をも奪うつもりだろう。そして国境には関所が作られて通行税が取られるそうだ。そうなると、ここで集めている通行料は二重取りの謗りを受けて取れなくなって行くだろう」

「そんな馬鹿な! ウーリは開発者をウルゼレンに集めながら長年あの峠を開発して道路と橋を整備して来たんだ。その通行料はウチで貰わなければ割が合わないじゃないか。自治の発足も峠の開発事業で始まったようなものだ。それがそんな簡単に取られるって言うのか!」

「儂の家もそうだが、町の多くの民は峠の工事や荷運びをし、通行料で成り立って来た。これはウーリの命を取られるに等しい! これを取られて儂等はどうすれば良いのだ……」


 アッティングハウゼンは机に手を突き、嘆きのあまり涙さえ見せた。

 シュタウファッハは怒りを覚えて言った。


「王になったとは言え、本領地の少ないハプスブルク家は、領地を少しでも広げたいのです。我がシュウィーツの大半の土地も領主であったキーブルク家の断絶を理由に手中に収め、残りの土地も買い漁っていましたが、ウーリにもここまで横暴をするとは……」

「しかし、今さらどうすることも出来んのだ。王家が相手ではな……」


 頭を抱えるアッティングハウゼンにシュタウファッハは言った。


「私にひとつ策があります。ご協力頂けますかな?」


 アッティングハウゼンは目の色を変えて向き直った。


「対抗策があるとおっしゃるのか?」


 シュタウファッハは頷いて言った。


「ホーンベルク伯にラッペルスヴィル家の後継者となって頂けるよう働きかけるのです。これは婚儀によってです」

「フリードリヒ・フォン・ホーンベルク伯か! だが確か伯爵には子が無かったはずだが」

「仰るとおりです。跡継ぎがおらず断絶に瀕したホーンベルク家は、御親類の子を母御様が猶子にしています」

「アーデル様か」

「母御様をご存じで?」

「よく知っている。先代の旦那様からの家族ぐるみのお付き合いじゃ。あのお方なら話が分かる方じゃ」

「そうでしたか。それは話が早い。そのアーデル様の御猶子、ルーディック様とエリーゼ様とのご婚儀を持ちかけるのです」

「その手があったか!」

「この婚姻が成れば両家を併せてチューリヒ湖からバーゼルまでが影響圏になるでしょう。そこに我々も加わる事になれば王を包囲する形になります」

「それはすごい目論見だ。ホーンベルク家は前王家のホーエン=シュタウフェン家の血を引いている。家柄では王家とも張り合えるだろう」

「その通りです。自慢になりますが私も実はシュタウフェン家の遠縁で、ホーンベルク伯とは些か縁があるのです」

「おお、そうであったか。どおりで名が似ている」

「この縁談は断絶の危機に瀕した両家が家領安泰となる上、家系を見てもこれ以上無いものです。先代のホーンベルク家はハプスブルク家とも縁戚関係があります。王家も反対はしますまい。これが成った暁には、両家はその恩義で自治の権利を保護してくれる事でしょう」

「思った以上にこれは良い話しだ!」


 ブルクハルトが手を打って言った。


「アッティングハウゼンさんはホーンベルク伯とも昵懇の仲でしたでしょう?」


 アッティングハウゼンは顎髭を撫でて頷いた。


「うむ。なにせバーゼルは山越えの入り口、ここウーリは出口だからのう。よく連絡を取るのじゃ。それに以前はラッペルスヴィル家ともウーリに別邸がある関係で家族ぐるみのつき合いじゃった。エリーゼお嬢さんも小さい頃からよく知っている。よくここへ来て遊んで行ったものだ」


 シュタウファッハが手を大きく広げて言った。


「それは願っても無い幸運。このキューピット役は両家に縁の深いアッティングハウゼンさんにしか務まりますまい。願えましたらこの大役を託してもよろしいですか?」

「是非もない。お引き受けしよう。エリーゼお嬢さんは、まだしばらくウーリの別邸におると言ってたしのう」

「ああ、有難いことです。アッティングハウゼンさんにお引き受け頂けたなら、これはもう成ったも同然です」

「こちらこそ恩に着よう。わざわざこのウーリに危機を知らせて下さり、その上こんな良い策を出して下された」

「ハプスブルクに対抗するには、貴族をも味方にして出来るだけ大きく合同することです。それにはこの対抗策は最大に有効な方法。互いに協力出来ると思ったのです。それに我々は旧領主キーブルク伯の断絶以来ハプスブルクの領下となり、王の圧政と戦っています。断絶に付け込んで領地を取り上げるのは、奴らの常套手段なのです。隣の友邦、ウーリにも手を伸ばした今に至っては、座して見ているわけには行きません」


 アッティングハウゼンは目で頷いた。


「そうじゃったか……シュウィーツは既に戦いの中にあるのだのう。これからは互いに協力して事に当たろう」


 ブルクハルトは平和惚けから覚めたような心地で言った。


「及ばずながら、私も出来るだけの協力はする」

「ありがとう。頼りにしている」


 ブルクハルトは強く頷いてから、アッティングハウゼンに言った。


「善は急げだ。早速これから皆でエリーゼ様のところへ行こう。ここまで来たら別邸はすぐ向かいだ」

「おお、そうか。ではそうするとしよう」


 三人のアーマンは新たな使命を帯びて馬車に乗った。


 アルトドルフの隣町、シャトドルフにあるラッペルスヴィルの塔を備えた別邸は山間に建っており、家というより古城だった。低い石積みの塀を巡らせた周縁の一帯はラッペルスヴィル家がヴェッティンゲン修道院に寄進した小農園であり、そこで働く人々も修道院に属し、ウーリの中で唯一自治には組み入れられない土地だった。別邸の門にあるアカシアの花を巡らせたアーチを潜ると、色とりどりの花を咲かせた花壇があり、花壇の世話をしていた家臣のブリューハントがアッティングハウゼンを見つけて声を掛けた。


「どうしたねアッティングハウゼンさん。シュッペルさんもご一緒で」

「やあブリューハントさん。お嬢さんに大事な話しがあって来たんだが、いてくれて丁度良い。ブリューハントさんにも聞いて欲しい。一緒に来てくれるかの」

「それは良いですとも。ではご案内しましょう」

「お嬢さんはどうされているかな。弟御を亡くされてさぞ悲しんで居られるでしょう」

「はい。一日中気を塞いでいるご様子で」

「そうですか、そんなに……」


 ブリューハントは奥の応接間へと一行を案内し、女中にエリーザベトを呼びに行かせた。

 エリーザベトは庭のバラ園の小さな建物のテラスにいて、女中に呼ばれると何か指示を出して遠くから一行に一礼をするのが見えた。細身で背が高めなので、長い白のチュニックスカートが眩しく映える。エリーザベトは二十二歳の若さだったが、利発そうな面立ちは既に修道院長のような貫禄がある。

 四つ下の弟のルードルフが伯位を継いだ頃、まだ年少であったので、修道院の後見はエリーザベトが行い、実務の実際はブリューハントが仕切っていた。弟のルードルフを亡くしてまだ間も無いながら、家臣達はエリーザベトを女主人とし、ブリューハントが仕切る事で変わらない秩序が成り立っていた。

 エリーザベトが少し心苦しそうな笑顔を見せると、アッティングハウゼンは両手を広げて言った。


「エリーゼ様。この度は辛うございましたな」


 エリーザベトは目に涙を溜めて言った。


「私は、たった一人になってしまいました。継承が認められず、領地も権利も殆どを失ってしまうことでしょう。でも、思い出の多いこのお屋敷は残りました。ここへ来ると変わらず賑やかですわ」

「気に病んでもパンは得られぬというもの。それにこのブリューハントさんがいるではないか」

「そうですね。ブリューハントさんもこうして変わらず支えてくれています」

「我々もお力になりますぞ」

「私も支えますとも」


 アッティングハウゼン、そしてブルクハルトも胸を叩いた。

 エリーザベトは少し目頭を熱くした。


「ありがとう」


 シュタウファッハが腕を胸に置いて進み出た。


「この私めもお加え下さい。御紹介を……」

「ああ、こちらはシュウィーツのアーマン、コンラット・シュタウファッハ殿です」


 アッティングハウゼンがそういうと、エリーザベトはスカートを広げ礼を取って言った。


「シュウィーツから! ようこそお出でいただきました。アッティングハウゼンさんには昨日お話致しましたが、この度の事は皆様には受け容れがたく、ご迷惑をお掛けする事でしょう。私に出来る事がありましたら何なりと仰って下さい」


 エリーザベトは家領を多く失ったというのに未だ領民を思う良い領主だった。その事にシュタウファッハは胸を打つ思いだった。


「聖母マリアのようなお心、感服致しました。時に遠くよりお見かけしておりましたが、改めてご挨拶するのは初めてです。今日は折り入った話もありますが、いいお話を持って参りました」

「いいお話? 興味深いですわ」


 シュタウファッハがアッティングハウゼンに目配せをしたので、アッティングハウゼンが続けた。


「お嬢様の問題は、我々にもまた自治を脅かす問題でしてな。今後の対応を苦慮しておったところ、ラッペルスヴィル家の諸権利を取り戻すいい策があると、このシュタウファッハが申すのじゃ」

「まあ。それは是非お伺いしなければ。どのような策でしょうか?」


 エリーザベトは胸で手を合わせ、シュタウファッハの顔を覗き込んだ。シュタウファッハはその邪気の無い笑顔に目眩を覚え、威儀を正してから話をした。


「この度は残念ながら、女伯継承の承認をハプスブルク王より得られませんでした。しかし、もう一つの方法があります。それは……」

「それは?」

「伯爵位を併せる事です。ホーンベルク=フローベルク伯は二つの伯位を婚儀によって併せ持ちました。そして現在のご当主は母方であるホーンベルク伯を名乗られています。領地権の継承を認められるのが男子継承のみとあらば、男子を家に入れるのです。理解あり頼りになる人と家を結ぶのです」

「そのために私は何をすれば良いのでしょう」

「もしお心に適うならば、御結婚を……」


 エリーザベトはその言葉を受け、畏まってスカートを摘まみ、礼を取った。


「承知致しました」


 互いに笑顔で首を傾げ合い、数瞬後、訪れたのは驚きだった。中でも驚いたのはブリューハントだった。


「いきなり求婚だなんて! 何を言い出すのですか!」


 エリーザベトはブリューハントを押し止めるように言った。


「いい話です。あなたが当家の婿に入って頂ければ、継承の仕切り直しとなります。その結果こそ分かり兼ねますが、大変助かりますわ」

「そういう手も……いや! しかし私には妻が……」

「妻があるのでしたら、ちゃんとお別れ戴かなくては! 私、浮気は許しませんことよ」

「お待ち下さい。誤解です。お相手は私では務まりません」

「あなたは私をお嫌いですか? 私はあなたなら良いと思えましたのに!」


 エリーザベトはハンカチを噛み、目に涙を浮かべて悔しがっている。

 シュタウファッハはアッティングハウゼンを振り返り、目で救いを求めた。アッティングハウゼンは慌てて言った。


「エリーゼお嬢さんや。お相手はその方では無い。さっきお話に上がったホーンベルク伯の御子を考えておるのじゃ」

「あら。私ったら何て思い違いを。恥ずかしい……」

「これは言葉の綾というものじゃな……」

「立ち話も何ですから、あちらで座ってお飲物でも」


 エリーザベトは顔を真っ赤にして一行を席に案内した。ブリューハントは阿吽の呼吸で飲み物の準備へ行った。

 一行は窓辺に拵えたテーブルに着き、落ち着いた所で話を再開した。


「お恥ずかしい……取り乱しまして失礼を致しました」

「お気に召さるな。不躾な話をしておるのはこちらの方じゃ。急にこんな話を持ちかけられても戸惑うのは当然じゃろう。だがこれは良い話だと思うんでのう。もし嫌だと思うなら断ってくれてもいい」

「まだ雲を掴むようで……そのお相手はどういった方なんでしょう」

「ルーディック二世というお子でな。分家の子をアーデル様が養子に引き取ったと聞いている。こういうのは猶子といって、まあよくあるんだがの。実は継承の事で困っているのは先方のホーンベルク伯も同じでのう。ホーンベルク伯の現当主は子がおらず、次の継承者がおらんのじゃ。その場合は弟に譲られる所なのだが、この弟というのが一人は亡くなっており、もう一人がそのルーディック卿なんじゃよ。ホーンベルク伯の名を残すためにアーデル様も苦労しておる。エリーゼお嬢さんの境遇もよく解ってくれることだろう」

「そうですね。その方と是非一度お会いしてお話を伺ってみたいですわ。この縁談のお話もありますが、継承のために女の側で出来る事についても」


 アッティングハウゼンが言った。


「そう言ってくれると助かる。では今度場所を設定して会う機会を設けよう。ルーディック卿ともご一緒でのう」

「よろしくお願い致します」


 エリーザベトは深々と頭を下げた。

 ブルクハルトは大いに喜んだ。


「これは両家ともうまく収まる、我々も安泰で万事うまくいく、本当にいい話ですよ。いやー目出度い。目出度い事だ」


 アッティングハウゼンはこれを見咎めて言った。


「まだ早いぞブルクハルト。お嬢さんが決めるのは会ってからじゃ」

「ハア。でも大事な一歩ですからな」


 エリーザベトは言い含めるように言った。


「こんなことが噂になったら、私、困りますわ」


 シュタウファッハが神妙な面持ちで言った。


「その通りですね。ブルクハルト、軽口は慎むべきだ。他の方々も、この話はハプスブルク周辺に知られればあらぬ疑いを懸けられるかもしれません。くれぐれも内密に進めなければ。ここに我々は秘密の盟約を結びましょう。頷く事で誓約とします。宜しいですか皆さん」


 一同は互いに頷くと同時に、堅い盟約を交わし合った。それこそは大事な一歩となる出来事だった。



 一仕事を終えて家に帰ってきたカリーナは、マリウスに労いの声をかけた。


「看病ご苦労様。リンゴも剥いてくれたの? 偉いわねえ」


 マリウスは自分が半分を食べてしまっていたので慌てて言った。


「おかえり! お姉ちゃんがリンゴが欲しいって言ったのに、水を取ってくる間に寝てしまったの」

「そう。おしぼりもよく替えてくれたみたいね」

「うん。お客さんがたくさん来たよ」

「シュタウファッハさんね。さっき牧場の方へも見えたわ」

「それとアニ様……だったかな?」

「アニ様?」

「ウーン。呼び捨てにしちゃいけないんだって」

「どなたかしら?」


 カリーナはおしぼりを取り替えながら、アフラの額に触れてみて、異変を感じた。


「まあ。熱がこんなに!」


 アフラはその声に少し目覚めて、うわごとのように言った。


「お母さん……頭が痛い……」

「頭が痛いの?」

「うん……馬車が来たわ……きっとまた来るわ………」

「馬車? 馬車が来たの?」

「うん……頭が痛くて私……行けない……イサベラさん……」


 アフラはそう言って、そのまま眠ってしまった。


「何の馬車を言っているかしら?」


 マリウスは母のカリーナに言った。


「そうだ! イサベラ様だ。お迎えの馬車だよ。さっき来たんだ」

「何てこと!」


 カリーナは王家の縁者から迎えの馬車が来るなんて予想だにしてなかった。それを無下に断ることは、王家への反逆とも取られるのではないか。そんな心配が渦巻いた。

 そんな母を余所に、アフラの病状は悪化して行った。夕方が近付くにつれ、次第に息が荒くなり、額の熱さも今までよりさらに上がっている。


「大変。お医者様を呼んだ方がいいかしら!」


 しかし、医者にかかるにはチューリッヒの町にまで行かなければならなかった。この時間からは行けばもう着くのは夜遅くなり、医者も来てはくれまい。

 ブルクハルトが用事から帰ってくると、カリーナは夫に声を掛けた。


「あなた! 大変なの」

「そんな慌てて、どうしたんだ?」

「アフラの熱がとても高くて。お医者様に診せないと……」

「まあしばらく様子を見よう。明日になれば熱も冷めるかもしれない」

「でも、とても熱が高くて。苦しそうなの」

「まあ子供の熱だ。すぐに治まるよ」

「それにマリウスが馬車が来たって……」

「ちょっと待て、今は、それどころでは無い事態なんだ」

「シュタウファッハさんのこと?」

「そうだ。ウーリの存続の危機だ。事によるとハプスブルク王家に呑み込まれるかもしれない」

「まあ。そんなことって!」

「これから広場で緊急ゲマインデを開く。男達はもうそろそろ集まって来ているだろう」

「緊急ゲマインデ? それは大変……」


 ゲマインデは民主的な会合とも言えたが、参加は自由人の成人男性に限る。女達や子供達はその話に参加出来ず、遠くからその歓声を聞くだけだった。

 エルハルトとアルノルトの二人も本来ゲマインデに参加出来なかったが、もう十八になるエルハルトは今回、特別に参加を許された。エルハルトは村長のところへ行って、ゲマインデを開くように伝えた後、村のあちこちにその報せを触れて回っていたので、自然とその流れになったこともある。

 ゲマインデは昔からの風習で武器を持って集まったので、戦の前の会合にも似ていた。普段壁に飾ってある武器は、この時のためにあるとも言える。それらは始まりの礼を取ったり、挙手の替わりに武器を鳴らすために使われた。

 村の広場には古びた武器を持った男達が集まって来ていた。ブルクハルトが到着すると、待ちかまえていた村長がやって来て言った。


「おお。ブルクハルト。皆ももう集まって、ゲマインデの準備は出来ておるが……一体何があったんじゃい」

「ここで話せば長くなる。まあ村の皆も一緒に聞いて頂こう。ゲマインデを始めて欲しい」


 村長は頷くと壇上に上がって言った。


「これより緊急ゲマインデを始める」


 村人はそれぞれの持つ武器を前に立てて礼を取った。


「今日我々をここへ呼んだのは管区長だ。ブルクハルト。皆に話をしてくれ」


 ブルクハルトが壇上に上り、村に起こった出来事を告げた。


「村の諸君。緊急に集まって貰ったのは他でもない。村の大事が起こったからだ。ハプスブルク王家が隣国を買い漁っていることはもう知っていることだろう。このウーリも今、その危機にある」

「なんだって!」


 村人達はざわめいた。


「静粛に。ウーリは前王より特許を得た自治の州だ。我々は多くの農地や牧草地を教会に預けて共有し、共同して峠道や土地の開発に人を回すことで村を発展させてきた。我々の生活、生命はこの自治によって成り立っている。我々の結束は固く、領主の入る隙など無い」


 村人たちは「そうだそうだ」と頷いた。


「ところがだ。この修道院の守護権が王家に渡った。また、この程、峠のウルゼレン一帯が王家の息子の領地となった。隣のニートヴァルデンやオプヴァルデンの修道院の領地が買収された例もある。ハプスブルク王家はこの辺の領地持ちの修道院の守護権を得る事で、王家の領地と同じような扱いにしていくつもりだろう」

「王家の領地だって!」


 村人達はブルクハルトに喰ってかかった。


「自治の特許状があるんだ! そんなことを許していいのか!」

「このまま指をくわえて見てるのか!」


 村人の声にブルクハルトはサーベルを地に打ち付けて言った。


「無論、座して見てはおれぬ。とは言え相手は王家だ。まずは、皆の意見を問いたい。王家の横暴と戦うべきかどうかを!」

「王家だろうと何だろうと、このウーリは渡すものか!」

「王家なんてまだ無冠だぞ! そんな奴の言うことなど聞く必要は無い!」


 村人から口々に怒号が飛んだ。

 ブルクハルトはサーベルを抜き、高く掲げた。金属音が糸を引いて響く。


「我らの剣は自治の権利の上に捧げられている。王家と言えども戦うべし! 皆の声はそれでいいか?」


 村人はブルクハルトと同じようにサーベルを抜いて鞘で叩き、金属音を上げ始めた。


「戦うべし!」

「戦うべし!」


 サーベルは鳴り続け、村人は口々に「戦うべし」と叫び、剣を掲げた。


「静粛に!」


 村長の声ですぐに騒音は止んだ。頷いてブルクハルトが続けた。


「流石はウーリの民。よい覚悟だ。誇りに思う。皆の意見は判った。これから難事もあることだろう。今後は村で協力して事態に当たろう。良いな?」


 村人はまたサーベルを打ち鳴らした。ブルクハルトが両手を挙げると、それは止んだ。


「友邦シュウィーツでも今、同じようなことが起こっている。シュウィーツのアーマンであるコンラット・シュタウファッハ殿が今日こちらに来ているので、その詳しい話を聞きたいと思う。ではシュタウファッハ。話を頼む」


 ブルクハルトから紹介されて、シュタウファッハは壇上に上り、シュウィーツの現状を語った。


「ご存じの通りシュウィーツはウーリと同じく前王より独立自治の特許を頂いた領邦であります。しかし大空位の時代の内に領主断絶によってハプスブルクの保護下になり、以来王と教会、二重の税がかかり、人々は重税に苦しんでいます。ウーリと同じように我々にも自治の特許があったのにです。我々は自治を取り戻すため、以前よりこの不当な圧政と戦って来ました。それが故にウーリの自治は我等にとって理想であり、希望の国だった! それが今、破られようとしているのです! 私は、居ても立ってもいられなかった! いかなハプスブルク王家と言えどもこんな横暴を許すことは出来ない!」


 群衆から拍手と喝采の声が沸いた。


「ありがとう。ありがとう。我等は今、運命を共にしようとしています。ウーリとシュウィーツはずっと隣の友邦だった。共にラントの自治を守るため戦おうではないか!」

「おお!」


 村人達はシュタウファッハの言葉に呼応の声を上げ、武器を打ち鳴らした。

 エルハルトも父のサーベルを打ち鳴らし、大いに声を発した。


 アルノルトは窓を開けて眼下に広がる広場の明かりを見ていた。この日のゲマインデは夜遅くまで行われ、とても騒がしかった。遠くからよく怒号のような声が聞こえた。武器を打ち鳴らす音も大きく聞こえた。

 しばらくして、アルノルトはアフラの様子を見に行った。看病していたマリウスはベッドの傍らで眠っていて、アフラの額のおしぼりは額の上から落ちていた。額におしぼりを乗せ直しながらアフラのこめかみを触ると、その熱はまだとても高かった。

 アフラはうわごとを言った。


「お花畑………」


 アルノルトはしばらくアフラのおしぼりを替えて看病をした。汗を拭きながら、アルノルトはアフラに話しかけた。


「寝ててもお花畑か……花くらいは明日取って来てあげるよ」


 しばらくすると、母が入って来て言った。


「マリウスは寝ちゃったの?」

「うん。看病しながら寝ちゃったみたいだ」

「あなたももう寝なさい。看病は私が代わるから。マリウスも今日は頑張ってくれたわ」


 そう言って、母はアフラの隣に羊毛の布団を重ねて敷き始めた。そしてそこへマリウスを寝かせた。

 自室に帰ったアルノルトは、父と兄の帰りを待っていたが、夜遅くなっても、父とエルハルトが帰って来なかったので、いつしか眠気が勝り、そのまま先に眠った。




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