俺は地獄にゃ帰らないぜ
山田ダチトがゲームパッドを握りしめてから、既に半日が経っていた。カーテンを閉めきり、明かりをつけるタイミングを逃した薄暗い部屋の中、ゾンビーどもと山田ダチトのアバターが繰り広げる悲喜こもごもを映し出すテレビ画面が浮き上がるように青白い光を放っている。
聞こえるのはゾンビーの呻き声とごっつい銃声、鈍器でゾンビーの頭をかち割る音、それに時々山田ダチトの舌打ち。安物だけどとびきり美味しいウイスキーをちびちびやりながら、山田ダチトは思い思いの方法でゾンビを蹂躙したり、ゾンビーから逃げまわったり。ざまあみろ、一丁あがり! おっと、危機一髪! あ、ちくしょう、しまった、やられちまったい!
山田ダチトはとにかく忙しい。なにしろゾンビーは山盛りいっぱいだ。悦楽の時。永遠というものがあるなら、こういう風であって欲しいもんだ。だけど山田ダチトは時計を盗み見る。何か悪いことしているみたいに。カーテンを透かして夕焼けが真っ赤に燃えているから、夕方なのはわかりきっているのに、まだまだ明日にはならないはずなのに、だけど山田ダチトはやっぱり時計を見てしまう。だって見てごらん、あのこまっしゃくれた秒針を。一秒一秒止まることなく進んでいるじゃないか。知らん間にこいつが勝手に一周二周三周四周カチコチカチ……ほら、もう明日は目の前だ!
なにかが不公平なのだ。なにかが不正を働いているのだ。山田ダチトが仕事のない日は決まって太陽が急かされるように焦って昇って落ちて、月までそれに倣って急ぎ足なのだから、山田ダチトも不本意ながら時計を監視せざるをえない。本来なら仕事のない日はもっと大らかで愉快な気分になるべきじゃないか? なにかがそれを許さないのだ。そのなにかはなにか? 山田ダチトにはわからない。尻尾すらも掴めないまま。
おそらくもう夜中と言っていい頃合い。山田ダチトが時計をまた見た! 山田ダチトの仕事が始まるまではあと九時間もある。たっぷり九時間だ。だけどちょっと待った。山田ダチトが家を出るのはその一時間前。つまりはあと八時間以内に山田ダチトは仕事に行ける準備をしないといけないってわけだ。それでも八時間あるじゃないかと言う向きもあるかもしれないが、ものは考えよう。八時間の中で六時間の睡眠、ほったらかしの腹の虫を落ち着かせる、ゾンビーをあと千体ほどやっつける、あったかいシャワーを浴びる、などなどのことがらをこなさなければならない。どうしたって八時間では足りない計算じゃないか。そこで山田ダチトはあったかいシャワーをキャンセルすることにした。苦渋の決断。これで時間に余裕ができた? いいや、まだ全然。だから山田ダチトは栄養補給も諦めた。なあに、一日くらい食べなくたって大丈夫、ウイスキーならたんまりあるし。これで時間に余裕ができた? まだだ、まだ足りない。山田ダチトのアバターがマチェットでゾンビーの首をすぽーんと飛ばしたのが山田ダチトに閃きをもたらした。大鉈を振るおう。そいつで諸悪の根源を断ち切ってやれ。山田ダチトはあと八時間に二十四時間を足すことにした。これで次の仕事に出発するまでの用意の時間をなんと三十二時間にまで延ばせる! 必要なものは一本の電話と、自分を信じること、たったのこれだけだ。
これでようやくひと安心。山田ダチトは時計の監視を一時控えることにした。なにしろ三十二時間だ。秒針のやつがどれだけ仕事熱心でも、そうそう追いつかれる心配はあるまい。あとは空が白んでスズメたちがお喋りを始めた頃に電話を入れさえすればいい。
さて、計画は上々、やっつけるゾンビーの数をグンと上方修正して、気分も上げて、山田ダチトは勝どきを上げた。見よ、山田ダチトにされるがままのゾンビー、ゾンビー、ゾンビー、ゾンビーを! おいおい、そりゃちょっとやり過ぎだ! 首が、四肢が、血しぶきが、カーニバルの紙吹雪のように舞い上がる! 山田ダチトはある境地に入っていた。ごくごく小さな一点を穿ち続けるような集中力に、後方まで見通せるほどの限りない視野の広さを併せ持ち、心は氷のように冷たくマグマのように沸き立っている。山田ダチトのお楽しみはまだまだこれから、今まではウォーミングアップのようなもの! ところがそんな山田ダチトに冷水をぶっかけるように野暮な玄関のチャイムが鳴った。なんだってこんな時間に、山田ダチトがそう思った時にはもう遅かった。山田ダチトが手にしていた境地は脆くも消え去り、その余韻すら残してはくれなかった。山田ダチトのアバターがゾンビーどもに頭をかじられて、画面が赤黒く染まった。YOU ARE DEAD。
また玄関のチャイムが鳴った。一度ならず二度。やや間があってもう一度。あとはもう滅多やたらに。チャイムを鳴らしているやつは、相当なせっかちに違いない。
夜遅くだ。来客の予定もない。玄関のチャイムは鳴り続けている。大抵のやつなら悪い予感や想像でいっぱいになり、息を殺して恐怖と戦いながら玄関の覗き穴まで抜き足差し足で向かうところだろうが、山田ダチトはひと味もふた味も違う男だ。乱暴に立ち上がりドカドカ足音を立てて玄関に向かい、躊躇うことなくドアを開け放った。
まずは強烈な臭いが山田ダチトの鼻孔をかち上げた。玄関先に立っていたやつを見て、山田ダチトはすぐにその理由がわかった。そいつは腐っていたのだ。肉という肉が崩壊寸前といった感じで、ところどころに骨が覗いていてまるでゾンビーだ。しかもかなり熟れているタイプの。
さすがの山田ダチトもたじろいだが、心底たまげたってほどじゃない。その証拠に山田ダチトは声ひとつあげなかったし、そいつから目を逸らしたりはしなかった。
「夜遅くにすまんな」
腐ったやつが大して悪気はなさそうに言った。聞き覚えのある声だった。それにこの目、こいつなかなかいい目をしている。自信がみなぎっていて、頼り甲斐があって、そのくせ涼しげで……こんな目をしているやつは山田ダチトが知っている中では一人しかいなかった。川田エース。山田ダチトの古くからの友人だ。三年ほど前に死んでいるってところも条件と一致している。
「おまえ……もしや川田エースか?」
「ああ、久しぶりだなダチト。川田エースが地獄から蘇ったぜ。まさか文句はなかろうな?」
「大枠においてはな。だがその臭いはなかなかたまらんものがある」
「そんなに臭うか? 俺にはなにも感じないのだが」
川田エースは、自分の腕や脇の下を嗅ぐ仕草をしながら、不思議そうに言った。
「誰でも自分の臭いには鈍感なもんだ。それにおまえの鼻、多分だがそれはもう使いものにならんのだろう。まあ、あまり気にするなよ。こんなところで立ち話もなんだから、ほら貝亭にでも行こうや」
ほら貝亭は山田ダチトがここいらで一番ひいきにしている飲み屋だ。かつては川田エースも常連のひとりだった、と言うのは控えめに過ぎる表現か。なにしろこいつは入り浸りだった。もし、あんたも興味がわいたなら気軽に立ち寄ってみるといい。少々オツムの足りないやつらが集まる傾向にあるが、出てくるものは料理も酒も気が利いていて、やたらと安い。オツムの足りないやつはいつだって大歓迎。ただし、煙草の煙に敏感なひとはご注意を。連中はたんまり煙草を吸いまくる。こじんまりとした店内には、いつだって刺激的な煙がもうもうとたちこめている。
「あそこならおまえの臭いも目立ちゃしないぜ」
「そんなに臭いかなあ?」
川田エースは、いつになく弱気に呟いた。無理もない。こんな風になる前は、ジャコウの香りを身にまとう地域でも指折りの伊達男だったのだから。
「俺がガキの頃の話だ」山田ダチトは鼻をつまみながらしゃべりはじめた。「ある日の晩飯の最後のひとくちがどうしても食えなかった。あれはたしかソーセージだったな。腹が一杯になっていたのか、それともソーセージを食わされ過ぎて飽きちまってたのか、今となっては理由は定かじゃないが、俺はそのソーセージを手の中に隠して、ごちそうさまをしたんだ。
本当は素直にもう食えないと言えばよかったのかもしれない。あるいはそのまま窓の外に投げちまえばよかったのかも。だが、俺はどっちも出来なかった。晩飯を作ってくれた俺の三人めの母親とは一緒に暮らし始めてまだ日が浅くてな。食い物を残すのも捨てるのも悪人がやることだと俺は信じ込んでいた。新米の息子がそんなことをしでかす問題児だと彼女が知ったらどうなると思う? ガキなりに気を使っていたんだよ。わかるだろ? 俺は急いで自分の部屋に戻って、学習机の引き出しにソーセージを放り込んだ。それで終わりだと思ったよ。もう安心だって……」
「だが、終わりじゃなかった……」と川田エースが合いの手を入れた。
「その通りだ。その晩はなんともなかった。その次の晩もどうってことなかったな。その次の晩もその次の晩も、言うほどじゃない。雲行きが怪しくなってきたのはその次の晩あたりから。俺にはわかってた。あの学習机の引き出しの中で、なにかが起こってる。日に日に酷くなっていったぜ。それでも、俺はなかなか踏ん切りをつけられずにいたんだ。
大人たちがざわつき始めて、ようやく引き出しを開ける決心がついた。取っ手に手を掛け、祈ったよ。なにもありませんように、なにも飛び出してきませんように……」
「聞かせるねえ。クライマックスは間近ってところか」
「残念ながら、こいつはそう言った類の話じゃない。地獄の釜が開いたり、未来から変てこな野郎が警告にきたり、人類存亡を賭けた宇宙戦争とかを期待してると、痛い目に遭うぜ」
「地獄に関しちゃ、俺はちとうるさいぜ。なんせ、ついさっきまでそこにいたんだからな」
「俺は開けたよ、引き出しを。やつらが蠢いていた。全身が腸の、食い意地だけで生きてるような、小さくて白いやつ。一体いつ、どこから、やつらは入り込んだんだ? 俺は閉めたな、引き出しを。あとにはなんとも言えん臭いが漂っていた。おまえの臭い、それにそっくりだぜ」
「優しい痛みを伴う、ノスタルジックな香りってやつ。悪い気分じゃないね」
ふたりは夜の街をのんびりと歩いた。いつの間にやら、ポケットに手を突っ込んで襟を立てて背中を丸める季節は過ぎ去っていた。確か昨日まではそんな季節だったはずなのに。少年も季節も一晩でがらりと変わるというわけか。こんな晩に、しかめっつらは似合わない。だから、ふたりはのんびりと歩いた。ふたりとも、いい表情をしていた。かたや地獄をくぐり抜けてきて、もう片方はこれから地獄に向かおうとしている、そんな連中にしてはの話ではあるが。
川田エースは山田ダチトの近況を聞きもしなかったし、山田ダチトもそれは同じだった。もちろん、お互いに気にならなかったわけじゃない。酒を飲まずに話すなんてもったいない。全てはほら貝亭に着いてから。そういうことだ。
「おお、懐かしき我が家よ!」
最後の曲がりを抜けて、ほら貝亭の灯が見えてきた時、川田エースはそう言って天を仰いだ。それは感に堪えずに漏れ出たと言うよりも、あらかじめこう言おうと決めてあったような趣きがあった。だからと言って、川田エースの言葉に嘘が含まれているわけじゃない。地獄から蘇った川田エースにとって懐かしき我が家と呼べるのは、ほら貝亭以外にあるはずがないだろう?
ほら貝亭では、店主の豊田バムを含めた五人の男たちがひっきりなしに酒を飲み、煙草を吸い、楽しいおしゃべりに興じていた。こじんまりとした店内は、もはやネズミ一匹潜り込むことすら不可能に思えるほど窮屈だったが、山田ダチトと川田エースが店に入ってくると、不思議なことにちょうどふたり分の隙間が空いた。不思議なことだが、こういった店にはよくあることだった。だから、あんたがほら貝亭をちょっと試しに覗いてみた時、こじんまりとした店内がいっぱいに見えたとしても、物怖じせずにそのまま入ってしまえばいい。たいていの場合、なんとかなるもんだ。
連中は山田ダチトと顔見知りで、川田エースももちろんそうだったのだが、腐り果てた川田エースを見て、そいつが川田エースだとは誰もが思わなかったし、その腐り具合にえらく面食らったようだった。それでも肝の座ったオツムの足りないやつらばかりが揃っていたので、悲鳴をあげたりあたふたと逃げ出そうとするような情けないやつはひとりもいなかった。みな、腐った男を見たのは生まれて初めてのことだったので、どう接していいのかわからなかっただけ。
「野郎ども」川田エースが威勢よく言った。「川田エースが地獄から蘇ったぜ。まさか文句はなかろうな?」
店内がどよめいた。なかでも川田エースの死を一番悲劇的に捉えていた新田キミカルの反応は激烈だった。
「貴様、いま川田エースと言ったな? 川田エースが蘇ったと? 俺は三年前のあの血なまぐさい一件で散った川田エースの骸をこの目でしかと見たのだぞ。どんな奇跡が起こったって、やつが蘇るなんてことがあるものか! それに第一、気味が悪い」そして新田キミカルは怒りの目を山田ダチトに向けた。「ダチト、貴様とエースは血の繋がりこそないものの、兄弟のような間柄であったはず。なぜ貴様はこの腐った道化者が川田エースの名を騙るに任せておくのだ!」
「落ち着け、キミカル。落ち着いて、こいつの目をよく見てみろ」
山田ダチトがそう言うと、新田キミカルは素直に川田エースの瞳を覗き込んだ。豊田バム、庄田イアウデ、剛田ムジカル、志田スヘリアリら残りの四人もそれに倣った。
「なかなかいい目をしているな」
豊田バムが言った。
「自信でみなぎっている」と庄田イアウデ。
「こいつは頼れるやつだよ」剛田ムジカルが続く。
「そのくせ涼やかな風が吹いているようだ」志田スヘリアリが呟いた。
新田キミカルが思わず立ち上がり叫んだ。
「エースだ! こんな目をしている野郎は川田エースをおいて他にいない! なんてことだ、川田エースが蘇りやがった!」
酒だ、酒を持ってこい! 歓喜の雄叫びが誰からともなくあがった。豊田バムはそんな声があがる前からとっくにアイスボックの栓を景気よく抜きまくっていた。こんなに大量のアイスボックをあんたは見たことがあるか? こんなに行儀悪くアイスボックを飲む連中を?
「地獄ってのはどんなところだ? 俺は前から死んだ後のことに興味があったんだよ。とりわけ十中八九俺が行くことになるだろう地獄についてはね」
庄田イアウデが興味津々の面持ちで尋ねた。
「地獄は地獄だったよ。いや思ってたよりか更に輪をかけて地獄だったな。とにかく我慢のならないところだ。俺は地獄でこんな言葉を覚えた、みじめ、さみしい、むなしい……いずれも俺の中にはなかった言葉だ」
「それにしてもだ」ガタガタの歯の間から煙をたっぷり吐き出しながら剛田ムジカル。「地獄から蘇っちまうなんて前代未聞だよ。一体どうやってそんな芸当ができたんだ、エース? 俺もそのうち地獄に行くこともあるだろうし、是非ともそのウル技をご教示願いたいね」
「とにかく走ったのさ、一心不乱にね。走り続けていればこの地獄だっていつかは終わりがくるだろうと、それだけを信じて。地獄の連中が足を引っ張ってきたけど、その度そいつらに強烈な蹴りを食らわせてやったよ。だから脚力だけは鍛えておいた方がいいかもしれないな」
「そいつは何よりかにより耳よりな情報だな」志田スヘリアリがトレードマークのボーラーハットを被りなおして言った。「しかし、なんでだ? なんで戻ってきた?」
川田エースはきょとんとしながら首を傾げた。
「なんで? どう言う意味だ?」
「つまり理由だな、戻ってきた理由。あるんだろう?」
「理由がなきゃ駄目なのか?」
若干の苛つきを滲ませながら、川田エースがまた質問で返した。志田スヘリアリは少し焦りながら、怒るなよと言う意味を深く込めて川田エースに笑いかけた。川田エースの瞬間沸騰っぷりと、その爆裂っぷりは身に染みてわかっているのだ。
「駄目ってこたないぜ。だが地獄から蘇ってくるなんざ並大抵の意志の力じゃできっこない。でなきゃ、この世はゾンビーだらけになっているはずだろう。おまえを突き動かした、不可能を可能にしてしまった、その原動力を知りたくなったのさ。例えばおまえを地獄送りにした連中への復讐、とかな」
「復讐? 考えたこともなかったよ。なんせやつらはこの川田エースをいっぱい食わせて、そのうえぶっ殺しちまったんだから、敵ながらあっぱれ、尊敬こそすれ憎しみなんてこれっぽっちもないぜ」
「驚き桃の木」新田キミカルがカイゼル髭をよじりよじり驚嘆した。「川田エースがやられっぱなしで黙っていられるとはな!」
「おいおい、俺は一度死んだ身だぜ。少しは大人にならにゃあ。とったとられたはもうお終い」
「じゃあなんの目的もなしに地獄から蘇っちまったってわけか!」と志田スヘリアリ。
「さっきから理由だの目的だのうるせえな。地獄が性に合ってなかったってだけじゃまずいのかい。……わかったわかった。そんな目で見るな、まったく目端だけは利きやがる薄汚い野次馬どもめ! わかりました、話すよ話しますよ!
地獄を突っ走ってる間に諦めそうになったことが何度かあったんだが、その度に俺の胸によぎったのが、白石つぐみさ。知ってのとおり俺には何人もの女がいたけど、他の女は毛の先ほども思い出しやしなかった。考えてみりゃ不思議な話だけどよ。白石つぐみは佐野やよいほどにとびきり美人ってわけでもないし、佐々木ななえほど危ない雰囲気をたたえてるってわけでもない。中尾ゆふらんほど刺激的な身体をもっているわけでもないし、多々良もとこほど床上手ってわけじゃない。それでもあいつのことを想うと、折れかけた心がしゃんと真っ直ぐ元どおり、いつもの素敵に不敵な俺に戻った。……そうさ、これが俺の理由さ! 俺はもう一度この腕で白石つぐみを抱きしめるために、地獄から舞い戻ったんだ!」
川田エースが白石つぐみの名を口に出した瞬間の微妙な雰囲気の変化はなかなかの見ものだった。豊田バムは急に食器洗いを始めた。新田キミカルはずっと忘れていたことを思い出したかのように目をこすった。庄田イアウデは耳をぴくぴく動かして、剛田ムジカルは突然手首を回し始めた。志田スヘリアリは物憂げにテーブルの木目を指でなぞりだし、山田ダチトは真っ直ぐに川田エースの目を見つめ続けた。
「おい、なんだおまえら。なんなんだ、おい」
この七人が集まったにしては比較的重苦しい沈黙が続いた。一番最初にそれに耐えられなくなったのは庄田イアウデ。
「あいつは……白石つぐみは、間違いなくおまえを愛していたよ、エース。なあ、おまえら」庄田イアウデの呼びかけに川田エース以外の五人は深く頷いた。
「一体何があったんだ、思わせぶりは大嫌いだぜ!」
川田エースが叫んだ。
「おまえが死んでからしばらくの白石つぐみは見ちゃいらんなかったよ」剛田ムジカルが引きとった。「酒を飲んでは泣いて、薬をやっては泣いて、空を見上げては泣いて、多分あの頃のあいつに針を刺したら血よりも涙が出たんじゃないかな」
「そんな時だよ。やつがふらっとここらに現れたのは」志田スヘリアリが更に引きとった。「やつは流しのバンジョー弾きさ。めちゃくちゃイカした野郎だったよ」
「こんなぶっとい揉み上げが髭と繋がっててな。ケンカ屋の中のケンカ屋って感じだったな」と庄田イアウデ。
「ああ、ありゃイカしてた」志田スヘリアリはため息混じりに言った。「やつのベルトのバックル覚えてるか? 俺の顔くらいある使い込んだ真鍮のバックル。俺も欲しくなってどこで手に入るのか聞いたんだが、やっこさん途端に哀しそうな顔して、黙って首を横に振りやがった。さすがの俺もあんな顔されちゃあ、それ以上は何も聞けなかったぜ」
「真っ赤なベルボトムがあそこまで似合うやつもそうはいないだろうな。薔薇の刺繍の入ったサテンのシャツも印象深い。真冬だってのに胸をはだけてよ、メキシコ風のドクロの刺青が嗤ってたっけ」と剛田ムジカルが感慨深げに。
「つまりそのバンジョー野郎が、俺のいない間に白石つぐみをモノにしちまったってことか? そうなんだな! ちくしょうぶっ殺してやる!」
「やつらもういないさ」新田キミカルが重い口を開いた。「ある日どこかに旅立っちまったよ。だが、エースよ。白石つぐみの名誉のために言っておくが、白石つぐみもすぐに野郎になびいたわけじゃない。最初の一年ほどは野郎がどんなに情熱的に口説こうが、頑なに応じやしなかったんだ」
「そこいらの女なら五千回は落ちてただろうな」剛田ムジカルが冗談めかして言ったが、その目は本気だった。
「思うにエース」庄田イアウデが決めにきた。「おまえは死ぬには早過ぎたし、蘇るにはちと遅過ぎたんだ」
「そりゃあんまりだぜ! 俺は真実の愛を手に入れたと思った、あいつになら永遠の愛を誓えると思った、俺は急いだ、超特急で地獄を突っ切ったんだ、ああ、それなのによ、そりゃあないぜ!」
川田エースが泣き崩れた。こんなことはそうそう滅多にあるもんじゃない。川田エースが泣いたのだ。あんたは今までにこんな光景見たことある?
と、ここで世界が揺れた。今まで誰も経験したことのない、とてつもなく変な揺れだった。そいつはまったく気まぐれに強くなったりもっと強くなったり、縦横斜め好き放題に揺さぶった挙句、飽きたのかそれとも疲れたのか突然ぴたりと止んだ。
「うおおお。すげえ揺れだったぜ、まったく今夜はなんでもありだな!」
剛田ムジカルが興奮ぎみにわめき散らした。
「だが今の揺れで倒れた酒瓶は皆無だと言う事実、こいつをどう解釈すればいいのだ?」
新田キミカルの言うとおりだった。無数の酒瓶(そのほとんどが空だったのに関わらず(いや、あんな揺れの中では中身の有無など大した問題ではない))は元々倒れていたものを除いて直立不動の姿勢を保ったまま。また酒瓶だけではなくグラスや食器類も割れたりした気配はなかったのだから、新田キミカルでなくとも首をひねらざるを得ない。そもそもの話、ここいらで一番のおんぼろであるほら貝亭が、ぺちゃんこに潰れていないこと自体が摩訶不思議なことだったのだ。
なにやら表が騒がしくなったので一同は外に出てみた。
「うわお。どこもかしこもゾンビーだらけじゃねえか」
ああ、そうだ。庄田イアウデの言うとおり。通りはゾンビーが列をなし、押し合いへし合いしていた。ゾンビーたちの渋滞はいつ果てるとも知らない、そんな勢いがあった。
「これはおまえのせいだぜエース。おまえが地獄に穴を開けちまったんだ」ついに豊田バムが長い沈黙を破った。
「おまえの説が合っていようが間違っていようが、この際合っているていで話を進めたっていいが、どっちにしたって俺には関係のないことだぜ。はっきりと言っておくぜ、俺は——」
「まあ、積もる話は中でしようぜ。飲み直そうや」
庄田イアウデが川田エースをさえぎり言った。
さて、山田ダチトが次の仕事に行くまでにあと二十九時間を切ったのだが、山田ダチトは仕事に行くべきなのだろうか? ゾンビーが溢れかえっているようなこんな状態で?
山田ダチトは行かなければならないような気がしている。仕事というものは思ったよりずっとしぶといのだ。