かたしろ(作:霜月透子)
極まる静寂に耳鳴りがする。それは秋の夜に虫たちが一斉に鳴き交わすに似る。
見渡す限り白色の平原。山も谷も、わずかな起伏さえも見られない平らに延べられた地表。
そこに巨大に角ぐむいくつもの白い隆起物。太さ高さに違いはあれど、どれも石筍のごとくそそり立つ。
地の彼方から風が吹く。吹かれる感じはすれども音はせず。耳元ですらそれは鳴らず。白い線が放射状に押し寄せる。
ああ、雪か。吹雪いているのだ。吹き荒ぶ雪原に私はいるのだ。
ならば石筍のごとし無数の隆起物は樹氷であろうか。円柱形というよりは円錐形に近く、だがその面は滑らかに歪んでいる。
音もなく凍つでもなく雪は吹き付ける。地平線が空と混じり合い、吹雪に埋もれていく。
ふつと風はやみ、横殴りの雪ははらはらと天より揺れ降る。
雪原にもぞりと揺らぐものがある。並び立つ樹氷のひとつがもぞりもぞりと細かに動く。
風もないのに動くものなのか。あるいは雪の重みでたわんているのやもしれぬ。今にどさりと雪の塊を落とすのだろう。
踏みしめている感覚すらおぼつかぬ柔らかな雪を踏み分け、かの樹氷を覗き込まんと回り込む。すると先程までは陰となっていたところから腕のような二本の枝が伸びているではないか。樹氷がもぞりと揺れるたび、その枝が隣り合う樹氷の表面をぼろりぼろりと削っている。
あたりはしんと白く静まったまま。
雪は降りつつ。
寒くはない。肌を細かく切りつけるような冷気もなく、鼻腔を凛と通る雪の香りもない。
私はただここに在る。
音もなく。色もなく。
雪降る方を仰げども広がるは白き空。雪雲が一面に広がっているに違いないが、ただ白く広がる天に日も雲も認めることはできない。
天はただここに在る。
雪は降る。
かの樹氷はもぞりもぞりと隣の雪を掻き落とす。傍らで見るともなく見続ける私のことなど気にも留めず。
私は胸の奥で小さな泡がかぷりと浮かんで柔らかに割れるのを感じる。樹氷が私を気にも留めないのはさるべしこと。人ではあるまいに。
樹氷のふたつの腕は白い塊を削っていく。まるで彫刻のように。まるで像を掘り出すように。その姿は一木造りに没頭する仏師と見紛うほどにて。
削り、削られる。
音もなく、色もない雪原で。
しんしんと。
黙々と。
やがて削れて剥がれて現れる。樹氷と見えた石筍のごとき雪塊から人の形が現れてくる。
人の身の丈ほどの雪像。輪郭が揺らめき、辺りの光を集めるかのようにどろりと煌めく。
色だ。もうすでに私にはその名も浮かばぬ色たちが白いこの世に生まれ出でる。
そこに重なっていた像が剥がれるように分離していく。雪像はそのままに、うっすらと色づいた人が幻影のように去っていく。
幻影は林立する樹氷の間を定められた道を辿るようにすいすいと去っていく。
その姿が白く霞む地平の彼方へと薄れゆく頃、天に星がひとつ流れた。白く光る天とその天を覆う白い雪雲が星の道を隠しているはずであるのに、星はたしかに流れた。
傍らでぶわりと雪煙が立つ。
見れば、先ほどまで雪像を掘り出していたところに崩れ落ちた雪塊がぼてりとあった。これもまた樹氷ではなかったのか。
見渡せば、樹氷と見えた突起物はおそらくどれも雪塊なのであろう。幾箇所でふたつの腕を突き出した者が眠りに落ちるかのように揺らぎつつ雪像を彫り上げていく。
そしてべろりと剥がれた幻影が地の果てへと向かい、星が流れ、雪塊が雪煙となす。
繰り返し。繰り返し。
幾度目かの星が流れ、それは迷うことなくこちらへと迫りくる。
避けようにも足が竦んで逃げること叶わず、その場に背を向けて座り込む。
やがて、ふたと背に当る感じを覚える。衝撃も痛みもない。ただ当った勢いのままに私の中へ入り込んだことだけを感じる。
立ち上がってみるが、なんらおかしなところはない。あれはなんであったのだろうと考えを巡らせてみるものの、はなから答えなど整えられている由もなく。
ふたたび私は雪原を眺め、天を仰ぐ。舞い散る雪は私の上で押し広がり、降り来る彼方を見上げれば、吊り上げられし心持ちとなる。
しばしの後、はらはらと天より揺れ降る雪はしだいに風に煽られ、みるみるうちに真横から吹き付けるに変じる。
辺りは白く霞み、地の彼方から風が吹く。吹かれる感じはすれども音はせず。耳元ですらそれは鳴らず。白い線が放射状に押し寄せる。
ああ、また吹雪いているのだ。吹き荒ぶ雪原に私はいるのだ。
目の前に何者かが立つ。
真っ白い出で立ち。幾重にも白い布を巻きつけたような姿。口元まで覆い。目だけが覆われずに残っているものの、深く被る布のせいで陰に沈み見ること叶わず。
私はと言えば、ここに佇んだまま動くこともままならず。寒くもなければ冷えもしない。それなのに我が身は凍り固まったかのようにただここに在る。
面前の何者かは樹氷に見える。さては人と見えたは幻か。
樹氷から腕のような二本の枝が伸びている。樹氷がもぞりと揺れるたび、その枝が私の表面に吹き付けた雪の膜をぼろりぼろりと削っている。
樹氷のふたつの腕は白い塊を削っていく。まるで彫刻のように。まるで像を掘り出すように。その姿は一木造りに没頭する仏師と見紛うほどにて。
削り、削られる。
音もなく、色もない雪原で。
しんしんと。黙々と。
私はただここに在る。
音もなく。色もなく。
天はただここに在る。
すがらに雪は降りつつ。
(了)