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ELEMENT 2016冬号  作者: ELEMENTメンバー
セッション・ソロ
18/20

戦禍を望む者(作:紫生サラ)



   壱


 和平会談数日前。

 獣人の国の獅子王オグルーヴは居城である獅子邸のリビングで険しい顔をしながら和平会談用の資料に目を落していた。

 五芒星大陸の西端に位置する獣人の国は、数多の獣人たちが雄大な自然と共存するような生活を送っている。 

 この獅子邸もまた、獣人の国の神樹の森にある巨木、神樹の根本の間に建てられていた。

「ふむ、どうしたものか……」

 木製の巨大な椅子の腰かけ、モフッとした尻尾をゆらゆらさせながらマグカップに入ったカカオティーを口に運ぶ。温度はぬるめ、オグルーヴは猫舌だ。

 獣人は今まで領地拡大を目的に戦いの歴史を刻んできた。しかし、本来獣人は広い領地が必要なわけではない。獣人が望むものは自由。自由に色々な土地に行き来できるようになることが一つの目的だ。

 もともと多くの獣人はその性質上、自由を好み、平穏を好み、モフッとしながら昼寝をしたりしたい。

 そしてもう一つ、他種族間との婚姻をしていきたいという想いがある。

 それは獣人特有の事情があった。というのも獣人間の婚姻が続くと獣の血が濃くなりすぎ、その結果「獣化」と呼ばれる狂暴な獣人が生まれやすくなるのだ。

 獣化した獣人は普通の獣人達との衝突や他種族間での戦のきっかけをつくってきたという歴史がある。 

 今でこそ獣化した獣人は見られなくなったが、その時の記憶が他種族には誤解されたまま知れ渡っている。

 そう、『獣人はすべて好戦的で狂暴』だと。その事が獣人の自由を奪い、他種族間との婚姻を難しくしている。

 現在の他種族間の争いは、もっぱら自国の防衛に努めているような状態であった。

「あらあらぁ、もうすぐ和平会談なのですねぇ」

 キッチンの方から鈴を転がしたような涼やかな声が入って来る。のんびりとした口調の声の主は、腰まで伸ばした金髪に緑色の瞳が印象的な人間の女性。

 彼女はオグルーヴの妻であり、獣人の国に隣接する人間の国の領主の娘、リリアナ。

 一部の理解ある人々とは他種族であっても仲良くやっている。特に人間と獣人とは相性がいい。リリアナとオグルーヴはそれを象徴するような夫婦であった。

「そうですわぁ、王都にはお兄様夫婦がお仕事をされているのですぅ。いったついでにこの森でとれた林檎を届けてくださいませんか?」

 リリアナは花のように微笑むといいことを思いついたとばかりにポンと胸の前で手を叩いた。

「林檎か、うむ、いやしかし……」

 確かに林檎は今がシーズンだし、先日、蛇族の娘が届けてくれたものがある。

 だが、和平会談とはいえ、敵国に行くというのに、季節の林檎を配達というのはいかがなものか。

 もちろん、リリアナの兄とオグルーヴは知らない仲ではないが、義兄は領主の息子として王都で仕事についている。会談があるというのに、個人的に訪ねていったりして立場的に問題になったりするのではないか。

 乗り気ではないオグルーヴの表情をいち早く察したリリアナは悲しそうに眉を寄せながら、少し甘えたように言った。

「まあ、せっかく今年の林檎はおいしくなりましたのにぃ。人間の国ではなかなか採れないのですから、意地悪などなさらずに持って行ってくれてもいいではないですか」

「意地悪ではなくてだな、立場上……」

「もう、そんな意地悪を言うのでしたらぁ、もうモフモフしてさしあげませんよぉ」

「なんと!?」

 リリアナの言葉に獅子王は目を見開き、手にしていたカカオティーを零しそうになった。その衝撃にしばし思考が停止した獅子王は、眉をひそめつつ、険しい顔で苦渋の決断をしなければならなかった。

「それは困る。仕方ない林檎は運ぼう」

「まあっ さすがあなた! 嬉しいですわぁ」

 嬉しそうにリリアナは微笑むと、その小さな手でオグルーヴをモフモフした。妻のモフモフに獅子王は満足気に目を細める。

「うむむ、やはりお前のモフモフは最高だ」

「ふふ、あなたのモフモフも最高ですわぁ。ところで、さきほどから何を悩んでいるのですか?」

「うむ……やはり、連れていくのはキシャラでいいか悩んでいたのだ」

 リリアナは大きな獅子王の片膝の上にちょこんと腰かけると、先ほどまで彼が手にしていた資料を覗きみた。 

 内容は獣人たちのプロフィールだ。かなり詳細に書き込まれている。

 この資料を見れば、この獣人の国には実に色々な獣人達がモフモフしながら暮らしていることがわかる。

「キシャラちゃんもいいのですけどぉ、ミシュシュちゃんも可愛いですものねぇ」

 ミュシュシュとはウサギ族の弓の名手だ。ついでに裁縫や織物など、手先の器用なウサギ族の中でも特に器用な愛らしいウサギの娘である。

「しかし、あの子は少し臆病だろう? 多くの人間のいる場所は耐えられないかもしれない」

「クルプちゃんとか?」

 獣人の民の中でも特に怪力を誇る熊族の斧使いだ。クルプは、身長は一七〇センチと熊獣人にしては小柄で、料理もうまい、人目を惹くようなワイルドな魅力のある美しい熊の娘だ。

「いや、確かにあの子もいいが、今は冬眠の準備で忙しいはずだ。彼女を連れていくのは難しい」

「そうですねぇ」

 ふむ……。と、腕を組みながら獅子王はもう一度カカオティーを一口。すっかり冷めている。この方が好みだ。

「やはり、キシャラが適任ということになるか」

 猫族のなかでも、少々好戦的な山猫族のキシャラはその素早い動きもさることながら、高速に繰る剣術は数多くいる獣人剣士の中でもトップクラスだ。

「しかし、性格に問題が……」

「オグルーヴさま!」

 リリアナにモフモフされながら思案していたオグルーヴは、いきなり獅子邸に飛び込んできた軍服姿のキシャラにビクリと驚いた。

「キシャラ、来ました!」

 いきなり、部屋に飛び込んできたキシャラは元気よく尻尾を立てて敬礼をする。

「ああ、キシャラか。いつも言っているが、入って来るときにはノックをしろと……」

「まあっ、キシャラちゃん、新しいお洋服が出来たのねぇ、とてもよく似合っているわぁ」

 オグルーヴが注意しようとするのをリリアナが目を輝かせながら遮った。すると、キシャラはリリアナの言葉に上機嫌に耳と尻尾を立て、興奮気味に目を輝かせた。

「本当か? 本当か? リリアナ!」

「ええ、本当よ。あ、でも、もっと着崩した感じにした方がいいんじゃないかしら? キシャラちゃんのワイルドでセクシーな感じが出ると思うの」

 リリアナそう言って、ピシッと着こなしていたキシャラの軍服のわざと着崩した感じに手を加える。

「ほら、いい感じになった」

「おお! いい感じ? リリアナ、ありがとう!」

 キシャラは喜ぶとリリアナに抱き付いて頬擦りした。リリアナもキシャラにモフモフしたので、キシャラは猫族らしくゴロゴロと喉を鳴らす。

 獣人の中でもキシャラは特に器量がいい。さらに言えば、細身の体で、出ると所はしっかりと出た見事な体形をしている。だが、少々天真爛漫すぎるところがあるのが悩みの種だ。

決して悪い娘ではないのだが……。

 猫族の特性というか、特徴がずいぶんと出てしまっている。

 今は引退して専業主婦になっているキシャラの母も昔は名門猫族剣士として名を馳せた一人だった。獣人の国に薬草研究に来ていた人間の男と恋に堕ち、そのまま結婚して生まれたのがキシャラである。

 穏やかな父の影響もあり人間に対しての抵抗も少ない。

「……ふむ」

 容姿、性格、年齢、血筋、現在の地位、あらゆるものを加味すると、やはり連れていくのはキシャラが相応しいということになる。オグルーヴは決意したように立ち上がると、リリアナに甘えるキシャラに獅子王として命令を下した。

「キシャラ、この度の和平会談はお前が同行するように」

「私がですか?」

「そうだ。先日の会議で話したとおり、この会談の意味、わかっているな」

「わかっています! ユウェルさんと仲良くすればいいのですよね!」 

獣人は平和を願っている。できれば、他種族間交流をはかりたい。そのために、まず手始めに人間の国の王の息子であるユウェルと獣人の結婚がなればこれ以上のことはない。

「うむ、まあそんなところだ。そして、特に注意しなければならないのがエルフたちだ」

 獣人族はエルフに対して何もわだかまりは持っていなが、プライドの高いエルフ族の中には獣人対して侮蔑の念を抱くもの多い。

 今回の会談にもエルフ族は出席する。そうなると出席するはやはりエルフの代表者、族長の娘のサーシャ姫、そして元老エルデステリオだろう。

「よいか、人間の男というものは、エルフのような可憐で小柄な女に心惹かれたりするものだ」

「むむっ、エルフのお姫様は敵ってことですね!」

「うむ、まあそんなところだ」

 純血を重んじるエルフが人間と婚姻することはないだろうが、もしそんなことがあれば獣人にとっては面白くない展開になっていくだろう。

 オグルーヴは念のためにキシャラに釘を刺した。

「それと、もう一つ注意点であるが……」

「はい、なんですか、オグルーヴさま!」

「うむ、人間の国にいる間は常に帯刀すること」

 軍服を着ているが、今のキシャラは剣を持っていない。獣人は強い戦闘本能を内在しているために、武器を持つと性格が変わる者が多い。好戦的な種族である山猫族のなかでもキシャラは特にその傾向が強いのだ。

「常にですか? やっぱりこの会談は何が起きるかわからないからですね!」

「……う、うむ、そんなところだ」

 獅子王はキシャラの天真爛漫さを抑えるためだということは言わないでおこうと思った。

「あと私の許可があるまで剣は抜かないように」

「はい! キシャラ、剣を抜きません!」

 キシャラは目を輝かせながら敬礼したのだった。

 


   弐


「オグルーヴ様、いかがいたしましょうか?」

「ウム……」


 ゆらりと尻尾を揺らしたキシャラに問われ、オグルーヴは低く唸った。

 ……なんということだ。まさか、このような事態に見舞われようとは……。

オグルーヴは騒ぎ出しそうな思考の手綱を懸命に引きながら、冷静さを保つように努力した。

 言い争うサーシャ、ワース等をしり目に倒れたドゥーガの容体を確認する。

 矢は深く体を抉り、彼の意識はない。しかし、胸に手を当てるとまだ心臓は動いていた。

 まだ死んではいない、死んではいないが……。

 出血がひどい。

 このままではどちらにしろ、ドゥーガの命はない。

「くっ……」

 一体誰がこんなことを?

 エルフの矢を使い、窓の外からの狙撃。

 エルフの矢を使っているからと言ってエルフがやったとは限らない。エルフ族と交戦している種族であれば、戦場から矢を回収すればいいだけの話。エルフ族とて、姫や元老が出席する席でエルフに疑いの掛けられるような矢を使うだろうか?

 オグルーヴは、矢が飛んできた方向を改めて確認した。この場所は要人が集まるために警護も厳重だ。少なくとも怪しい人物が入ることはできないだろう。となれば、かなり遠距離からの射撃ということになるが……。

 弓の名手の多いエルフではあるが、そもそもエルフにそれほどの膂力はない。エルフの射程外と言えそうだ。怪力を誇る竜人たちであれば、遠距離をもろともしない強弓を引くこともできるかもしれないが、彼らの視力で精度の高い狙撃が可能かと言われば難しい。

 オグルーヴはワースによって割られてしまったグラスを手に取り、残った液体に目を向けた。色や匂いこそ水に近いが僅かに粘度がある。

 ルスオイルか。

 この油は、灯かり用に使われる油で、光の屈折率が高い。つまり、ドゥーガがこのグラスを持ったときの光の反射を目がけて撃ったのだろう。

 獣人の嗅覚ならば水との区別がすぐにつくが、人間の嗅覚では気がつきにくい。そのため、人間の国ではあまり使われない代物だ。もしワースが割っていなければ、疑いの目は獣人にも向けられていたことだろう。

 光を目がけての狙撃を考えるならば、視力のいい有翼人も考えられなくもない。しかし、獣人と比較的近い関係にある有翼人のことはオグルーヴもよく理解している。

 奴らは、目はいいが、頭は悪い。鳥頭の奴らがこんな手のこんだことをするとは思えない。

 それに、非力な彼らの射程では、急いで飛び立ったとしても出ていった兵士達に目撃されてしまうだろう。

 一体、誰が……どの種族が……?

「……いや」

 真実がどうであれ、この事実は戦いの理由になってしまう。そんなことになれば、獣人の悲願は達成されない。

 今、ドゥーガ殿に死んでもらっては困る。

「サーシャ姫」

 オグルーヴは立ち上がると、血で汚れたままワースと言い合っていたサーシャに目を向けた。

「なんです?」

「今、ドゥーガ殿に死なれては大陸の平和、それぞれの種族の未来にとって大きな損失をもたらすだろう」

「何を言われるのですかな、獅子王殿?」

 エルデステリオがサーシャの代わりに答えた。

「噂によれば、エルフ族には死者をも呼び戻すほどの秘薬があるとのこと。それをドゥーガ殿のために提供してはもらえないか」

「バカな!」

 獅子王の申し出にエルデステリオが激昂する。

 エルフの秘薬と言えば、エルフ族にとっての至宝の一つ。それをエルフ以外の者に使うことなどできるはずがない。それも相手は敵国の王である。

「まだドゥーガ殿には息がある。しかし、このままでは死は免れないだろう。それとも、大陸の平和よりもそれがエルフの狙いか?」

「獅子王殿、言葉が過ぎますぞ!」

「……いえ」

 声を荒げるエルデステリオにサーシャが止める。

「確かに、オグルーヴ様の言う通り、エルフの秘薬があれば、ドゥーガ様の命を救うこともできましょう」

「姫様!」

「しかし、ここから国に戻り、秘薬を持ちかえるには時間がかかりすぎます。ましてや、ドゥーガ様を動かすわけにもいきません」

 サーシャの言葉は的を得ている。

 確かに今はまだ息のあるドゥーガだが、この容体では動かすわけにはいかないし、何よりそれほど時間がないことは明らかである。

「ワース殿」

「あん?」

「聞けばドワーフの地下通路は、大陸中に広がっているのだとか? その通路を使えば、エルフの国まで迅速に移動はできまいか?」

「おいおい、俺達の地下通路に他種族を、エルフたちを入れろってのか!?」

 ドワーフの地下通路は大陸のあらゆる場所に通じているとされている。戦地での補給やゲリラ戦などにも利用されるため、その存在を知られることはドワーフとってエルフの秘薬同様に重大な事柄と言えた。

「地下通路などと、そのような場所……」

 明らかな嫌悪感を出すサーシャにワースはさらに憤慨する。

「ちっ、だからお前らなんか入れてやらねぇって!」

「しかし、地下通路を使えば、エルフの里まで短時間で行ける。それは間違いないのでは?」

「ケッ、それはどうだかナァ」

「もし行けるのだとしたらお願いできませんか、ワース様、サーシャ様!」

 今まで青ざめていたユウェルが思わず声を上げた。

「確かにみなそれぞれにリスクを負うことになるが、ドゥーガ殿をここで失い、種族間に禍根を残すようなことになるよりは前向きとは言えないか? ここは一時休戦とし、四種族の協力体制をとろうではないか」

「ちょっと、待ちな獅子王。確かに、この事態を見過ごすよりもドゥーガ殿を助けた方がいいと言うのはわかる。しかし、俺達は生命線とも言える地下通路を知られ、エルフは秘薬をわずかでも失う。しかし、獣人からは何も出さねぇっては気に入らねぇ」

 ワースの言葉に獅子王は頷く。

 ドゥーガの命が助けることになれば、人間に対して恩を売ることができる。その後の交渉で有利に立てるだろう。しかし、獣人に対しては何もない。何より獅子王の提案で動くことがワースは単純に気に入らなかった。

「なるほど、それも道理だ。ならば、この休戦状態の間、私は武装を解除し、エルフ、ドワーフ、人間三種族の捕虜となろう」

「なんと!」

「獅子王自ら?」

 さすがのワースもサーシャ、エルデステリオも驚愕の声を上げた。獅子王が捕虜。圧倒的カリスマを誇る獅子王が捕まったとなれば、獣人にとって痛手どころの騒ぎではない。

「オグルーヴ様!」

 オグルーヴの提案に途惑いの声を上げたのは、他種族だけではなかった。キシャラもまた落ち着きを無くし、この提案に異を唱えようとしたが、それは獅子王によって却下された。

「よいかキシャラ……」

 獅子王はそっとキシャラに耳打ちをする。

「これは種族間にとっての一大事だ。何としても、エルフの秘薬を持ち帰れ」

「しかし、エルフは敵……」

 キシャラは見た目毅然とした態度を保っているが、尻尾をヘニャリとさせ、しゅんとして言う。

「うむ。今までは敵であったが、ここから先は共闘関係、いわば友だちだ。友だちとして接するように。よいな」

「友だち……わかりました」

 オグルーヴの言葉にキシャラはピョコンと耳を立てると気合を入れた。


   参


 地下通路を行くのは各種族から一名づつ。キシャラ、ユウェル、サーシャ、案内役にワースが先頭を行く。

 エルデステリオはオグルーヴとともにドゥーガのもとに残った。エルデステリオの治癒魔法で少しでもドゥーガの容体悪化を遅らせるためだ。

「これが、ドワーフの地下通路……」

 通路というにはあまりに深くて巨大。入口からのわずかな間だけ土臭い狭い小道を行かなくてならなかったが、なかに入ればその広大さには舌を巻いた。

 見上げるほどに高い天井と、掘削された岩肌は一見荒々しくも見えるが、精微に計算がされていなければこの地下通路そのものを維持できずに崩れてしまうだろう。

「これほどのものが大陸中に……」

「まあナ、はぐれるなよ。地下通路といってもなかは迷宮だ。迷えば、そのまま骨を埋めることになるぜ」

 感嘆するユウェルにワースが言う。

 実際のところは、ドワーフでもこの通路のすべてを把握しているわけではなく、すべてを使うことができるわけでもなかった。

「この道は私達の国まで続いているのですか?」

 サーシャの問いにワースは首を振る。

「残念だがそうはいかない。ドワーフの国とエルフの国は大陸の対極だ。碧風渓谷までと言ったところだ」

「碧風渓谷! そんなところまで?」

 常に靄のかかる渓谷は太陽光と季節を問わず群生する色鮮やかな緑色の植物達の影響で靄が碧色に見える。そこに風が吹くと靄が風の姿を露わにする。

 そのため碧風渓谷と名付けられた。その碧風渓谷は、人間の国とエルフの国の国境付近。

 サーシャもある程度のところまでは覚悟はしていたがまさか、そんなところまでドワーフたちの通路があるとは夢にも思わなかった。

「地上を行けば早馬でも三日はかかる距離ですが……」

「まあ、山があるからナァ。地下通路なら数時間もかからねぇ」

「そんないくら何でも早すぎる!」

「まあナ。ただ、早く移動するには少々厄介だ。乗り物に乗らなきゃ到底無理だからナァ」

 そう言うとワースは腰に下げていたポシェットから女の拳ほどの大きさの石を取り出した。石には自然に開いたような滑らかな穴が開いている。

 その石の穴に口に当てると、思いっきり息を吹き込んだ。

 ピューー!

 と洞窟内を風が吹く抜けるときの風鳴きのような音が通路全体に響き渡った。

「な、なに?」

「凄い音……!」

 四人のなかでも特に耳のいいキシャラは思わず両手で耳を抑えた。

 ワースの吹いた笛の音は通路内で反響しながら広がって行く。

すると、それに応えるようにどこからともなく地響きが起きた。

「な、なんだ?」

 その地響きはまっすぐに猛烈な勢いで接近してくる。

「なにかが来る!?」

 ドドドドッ。と爆音と土煙を上げあげながら、通路奥から現れたのは灰色の四足疾走のけむくじゃら。

「あれって……ワラビー?」

「ワラビーに見えます。けど、目の錯覚かしら、遠近法がおかしいような?」

 唖然とするユウェルにサーシャが汗しながら答える。

 ネズミとカンガルーのあいの子のような姿をしたワラビーは大陸の草原部で多く見ることができる。

 生息地は、ドワーフの国がもっとも多く、北のエルフの国では珍しい。いくら珍しいと言っても、ワラビーはあくまでワラビー。知らぬ存在ではない。もちろんワラビーはこんな爆音を立てて走るはずがないし、何より自分の目の錯覚を疑うほどのサイズではないはずだ。

 しかし、サーシャ達のその考えはあっさりと裏切られる。走って来たワラビーはワースの前で止まると顔を下げてニッコリと笑ったような顔で鼻を掻いた。

「クアッカだ。こいつの背に乗っていく」

 その大きさは馬など比べものにならない。象よりも遥かに大きい。その見上げるほど巨大なワラビーの首の裏には、馬の鞍のような座席が取り付けられていた。

「ま、まさか、この獣に乗れというのですか?」

 明らかに嫌悪の表情をするサーシャ。それもそのはず、巨大なワラビーは風貌こそ愛嬌のある顔をしているが、土埃で汚れ、獣特有の匂いもする。潔癖なエルフの姫でなくとも抵抗を覚えるというものだ。

「どうする? こいつは足は速いが、正直乗り心地は最悪だ。だがこいつで往復しなければ間に合わねぇだろう」

「……それはそうかもしれませんが」

「これは覚悟がいりますね」

 今走って来た様子からしても、ワースの言う通り乗り心地がいいとは思えない。そうなれば、鞍があったとしても、ワラビーそのものにしがみつかないわけにはいかないだろう。

 こんな獣にしがみつくだなんて……。

 想像するだけでサーシャはゾッとした。

 その場の雰囲気を察したのか、ワラビーは不機嫌そうに顔をそむけると尻尾で地面をパタンパタンと叩いた。サーシャとユウェルが顔を見合わせるなか、キシャラは巨大ワラビーに近づき、その鼻を撫でた。

「急ぎなんだ。君を頼りにしている。けど、君に乗りなれない者も多い、すまないが気を配って走ってくれ」

 ワラビーは不思議そうな顔をすると、何度か首を傾げてから、うんうんと頷いた。

「さすが獣人か? 俺達でも話せないワラビーと話ができるのか?」

「いや、一方的に頼んだだけだ。だけど彼は紳士のようだ。理解してくれたらしい。急ごう」

「え、ええ……」

 キシャラに言われ、断る言葉を失ったサーシャとユウェルは諦めてワラビーに乗ることにした。手綱をワースが繰り、彼を先頭に縦にユウェル、キシャラ、サーシャと並ぶ。

「いくぞ! 振り落とされるな!」

 ワースが声を上げると同時にワラビーが雄叫びのような声を上げ、地下通路を疾駆する。

「おお、なんだてめぇ、ご機嫌じゃねぇか!」

 ワースがワラビーの走りに称賛の声を上げた。景色が瞬く間に流れていく。その速度は、馬のそれよりもはるかに速い。速度はあるが乗り心地は最悪、という普段のワラビーを知るワースは、いつもと違う彼の乗り心地にまた驚いた。ワラビーはキシャラの願いを聞き入れ、乗客のために揺れを減らしていたのだ。

 ちっ、あの猫め、やるじゃねぇか!

 この分なら、碧風渓谷まではあっという間だな。

「く、凄い走りだ、振り落とされそうだ!」

 ワラビーに初めて乗るユウェルは必死にしがみつきながら思わず声を漏らす。

 お世辞にも快適とはいえない。まるで、全く整地されていないデコボコの悪路に数匹の馬が全力で引く馬車に乗せられたかのようだ。いや、それよりもさらにひどい。

 いくら華奢だと言ってもユウェルも男である。必死にワラビーにしがみつく。

「きゃあっ!?」

 しがみついているだけの腕力のないサーシャはワラビーの何度かに一度やってくる大きな揺れに常に体を持って行かれそうになっていた。この速度で投げ出されれば大けがでは済まない。

 それがわかっていても、ワラビーに体を任せることに抵抗を覚えてしまう。

「……あっ!」

今まさに手が離れると思った瞬間、サーシャの華奢な体は力強くしっかりと抱き寄せられた。

「えっ?」

「サーシャ、私の体に掴まれ」

「キシャラ様!?」

「早く」

「は、はい」

 サーシャは細くもしなやかで逞しさを感じるキシャラの腰に抱きついた。すると、キシャラの尻尾がシュルリと動いてサーシャの腰の巻きつき、しっかりと固定する。

「サーシャ、私のことはキシャラと呼べ」

「……?」

「今は友だちだからな」

「……」

 サーシャはワラビーの疾走による激しい揺れのためにその言葉に応えられないふりをした。

 ワラビーの疾走はさらに激しく速度をあげる。

 ワース以外は周囲の様子を見ている余裕もない。ただただワラビーから振り落とされないように気をつけるだけ。ドワーフの地下通路はいつから、誰によってつくり始められたのかもわからないほど昔から存在する。

 岩肌がむき出しの所もあれば、何やら神殿のような造形の残る場所もある。一方で何やら巨大生物が抉ったかのような爪あとが残る場所もある。

「もうすぐ、碧風に出るぞ!」

 ワースが叫んだ。

 通路の先に光が見える。そこに出た瞬間、全員を碧風が包み込んだ。

 碧風渓谷。

 ワラビーは渓谷の開けた場所で足を止め、四人はワラビーから降りた。

 キシャラがワラビーの鼻を撫でながら礼を言うとワラビーは嬉しそうに、もともと笑っているような顔をさらに笑顔にする。

「さて、エルフの国は目の前だ。ここからはエルフの姫さんの出番だな。俺達はここで待機か?」

「いえ、皆さんには協力していただかなくてなりません」

「ああ? それはどういうこった? 俺達を国に入れるってことか?」

「本来秘薬は特別なもの。族長に事情を説明して、許可を得ようとすれば、いくらこの事が特別であっても決定までに時間がかかり過ぎてしまいます」

「それではどうするのです?」

「少々強引ですが、秘薬は黙って持って行きます」

「ほう、面白れぇ、姫さんが強奪計画とはなっ」

 ワースが口笛を吹いて言った。

「ワースさま!」

「俺は褒めているんだぜ。見直したってことだ」

「本当はこんな手段はいけないことはわかっているのですが、この急場を長老達が対応できるとは思えません」

 サーシャが唇を噛む。エルフの古い慣習、物事の判断の柔軟さを失わせているのはすべてにおいて言えることだった。

「秘薬は国の奥の神殿に置かれています。警備もかなりの数がいます。ワース様は陽動していただけますか?」

「警備兵の目をこちらに向ければいいのか。なら、こいつにもう一働きしてもらうか」

 そう言って、ワースはワラビーを見上げた。

「お願いします。その際にお願いがあるのですが……」

「わかっているさ、今は休戦状態だ。エルフの民に手は出さねぇ」

「ありがとうございます。では、ワース様は西側から、ユウェル様、キシャラ様は私とともに東側から参りましょう」

「なるほど、西日を背にすればワース様の姿を判別するのは難しいし、矢も狙いを付けにくい。薄暗くなった東側から我々は侵入するということですね」

 ユウェルが頷く。サーシャは緊張気味に「そうです」と頷いた。その横でワースは感心する。

 ほう、ひょろいガキだと思っていたら……。 

 先ほどのワラビーの背にしがみついている様子からしても、見た目以上に体力があるのかもしれないな、とユウェルの認識を改めはじめていた。

「では、作戦を開始します」


   四


 人間から見るとかなり巨大な斧槍がオグルーヴの得物である。真紅の鎧をまとい、武器を背にしているのが獣人の国以外での獅子王の姿であるが、今は武装をすべて解除したために、鎧を脱ぎ、斧槍も預けられている。

 鎧の下に穿く麻で作られたズボンと体にはりつくようなぴちぴちとしたシャツ姿になっていた。

 その強靱な体つきは獣人特有のもの。エルフや人間にはないものだ。太い腕と厚い胸板はいるだけで威圧感を感じさせる。

「エルデステリオ殿、ドゥーガ殿の容体はどうか?」

「ええ、出血は少なくなってきています」

 エルデステリオの魔法治療のおかげで、ドゥーガの命を保たれていた。いや、彼だけでなく、人間の治療魔導士達が集まり交替でドゥーガの治療に当たっていた。

 人間達は、間近で見るエルデステリオの高度な治療魔法に驚き、エルデステリオもまた人間達の魔道技術に感心した。

 そもそもエルフは人間よりも多くの魔力有している。エルデステリオはそのエルフのなかでも特に高魔力の持ち主だ。彼の出す治癒力と同等の力を出すには、人間の魔導士五人が力を合わせなければならなかった。

 しかも、五人で力を合わせ、倒れるほどに力を出し続けてもエルデステリオの半分の時間も継続して治療を続けることができない。

 互いに協力してか……このような機会はそれほどないであろうに見事な連携だ。

 プライドの高いエルフは同族間であってもお互いに倒れるほどに力を出し切り協力し合うということはほとんどない。戦などはまさに異例のこと。多くの場合は「すべては自然のままに」という言葉を掲げ、身を引くことが多い。

 今のドゥーガ殿のような、すでに諦めなければならない状況で、人間のように倒れるまで頑張れる者がエルフの中にどれほどいるものか?

 能力的に劣るはずの人間との戦が長引くわけも、エルデステリオは何となく理解できる気がした。  

 ……人間の思わぬ一面を見たか。いや、思わぬ一面と言えば……

 エルデステリオは人間の魔導士に感謝の言葉を受けつつ交替の休憩をとる。その席で鎧を脱いだ獅子王を見ていた。

 獅子王のシャツの左胸には笑顔の猫と金髪の女の子の顔が可愛らしく刺繍されている。

 その猫と女の子が一体何なのかエルデステリオには理解ができなかった。もちろん笑った猫は、猫ではなくオグルーヴの顔、金髪の女の子はリリアナである。妻リリアナがオグルーヴのために刺繍したものであった。

 ……獅子王殿、なんと可愛らしいシャツを?

 武装を解除すると、すっかり別人のように穏やかな顔になり、優し気な猫のような顔をしているオグルーヴにエルデステリオはまた驚きを覚えていた。

 そのとき、議会室に一人の男が飛び込んできた。

「ドゥーガ様っ! オグルーヴ殿!」

 飛び込んできた長身の男は、軍人ではなかった。流れるような茶色の混じった金髪に、色の深い碧眼、羽飾りをモチーフにしたエンブレムから彼の地位が低くないことを示している。

「おお、義兄、じゃなかった……リカルド殿!」

 入って来たのは、リリアナの兄、リカルドだった。普段であれば「オグ」「リカ義兄さん」と呼び合う仲だが、流石にこの場ではそうもいかない。

「大丈夫? 捕虜になったって聞いたので、心配になって飛んできたのだ。それにドゥーガ様が倒れたと」

「ええ、今キシャラたちが薬を取りに行っています。それにエルデステリオ殿の協力もあって、ドゥーガ殿を引き止めていると言ったところ」

 リカルドは声を潜め、オグルーヴに耳打ちする。

「……この度、ドゥーガ様は種族間の平和を望んでおられた。実は、それに反発するものも多くてな……」

「なんと……」

 オグルーヴはリカルドの言葉に声を漏らした。

 人間側も、和平を望んでいたのか。しかし、人間の国の総意ではないと、戦を望む者がいるということか……。

「ふむ……」

 獣人の国は獣化した獣人でもなければ、平和にモフモフしながらのんびり暮らすというのは本能的な部分に根づいている。戦を率先してしたいと思うほどの野望は持っていない。しかし、他種族の価値観ではそうでない可能性も充分にある。

 ……とすれば、この事件?


   五


 西側で騒ぎが起こった。エルフたちの怒号が聞こえる。

「ワース様が動き出したみたいです。私達も行きましょう!」

 サーシャはそう言って、ユウェルとキシャラの前を走り出した。ワースの陽動のおかげで秘薬のある神殿までの道のりの警備はかなり手薄になっていた。

 その神殿はまるで遺跡のようだった。とてつもなく巨大な一つの自然石から作られている。それを彫り、加工し、通路を作り神殿としているのである。そこに幾重にも樹が絡み合い、重なりあうことでエルフの聖域である森に溶け込んでいるようであった。

「門番がいる……」

 ユウェルが唸る。

 神殿入り口には、エルフの兵が長弓を片手に警備にあたっていた。しかし立っているのは、僅かに二人。強行突破できないこともない。

「どうする? サーシャ……?」

「ええ、考えがあります。お二人とも、耳を塞いでおいていただけますか?」

「耳を?」

 ユウェルは言われるままに、両手で耳を塞ぎ、キシャラはパタンと耳を伏せた。

「いえ、キシャラ様、ちゃんと塞いでください」

「うん? そんなにか?」

 仕方なく、キシャラは両手で耳の端を掴むと引っ張るようにして耳を塞いだ。

 サーシャはチューリップの花ほどの大きさの革袋を取り出すとその中身をサラサラと風に晒した。

 紫紺色の粉末が、風に紛れて警備兵の方へと流れていく。

 ……この匂い、クロヒナゲシ?

 キシャラは耳を塞ぎながら、流れていくその粉の匂いからその正体を突き止めた。

 クロヒナゲシの香りは気持ちを和らげ、心身をリラックスさせたりする効果がある。不眠症の治療薬としても使われるもので、黒い花弁と紫紺色の花粉が特徴的だ。

 流れていく花粉に、警備兵は間もなく肩を回したり、深呼吸をしたりと落ち着きがなくなり、体の動きが多くなってくる。

 その様子を確認してから、サーシャはその場で祈るように手を組むと、静かに、森に溶けるような声で歌い始めた。その歌には歌詞はなく、サーシャの声が風の声のようにあたり一面を包み込んでいく。

 すると、警備兵たちは強烈な睡魔に目を覆われ、夢の揺り籠へと放り込まれた。

その場に座り込み、間もなく眠りについた。

「おお……!」

 思わずユウェルとキシャラは声を漏らした。

「薬と歌の相乗効果で三十分は寝ているはずです。急ぎましょう!」

 三人は眠る警備兵の横を走り抜け、神殿の中へと走って行った。外見からは想像でないほどの広さを持つ神殿の中は、わずかな自然光が差し込み、それが道を照らしている。

 入り組む神殿の奥に向かうほどに、サーシャはユウェルとキシャラに足音を立てないように注意した。

 神殿の奥、祭壇を守る巫女に気がつかれないようにと。

「あれです」

「あれが、秘薬……」

その祭壇の中央には高く天井から水滴がポタリポタリと落ち、下で金色の杯がそれを受けとめていた。

「……あれは?」

 祭壇から離れ、物陰に隠れながら、三人は小声で話し合う。祭壇の前には秘薬を受ける金の杯に膝まづき祈りを捧げる女性の姿。

「……あれは、私の姉です」

「サーシャさんの?」

「ということは頼めば……」

「いえ、それは難しいでしょう」

 サーシャは首を振る。姉は秘薬を守り、祈りを捧げる巫女としての役割を負っているのだ。

 サーシャの顔に緊張の色が浮かぶ。

わかっていたことだが、姉の守る秘薬を盗むとなればただでは済まない。しかし、話して理解を得られる相手であるかと言えばそうでもない。

「姉さんは何を考えているかわからない上、頑固でわがままな人ですから、私の言うことなど……」

「交渉は出来ないということか。ならば、秘薬は私が取りに行こう」

「えっ?」

 キシャラの提案にサーシャは顔を上げる。

「私が取りに行けば盗んだのは私だ。まだサーシャの顔は見られていない、もしものときはあとで言い訳もできるだろう」

 キシャラの気づかいにサーシャは思わずうつむく。とすぐに「そういうことなら、僕が」とユウェルが立ち上がったので、彼女は感謝の言葉を言いそびれた。

「秘薬を必要としているのは、人間の国の王である僕の父ですし」

「いや、身軽さでは獣人の方が上だ。ここは私が行こう」

「しかし……」

「サーシャ、これを頼む」

 キシャラは少しでも身軽になるために、腰に下げていた剣をサーシャに預ける。

 ……あれ? 何だか雰囲気が……?

 剣を渡された瞬間、サーシャはキシャラの雰囲気が変わったような感じがした。だが、それを確かめる前にキシャラはすでに足音も立てないで歩く猫のようにしなやかに祭壇へと向かい始めていた。

「すごい、少しも音がしない、まるで猫だ」

 ユウェルは感嘆の声を漏らす。

 キシャラの」耳と尻尾をピンと立つ。緊張はしているが、気持ちでは負けていない。

 慎重に祭壇に近づいていく。キシャラは耳を細かく動かしながらエルフの巫女の顔をソッとのぞき見た。白い絹に金の幾何学模様の刺繍がほどこされたローブを羽織る巫女は、サーシャよりも幼い印象を受ける。

「すぅ……すぅ……」

 巫女は寝ていた。鼻提灯をふくらませながら。

「……?」

 巫女が寝ていたのでキシャラは一瞬気が抜けた。とはいえ、ここで目を覚まされると厄介だ。すぐに気持ちを取り戻すと、巫女に一端お辞儀をしてから祭壇前に置かれていた香水瓶のような瓶で金の杯から秘薬をすくい取り、瓶の口を堅く閉めた。

「すぅ……すぅ……」

 キシャラが振り返ると愛らしいエルフの巫女はよだれを垂らしながら笑顔で寝たままだった。

 楽しい夢なのか口元がすっかりにやけている。

「すみません、いただいていきますね」

 キシャラはペコリとお辞儀をすると、巫女のそばに身に着けていた牙の形をしたアミュレットをソッと置いた。

 このアミュレットは一目で獣人のものであるとわかる。秘薬が盗まれたことはすぐに明るみに出るだろうが、これで疑いは獣人に向くことだろう。

 キシャラは来た時よりも早足で、かつ慎重にサーシャたちのもとへと帰えると、そのまま神殿を脱出したのだった。

 

 彼らが出ていったそのすぐあと、眠っていたはずのエルフの巫女はそばに置かれたアミュレットを手に取り、自分の懐にしまい込んだ。

「サーシャ、いい友達に出逢ったみたいね。……もっとも、ここに来たのが猫さんじゃなかったら、素直に上げるつもりはなかったんだけど……」


   六


「それで、うまく行ったんだな」

「はい、この通り」

 サーシャは合流したワースにワラビーの背に揺られながら秘薬の入った小瓶を見せた。

「よし、このままドゥーガのところに戻るだけだな。ドゥーガがもってさえいれば助かるんだろう?」

「おそらくは。これだけあれば、助かるはずです! 出来るだけ急いでください!」

「よし!」

 来た時と同じように、ワースはワラビーを疾走させた。陽動の疲労もあるはずなのに、ワラビーは速度をぐんぐん上げていく。

 サーシャは来たときと同様に、キシャラの腰にしがみつき、キシャラの尻尾はサーシャの腰に巻きついている。

 ……何だか、私が今まで思っていた獣人とキシャラは違う感じがする……。それとも、獣人はみんなこんな感じなのかな?

 と思った。サーシャはエルフの立場、領土を守るためであれば、戦も必要な手段であると考えていた。特に、知能の低い獣人との話し合いなど意味をなさないのではないかとも思っていた。

 でも、本当はそうじゃないのかも……。だって、そもそもエルフ以外の他の種族のことをよく知らないし……。

 もちろん、わかっていることだってある。人間族が取る豊富な戦略パターンやドワーフ族が得意とする変わった兵器開発の数々、獣人族や竜人族の身体能力の高さ、有翼人族の奇襲のうまさなど。

 しかし、それはすべて戦いに関することばかり。

 他の種族の好きな食べ物は? すごしやすい季節は? 何を信じ、何を好み、何を嫌う? 何が得意で、何が苦手? どんな歌を歌い、どんな音を好む? どうして戦をするの? どんなお祝いことがあって、どんなことに喜んで、悲しむのか……。

 それを知ろうとしたことはない。

 サーシャはキシャラの背に顔をくっつけながら、自問する。

 例えば、キシャラはエルフに対してどんな感情を持っている? キシャラは私のことをどんな風に思っている? 例えば、ワースは? ユウェルは?

 そんな想いに心のなかで自問自答を繰り返していると、突然、ワラビーが急ブレーキをかけ、後ろ脚で立ち上がった。

「おおっ!?」

「きゃあ!?」

 転げ落ちそうになったサーシャはキシャラにしっかりとしがみついた。

「ワース様!」

 キシャラが声を上げた。

「ちっ、どういうことだ!」

 ワラビーが立ち上がったのは、ワラビーの足元に刺さる矢。放たれた矢にワラビーが驚き、足を止めて立ち上がったのだ。

 気がつくと、周囲はすでに弓を構えた兵に囲まれていた。その種族は人間。

「ちっ、おい、これは何の冗談だ? 俺達はお前らの王の命を助けるために動いているんだぞ」

「全員その巨大なネズミから降りてもらおうか!」

「ユウェル様、これは?」

「……」

 不安そうに眼を向けるサーシャにユウェルは静かに男達の指示に従った。弓兵の数が多い、一斉に矢が放たれれば一気に蜂の巣だ。

 四人がワラビーを降りると、間もなくワースたちは包囲された。四人のうちユウェルを除いて。

「おかえりをお待ちしておりました」

 リーダー格の鉄仮面の男がユウェルに頭を下げた。

「おい、これはどういうことだ?」

「ドゥーガ様に秘薬を届けなければ、命が……」

「ふふ、いいんです。秘薬は届けなくて」

「何?」

「もともと、父上には死んでいただく予定だったのですから」

「……」

 ワースは舌打ちをした。

「はじめから人間の策か……」

「いや、僕の策です」

「なんだと?」

「父に死んでもらいたかったのです。和平などと本気で考えていたようですから」

「ほう……?」

 ワースは興味深げに声を漏らす。

「こんなことを続けていたら僕の代には戦争が終わってしまう、僕は戦争がしたいんです! あなた達の裏をかいた策略、謀略、作戦、斬って切って撃って打って叩き潰す! そんな戦を僕が指揮できるんですよ! 僕は王族なんだから! それなのに父上は自分だけ楽しんだあとで自分勝手にゲームを終えようとした」

「人間の王子は、戦がお望みというわけか?」

「そう! 獅子王の提案は予想外でしたが、おかげでドワーフとエルフの秘密を見ることができた。今後に活かせそうですよ」

「私達をどうするつもり?」

 キッと睨むサーシャに、ユウェルは憐れみをもった目で見下ろし、笑いを堪えるかのように手で口を隠しながら「ここで死んでもらいます」と言った。

「そんなことをすればエルフもドワーフも獣人も黙ってはいないわ!」

「黙っていない? いい! だったら全面戦争だ! 三種族が我々に一度に歯向かって来たとしてもてもいい! そんな状況を僕の采配で打破できたら? 僕の率いる軍で滅ぼしたら? 誰もできなかったこの大陸の統一を成しえたら? 僕は英雄だ! 歴史に名を残す!」

 ユウェルは興奮したように笑い声をあげると、腰に差していた剣を抜き放つ。剣先をワース、キシャラと順に向け、最後にサーシャの鼻先に突きつける。

「このような形でなければ、エルフの国を陥落させたあと、あなたは僕の妻にするつもりだったのだが、大儀のためにここで死んでいただこう……うん!?」

 剣を振り上げようとしたユウェルのすぐそばに何かが勢いよく落下した。

 後方で弓を構えていたはずの大柄な兵士だった。飛来した男もさることながら、鉄製のはずの鎧の胸の部分が握り潰されたかのようにひしゃげていることに目の錯覚かと一瞬思った。

「何事だ!?」

「ユウェル殿、今の話はまことか……?」

 そこにいたのは、薬を受け取るために駆け付けた非武装のオグルーヴと監視のための人間の兵、そしてエルデステリオの姿だった。

 肩を震わせる獅子王は燃えるような目でそのたてがみを逆立てた。

「獅子王殿、これはこれは。聞かれてしまいましたか。確かにそう、私が仕向けました。竜人と有翼人の傭兵を使ってね」

 ユウェルの発案、有翼人の目、竜人の力があれば、あの矢をドゥーガに当てることができる。

 他種族が協力し合わなければできないことだ。

「情けない、それがドゥーガ殿の子としての成すべきことか! そんな奴に大事なキシャラはやれん!」

「な、なんのことだ?」

「キシャラ! 剣を抜け! 兵を一掃しろ!」

 獅子王の咆哮に、キシャラはピクンと反応すると、まるでスイッチでも入ったかのように剣を手にとった。

 そして、キシャラは人間の国に来てから一度も抜かった剣を初めて抜き放った。

「き、キシャラ……さま?」

「サーシャ、下がっていろ」

 剣を抜いた瞬間、優しげな山猫はいなくなった。そこにはサーシャのよく知る獣人の姿があった。いや、こんな間近で、剣を抜いた獣人剣士を見たことはなかったかもしれない。その冷たい瞳にサーシャはゾッした。空腹に耐えかねた巨大な肉食獣と同じ檻に裸で放り込まれたとしても、こんな気持ちにはならないだろう。

 救いなのは、その猛獣が今は味方であるということだ。

「矢を放て!」

 ユウェルが慌てて声を上げた。

 無数の矢がキシャラ達に向かい放たれる。

 人間が一度剣を振るう間に、獣人剣士はその力としなやかさで二度剣を振るという。猫族剣士の剣速は獣人が二度振る間に三度を超えると言われている。

 キシャラの剣が閃き、彼女とサーシャ、ワースの周囲に折れた矢が何本も墜落した。

「何!?」

「け、坊主、下調べが足りねぇな、獣人相手に目に見えるところから弓を放つなんて。獣人相手なら隠れて矢を放つのが鉄則だ。ドゥーガならこんな初歩的なミスはしないだろうがな」

「くっ!」

「しかも、距離を詰めすぎたな」

 ワースの言葉が終わらない内に、山猫は風のように地下通路の中を吹き荒れた。

 狭い戦場と連射の利かない弓が仇となった。そこにいた兵士は次の攻撃を仕掛ける前に山猫の剣に次々と武器を砕かれ、抵抗の手段を失った。

 武器を失った兵たちのなかにはユウェルがいるにも関わらず逃げ出す者もあらわれた。

「逃げられると思ったか? お前らは、他人の土俵で戦っているんだぜ! おい! 道を塞げ!」

 地下通路奥へ逃げようとした者たちは、睨みを利かせたワラビーにその行く手を阻まれ、地上に逃げようとしたものは人間の兵士達によって拘束され、そのどさくさに紛れ、ユウェルは姿をくらましたのだった。


   七


 ドゥーガはエルフの秘薬により、一命を取り留め、数日後には意識を取り戻した。

 姿をくらましたユウェルに意識が回復したことにより事態を知ったドゥーガはオグルーヴ達に感謝と謝罪をしながら姿をくらましたユウェルに落胆の影を落とす。

このことを重く受け止めたドゥーガは日を改めて再び和平会談を行うことを約束した。

「やれやれ。まあ、次回の会談でまた会おうや」

 ワースはそう言ってワラビーに乗ると、ドワーフの国に帰っていった。

「また、お会いしましょう。キシャラ」

 エルフ国では、秘薬のことで騒ぎになっているだろう。しかし、それ以上に考えなければならないことがある。 

そう考えながら、エルデステリオとサーシャは獅子王達に再会を約束して国へと帰って行った。

「オグルーヴ様、私達も帰りますか?」

「ふむ。そうだな……」

 そろそろリリアナのモフモフが恋しくなってきた。獅子王は妻の顔を思い浮べると、ふと声を上げた。

「おおそうだ!」

 その声にキシャラは跳ね上がるほど驚いた。

「な、何ですか?」

「ふむ、義兄上に林檎を届けるのを忘れておった」



 三か月後。


その大陸は、星の形をしていた。

 太古の昔、神々はその大陸の北の刺にエルフ、西に獣人、東に有翼人、南西にドワーフ、南東に竜人、そして中央に人間に与え、それぞれの領土を治めるように告げたと言う。

 けれどそれから幾星霜の時が流れ、領土を広めようと画策する獣人と竜人、守りを固める人間、機をうかがうドワーフと、沈黙を守るエルフと有翼人がそれぞれ対立と共闘を繰り返すようになる。

 そして数百年に及ぶ小競り合いに終止符を打たんとして、今、和平会談が行われようとしていた――。


「揃ったようだな」


おわり


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