序章 暁の太陽、宵の月
「今日も月が綺麗ですね」
漆黒の髪の青年が、そう呟くように背後からやってきた男に声をかけた。
男は無言のまま青年の隣に立つと視線の先、雲一つない夜空を見上げた。
そこに広がるのは満天の星々が輝く澄み切った空と、星空の中でひときわ目立つ大きな月。
優しく降り注ぐ柔らかな月光は地上で暮らす者たちを見守るかのよう温かく、森の向こうから昇り始めた暴力的な光を放つ太陽とはまるで違う。
あの全てを焼き尽くすかのように降り注ぐ光は、この地に住まう者たちから多くのモノを奪い去っていった。
平穏な日常を、生まれ育った故郷を、かけがえのない仲間を、そして何より・・・
「もうすぐ夜が明けます。こんなに静かな夜を、私はあと何度過ごすことが出来るんでしょうね」
何かを諦めたかのような、とても静かな声に男の顔が僅かに歪む。
煌々と輝く太陽は、全てを奪っていった隣国の王族に似ている。
隣に立つ心優しき青年を傷付けるところまでそっくりだ、と無意識の内に拳を握る手に力が入る。
すると、不意にきつく握りしめた拳に触れた優しい手。
男が驚いて青年を見れば、青年は人懐っこい笑みを浮かべて口を開いた。
「そんな顔なさらなくても、きっと大丈夫です。王だって馬鹿じゃない、心配には及びませんよ。こちらから先手を打つなんて事、あの方は考えておりませんから」
「だが、暁が・・・」
「暁の王だって、あなたが思っているほど愚かではない」
遮るようにして発せられた青年の言葉に男が思わず口を閉ざすと、青年は男をまっすぐ見据えて静かに続けた。
「今回は、このまま何事もなく終わります。私はそう、信じてます」
その言葉が綴る未来は、何の確証もないどころか恐らく一番あり得ない出来事。
言葉通りの、青年が望む未来が訪れることは皆無。
そしてその事を一番理解しているのは他でもない、青年自身。
「明日は満月ですね」
「そうだな・・・」
不完全な月を見上げ、望めるはずのない満月を見つめる青年に、男はそう静かに返した。
***
「もう大分暗くなってきたな」
茶色い髪の青年が窓の外を眺めながらそう呟くと、不意に背後で開いた扉の音。
入ってきた少年は、冷え込んできた外気を惜しげもなく部屋の中に入れている青年を見て、思わず大きな溜息を付いた。
「今夜は冷えます、早く窓をお締めください。風邪でも患われたら、私がお叱りを受けてしまいます」
「そんなに心配しなくても、まだ宵の口じゃないか。夜の寒さはこれからだろ」
「なりません、あなた様の御身が一番にございます。明日も朝早いのですから、もうお休みになりませんと」
「まだ良いだろう?今日は、一段と月が美しい。もう少し、この月を眺めたいんだよ」
青年の言葉に、少年が視線を窓の外へと向けた。
そこには夜空に浮かぶ大きな月。
事ある毎に青年は「美しい」と言って月を眺めているが、刃か何かのように鋭い光を放つそれの良さが少年にはわからない。
確かに美しいとは思うが、同時に酷く冷たく恐ろしいもののように思えて仕方がないのだ。
冴え冴えと輝く月は、誰からも畏怖される強大な力を持った隣国の軍師に似ている。
青年の心をここまで虜にしているのに、虜にされている本人がその事に気が付かない。
そんなところまでよく似ていると、聞く耳を持たないであろう青年を前に少年は再び溜息を付き、呆れたように口を開く。
「我儘ばかりおっしゃらず、偶には私の言葉を聞いてくださっても良いのではありませんか?」
「あぁ、いつも悪いな」
「まったく、明日には宵との戦が始まるというのに、あなた様は本当に・・・」
「なぁ、明日は本当に戦が始まると思うか?」
予想外の青年の言葉に、少年は思わず口を閉ざす。
青年の言葉は、まるで戦が始まらないことを望んでいるかのようで。
「このまま何事もなく終わることは、出来ないんだろうか」
青年の望む未来は、決して訪れることのない未来。
その事を、戦を仕掛ける側の青年が知らない筈はない。
それでもあり得ない未来を望んでしまうのは、きっと月によく似たヒトのせいなのだろう。
「明日は満月だな」
「えぇ、そうですね」
月を見上げ、悲しげにつぶやく青年に、少年はただ静かにそう答えた。