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複数世界のキロ  作者: 氷純
第一章 クローナの世界

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第三十六話  空間転移

「……キロさん、大丈夫ですか?」


 真っ暗闇の中で、クローナが問う。

 息遣いが間近で聞こえた。


「大丈夫、だけど、この状況はどうにかならないのか?」


 キロが暗闇の中で身じろぎすると、クローナがきゃっ、と小さな悲鳴を上げる。


「どうにかと言われても、ちょっと、動かないでください!」

「分かったから、せめて、手を退けろ。どこ触ってんだ」

「え? 私、変なところ触ってますか?」

「尻を触るな!」

「……柔らかいですね」

「言うに事欠いて、それか」


 キロとクローナは狭い土のドームの中で悪戦苦闘するが、あまりに狭すぎて腕も満足に動かせない。

 クローナは咄嗟にキロと密着する事により土で覆う範囲を少なくし、ドームを分厚くする事に魔力を割いたのだろう。

 緊急時に良く頭が回った物だと感心することしきりだが、狭すぎて身体の大部分が密着していた。

 クローナの吐息がキロの耳に吹きかけられ、ラズベリーに似た甘酸っぱい香りが鼻先をくすぐる。


「ちょっ、頭を退けろ、匂いが……」

「え⁉ 香水付けたのに!」

「いつの間にそんな物」

「お、乙女のたしなみだって司祭様が!」

「この状況は想定してなかっただろうよ」


 ああでもないこうでもないと言い合った後、キロは我慢できずに口を開く。


「このドームを消して外に出れば万事解決だから!」

「……消せません」


 困ったようにクローナが呟く。

 キロは怪訝な顔をするが、この暗闇ではクローナには見えていないだろう。


「シールズさんは多分、私達がこのドームをいつ解いても大丈夫なように水球で周りを覆ってるはずです」


 ――ドームを消した瞬間、水の中、というわけだ。

 キロは背中に回されているクローナの腕や上腹部に押し付けられる胸の感触を極力頭から追い出しながら、口を開く。


「で、どうすんの?」

「キロさんも考えてください」

「この状況で、男に、考えろと? 何を? 責任の取り方?」

「混乱しすぎです。いつもの冷静なキロさんに戻ってください!」


 はい、深呼吸して、とクローナに促されても、従うわけにはいかない。

 クローナの匂いを肺一杯に吸い込む事になるからだ。


「とにかく、ドームを解いてすぐに水から脱出できればいいのか?」


 胸元でクローナが頷く気配。

 一瞬、このままドームに引き籠っていれば騎士団が駆けつけてくるのではないかとも思ったが、ドーム内の酸素が持つか分からない。

 そもそも、シールズに逃げられてしまう恐れもあった。


「アンムナさんの奥義みたいに動作魔力で吹っ飛ばすか」

「まだ成功した事ないんですけど」


 キロの提案にクローナが自信なさそうに答える。

 昨夜、教わったばかりで奥義を発動できたら苦労はしないだろう。

 しかし、キロは奥義をそのまま模倣する気はなかった。


「あくまで〝奥義みたいなもの〟だ。あらかじめ動作魔力を練って手元で凝縮しておけば後は放つだけだから、何とかなる」

「凝縮するのも難しいです……」


 沈黙が落ちる。

 キロはドームが完成する直前に見た水の量を思い出しつつ、残った魔力と相談する。

 ――俺一人でもできない事はないけど、吹っ飛ばした直後に攻撃されたら動けそうにないな。


「俺が水を吹き飛ばすから、クローナはシールズさんを牽制してくれ」

「シールズさんが同じところにいるとは限りません。背後を取られてるかもしれませんから、一時的に離脱する事にしましょう」


 クローナの作戦にキロは了解と返した。

 キロは動作魔力を練りながら、比較的自由な方の腕を頭上に挙げる。

 クローナも魔力を練っているようだ。こちらは凝縮させず、脱出する時に使うのだろう。


「シールズさんの特殊魔力、結局どんな効果なんですか?」


 準備しながらのクローナの質問に、キロは口を開く。


「瞬間的に物を別の場所へ移動させる効果があるんだと思う。身体の中へ直接移動させたりはできないんだろうな。なんか条件があるはずだ」

「どこから攻撃が飛んでくるか分からないって事ですか……?」

「そういう事だ。多分、シールズは尾行の騎士も空間転移の魔法で撒いてきてる」


 騎士が昏倒する直前、キロとクローナは周囲を見回し、誰の姿もない事を確かめていた。シールズが空間転移で飛んできたのはキロとクローナが視線を外したすぐ後だったのだろう。

 キロの推理にクローナが納得したように頷く。

 キロは言葉を続けた。


「ただし、傷付けるような攻撃は正面からしか来ないようにできる。クローナはずっと俺の前に居ろ。そうすれば少なくとも後ろから攻撃は飛んでこない」

「その作戦だとキロさんが危ないです」


 咎めるような声を出すクローナに、キロは頭を振った。


「俺は一番安全だ。シールズさんは俺を傷付けずに生け捕りにしたい。つまり、俺を背後から刺したりはできないんだよ。シールズさんの気が変わらないうちは、な」


 ――背後から特殊魔力で拉致される可能性はあるけど。

 キロは内心で考えるものの、口にはしなかった。


「準備できたか?」

「大丈夫です」


 動作魔力を練り終わり、キロはせーの、と掛け声とともにドームの天井部分へ一気に放出する。

 分厚い天井が砂で出来ていたかのようにあっけなく吹き飛び、その上にあった水さえもまとめて天高く打ち上げる。

 即席の噴水を作り上げたキロに抱き着いたままだったクローナが、動作魔力を使用したジャンプで脱出を図る。

 動作魔力を使用する事にまだ慣れていないらしいクローナだったが、事前に十分な時間が与えられていた事もあって脱出に成功する。

 足元に水の塊が残っていたが、キロは構わずシールズの姿を探した。

 シールズは倒れた騎士へ爪先を向けていたが、肩越しに振り返ってキロ達を見つめている。


「動作魔力を凝集しての一点突破か。本当に器用な事をする。アンムナさんの奥義まで使えたりしないだろうね?」


 地面に着地したキロ達を見て、シールズがため息交じりに語りかける。


「試してみますか?」


 キロが挑発交じりに口にすると、シールズは盛大なため息を吐いて空を仰いだ。


「試してみたいけれど、時間切れだね」

「時間切れ?」


 キロが聞き返すと、シールズは苦笑しながらカッカラを指差した。

 太陽光を反射する何かが近付いてきているのが分かる。


「カッカラ騎士団さ。キロ君が派手に水をぶち上げるから、様子を見に来たんだろうね」


 シールズは頭を乱暴に掻き毟り、いつの間に拾っていたのか、短剣を手元で弄んだ。

 ちらりと迫りくる騎士団を見たシールズは再度ため息を吐く。


「仕方ないから、ここはひかせてもらうよ。僕は今ここに居てはいけない人間だか――」

「クローナ!」

「分かってますよ!」


 キロが名を呼ぶと、クローナは即座に呼応し、水球を撃ち出した。

 しかし、シールズは涼しい顔で避ける。


「見逃してあげようというんだから、おとなしくしておけばいいものを」

「こっちは見逃す気がないんですよ!」


 クローナがシールズに言い返した。

 この戦闘をカッカラ騎士団に目撃されれば、事情聴取は確実だ。

 騎士団からの信頼の違いもあり、一時的にキロとクローナは疑われるだろう。

 だが、空間転移で飛んできたためにアリバイがないシールズと昏倒させられた騎士に、騎士団が気付かない筈がない。

 騎士団がシールズを調べるきっかけさえ作れば、キロ達の証言も考慮されるだろう。


「騎士団の視界に入るまで、なんとしてでも足止めするぞ!」

「言われなくても、そのつもりです!」


 クローナが放つ大小、速度も様々な水球は精度よりもシールズの余裕を奪う事に重点を置いていた。

 シールズは面倒くさそうに手をかざし、土壁を生み出す。

 土壁の裏に隠れる直前、シールズが短剣をキロへ向けて放った。


「キロさん!」


 キロを傷付ける攻撃は来ない、そう思い込んでいたクローナが悲鳴交じりに名を呼び、注意を促した。

 しかし、キロは槍を構えて短剣を弾く準備をしつつ、水球の魔法を放つ。

 ――昏倒している騎士に向けて。

 キロの数メートル前方で短剣が掻き消え、昏倒している騎士の頭上に出現する。

 重力を受けて加速しながら昏倒した騎士へ迫る短剣に、キロの水球が直撃した。

 ちっ、と短い舌打ちが土壁の向こうから聞こえる。


「口封じなんて、いかにも犯罪者が考えそうな事だからな」


 キロは笑みを浮かべ、カッカラ騎士団に見えるように空へと火球の魔法を放つ。

 答えるようにカッカラ騎士団側からも火球が撃ちあがった。

 カッカラ騎士団の登場で勢いづいたクローナが魔力の残量を気にせず水球を放ち続けている。

 そろそろ、視界に入る頃だろう。

 シールズの前にあった土壁が崩れ、姿があらわになる。

 クローナの後先考えない水球の乱射が予想より早く土壁を崩したのだろう、シールズが驚いた顔をしていた。

 すぐに代わりの土壁が張られると思いきや、シールズは苦い顔でぬかるみを踏みつけ、昏倒している騎士に向かって駆けだした。

 カッカラ騎士団が間近に迫るこの状況下で逃走よりも口封じを選ぶとは考えにくい。

 ――騎士を守って戦っているように見せる気か!

 シールズの意図に気付いて、キロは動作魔力を練り駆けだすが、間に合わない。

 クローナの放った水球がシールズの前方に着弾する。

 泥を跳ねさせるだけだと思ったのだろう、シールズが加速したその時、脚を取られたようにバランスを大きく崩した。

 クローナの水球が着弾した地面が凍っていたため、滑ったのだ。


「あ、失敗しました」


 クローナが呟く。

 特殊魔力を混ぜてしまい、水球の魔法が失敗作の凍結魔法になったらしい。


「むしろ、よくやった!」


 体勢を立て直すために減速を強いられるシールズを横目に、キロは走り抜ける。

 昏倒している騎士の元に辿り着き、キロは騎士を背後にかばいながらシールズと対峙する。


「――お前達、何をしている⁉」


 ついにカッカラ騎士団が到着し、声を張り上げる。

 シールズが忌々しげに騎士団を睨んだ。

 少しでも自分に有利になるよう、疑惑の目を向けられないような言い訳を考えているのだろう。

 シールズの言い訳が始まるより先に、クローナが口を開く。


「昨夜と同様、この辺りの土を調べていたらシールズさんが――」


 クローナが事情を説明するためにカッカラ騎士団に顔を向けた時だった。

 シールズの手元から短剣が消えている事にキロが気付いたのは……。

 ――なんでこの状況で攻撃を⁉

 騎士団の前で攻撃を行えば、いかに信頼のあるシールズでも言い逃れはできない。

 キロは周囲に視線を走らせる。

 この状況で攻撃を仕掛けるなら、シールズの特殊魔力を知らないカッカラ騎士団だと考えたが、短剣の影も形も見当たらない。

 焦るキロの手元で何かが光る。

 反射的に視線を向ければ、空中から短剣が姿を現したところだった。

 ――やられた!

 短剣の切っ先を見て、キロは悟る。

 キロの手元から現れた短剣の切っ先はクローナに向いていた。

 キロの側から攻撃が来るなど、想像すらしていないクローナに向いているのだ。

 クローナがキロに寄せる信頼を逆手に取られていた。

 また、シールズが空間転移の特殊魔力を持っている事を知らない騎士団からは、キロがクローナへ短剣を投げたように見える事だろう。

 キロは槍を振り抜いて短剣を叩き落とそうと試みるが、事前に動作魔力で加速させてから転移したらしく、短剣はキロの必死さをあざ笑うように槍の間合いを抜けていく。


「――クローナッ!」


 名前を呼んで注意を促すが、クローナが咄嗟に警戒を向けて振り返った先はシールズだった。

 シールズが会心の笑みを浮かべる。

 キロは届かないと知りつつ、クローナへと手を伸ばす。

 シールズの笑みに違和感を抱いたらしいクローナが眉を寄せ、意見を窺うようにキロへ横眼を向けた。


「……え?」


 クローナの口からこぼれたのは、小さな、それはそれは小さな、疑問の声だった。

 服越しに血をにじませる腹部と、突き立っている短剣、それが飛んできたキロの方へと順に視線を転じた後、クローナは困ったような、痛みをこらえるような、そんな曖昧な笑みと共にキロに手を伸ばした。

 キロが手を掴むより先に、クローナは脚の力が抜けたようにその場でゆっくりと倒れ始める。

 キロはクローナの体を支えるためになおも手を伸ばしたが、その指先を掠めるように剣が振り下ろされた。

 剣を振り下ろしたカッカラの騎士団員と目が合う。


「止めは刺させんよ」


 ――誤解だ。

 キロが叫ぶ間もなく、他の騎士達がキロの肩を、腕を掴み、クローナから遠ざける。

 遠ざけられるキロを見たクローナの眼が残念そうに涙で光り、閉じられていく様を、キロは見逃さなかった。

 手を握ってやれれば、少なくとも安心させる事はできたはずなのに。

 そう考えるだけで、視界が歪んだ。


「……シールズ」


 騎士に抑えられながら、キロは静かに呼びかける。

 睨んだ先にいたシールズは騎士に向けて好青年ぶった笑みを浮かべていた。

 キロを押さえつける騎士達の力が強くなる。

 キロの動きを完全に封じるつもりなのだ。

 だが、キロは動作魔力を練り上げ、槍に纏わせた直後、手放した。

 重力に従って地面に落ちる槍が、動作魔力の影響で回転する。


「――は?」


 間抜けな声を上げた騎士達の足は動作魔力で回転する槍に薙ぎ払われた。

 驚愕して倒れ行く騎士達の目の前に、空中にあるキロの足が見える。

 槍を手放してすぐ、キロは小さくジャンプして槍の回転をかわしていたのだ。

 地面に足を着いていない騎士達にキロを押さえ切れるはずもない。

 キロは器用に槍を踏みつけて回転を止めると同時に、動作魔力を練ってぬかるみを踏みつける。

 泥が周囲に飛び散り、キロは莫大な推進力を得た。

 槍を手放したままのキロはシールズに向けて疾駆し、右手を突き出す。

 騎士を薙ぎ払い殺意を込めて睨むキロを見て、流石のシールズも身の危険を感じたのか目を見開いて頑丈な石の壁を作り出す。

 突き出していたキロの右手が触れた瞬間、石の壁が弾け飛んだ。

 尋常ではない破壊力だったが、当の本人は不満げに舌打ちする。

 僅かの減速もなく壁の向こうへ右手を届かせたキロだったが、その手は空を掴んでいた。


「見事だよ、キロ君……」


 壁の向こう、キロの手が触れるか否かのギリギリのところで、シールズが空間に溶けるように消えながらキロを褒め称えた。


「逃げんな、ド屑野郎」


 キロの罵声に、特殊魔力で転移しつつあるシールズが笑みを浮かべる。

 からかうように歪められたシールズの口元は、チェシャ猫のように最後まで残っていた。


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[良い点] ラッキースケベが逆な件 [一言] ブクマして後で読もうと思って読めてなかったので今日はこちらを読了しますw
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