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複数世界のキロ  作者: 氷純
第一章 クローナの世界
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第一話  羊飼いの少女

 数瞬の間、水中にいるような鈍い浮遊感に襲われた彼だったが、気が付けば背中に地面の感触があった。

 慌てて跳ね起きて、周囲を見回す。

 人の手が入っていない自然林の中のようだ。湿った地面に転がる岩には苔が生え、木々は歪な幹からグネグネした枝を伸ばしている。

 頭上には密生した枝葉が陽光を受け、緑色に透けていた。

 見覚えのない場所だ。少なくとも彼の地元ではない。

 体のあちこちを触り、異常がないかを確かめる。

 ついでに携帯電話を取り出したが、画面には圏外の文字が躍っていた。


「今時、圏外って……地図機能も使えないのか」


 ため息を吐いて、服についた汚れを払って立ち上がる。

 携帯電話のメモ帳機能を開き、一月二十日二十時、と打ち込んだ。

 その時、気付く。


「……太陽が出てる」


 彼は頭上を覆う葉に陽光を透かしながら、呟いた。

 記憶は二十時で途切れている。

 携帯電話の画面に表示された時間も二十時、日付も変わっていない。

 彼を昏倒させて携帯電話の時間を弄るなどというマメな事をする人物が太陽の運行に気を払わないとは思えない。

 さらに言えば、彼が目を覚ます時間を正確に予測できなければ携帯電話の時間を弄っても誤差が出てしまう。

 つまり、どうやってこの森の中に彼を送り込んだのかといえば、


「瞬間移動……俺はいま、光速を超えた――まぁ、言ってみたかっただけなんだけど」


 ポリポリと頭を掻くと、先ほどまで地面に寝転んでいたからか指先に泥が付いた。

 不快感を我慢して、今後の方策を考える。

 森の中ということ以外、現在地も分からない。状況だけ見れば遭難している。

 しかし、彼を突き飛ばした男は言っていた。


「……救ってくれ、か」


 誰かを救う必要があり、そのために送り込まれたというのなら、この場を動かなければ救う対象である誰かと遭遇するのではないか。

 少なくとも、この場に送られた事に意味があると考えるべきだ。

 彼はすぐに決断した。


「よし、逃げよう」


 救わなければいけない誰かが来るのなら、高確率で面倒事もやってくる。

 そして、「救ってくれ」といった彼にそっくりなあの男の手に負えない規模だった事が想像に難くない。そうでなければ、誰かに救いは求めないからだ。

 他人にできない事をやってのける自信など、彼にはない。自分にそっくりな誰かが失敗したとなれば、なおさらだ。


「……自分には関係ない」


 関係を持とうとして、今の状況がある。親切心を出してもろくな目に合わないと証明された直後で、厄介事に首を突っ込む勇気はない。

 彼は携帯電話をポケットに収め、駆けだす。

 しかし、三歩目を踏み出した瞬間、大木の太い幹で出来た死角から白い毛に覆われた生き物が飛び出してきた。

 横合いからの衝撃に跳ね飛ばされながら、彼は視線を向ける。


「――羊?」


 無様に湿った地面の上を転がった彼は、不意打ちを食らわせてきた羊を見た。

 モコモコと大量の毛を纏った羊が彼を睨みながら一歩、二歩と後退していく。

 その動作が意味するところに気付き、彼は慌てて地面に手を突いて体を起こす。

 彼が体勢を立て直す気配を感じたのだろう、羊は三歩目を正面に打ち下ろし、一気に加速する。


「やっぱり助走をつけてたのかよ!」


 突っ込みを入れつつ地面を強く蹴り、前転の要領で羊の突進から逃れた。

 躱された事を知った羊は忌々しそうに向き直り、再び助走距離を稼ぎ始める。

 羊が頭を下げ、もう一度突進の構えをとった。

 次の瞬間、羊は後ろ足を滑らせたようにズッコケる。


「……え?」


 羊が唐突に見せた渾身のギャグに反応できずにいると、今度は羊が体ごとひっくり返り、腹を空に向けた。

 事ここに至って、ようやく羊の体に押し付けられた杖を見つける事ができた。

 端がかぎ状に湾曲している杖だ。

 杖の逆端は大木の裏に繋がっている。

 続いて、大木の裏からひょっこりと顔を見せている少女に気付いた。

 自然な色の明るい茶髪に群青色のきれいな瞳、歳は十七、八だろうか。

 丈夫そうだがややくたびれたコートを羽織り、先端が湾曲した木の杖を持つ少女の姿は、童話の挿絵に見る羊飼いそのものだった。

 茶髪には小さなモザイクガラスがあしらわれたヘアピンを付けている。


「jytdcvjkl;?」


 ――何語だよ。高卒に唐突な異文化交流はハードル高いって。

 わけのわからない言葉で話しかけられ、彼は焦る。

 少女が首を傾げたため、質問されたのだと辛うじて理解できた。


「……怪我はないけど」


 状況から怪我の有無を訪ねているのだろうと見当をつけて、言葉と共に手を振って無事をアピールする。

 少女は彼の言葉に首肯した。


「o;sbfzsl;dgossk」


 飼い犬に待てと指示でもするように、開いた手を突きだし、少女はコートのポケットを漁って腕輪を取り出した。

 少女は右腕の袖を捲り、自分の腕にはまっている同じ腕輪を見せると、ポケットから取り出した方の腕輪を差し出してくる。

 どうしたものかと思いながら、腕輪を見つめた。


「……受け取ればいいのか?」


 山道で人とすれ違う時には会釈するという。同じように、腕輪の受け渡しは森で人と出会った時の儀式なのだろうかと思いつつ、腕輪に触れる。


「tdfかりますか?」

「え?」

「言葉が分かりますか?」


 腕輪から顔を上げると、少女は微笑みながら口を開いた。


「言葉が分かりますよね?」

「……分かる、みたいだ」


 少女の口から紡がれる言葉は未だに聞き取れなかったが、頭の中で強制的に日本語へ翻訳されているように、彼は内容を理解できていた。

 少女が満足そうに頷く。


「この腕輪に触れていれば、異国の言葉でもある程度は理解できるようになります。仕事柄、異国からの旅人と話す機会もあるので教会から支給されるんですよ。分かりますか? uyvtoy教会」

「教会の名前だけ聞き取れない」


 彼が素直に答えると、少女は難しい顔をする。


「使用者が親しんだ言語に存在しない単語は変換されなかったりしますからね。教会の名前だけでも、音で覚えてください」


 布教活動も義務なので、と少女は悪戯っぽく笑った。

 彼は曖昧に笑い返しながら、意識は腕輪にくぎ付けだった。

 こんなものが地球上に存在していたなら、英語の授業で悩む学生などいなくなる。

 時代錯誤な少女の服装も相まって、一つの可能性を意識せざるを得なかった。

 すなわち、ここが異世界である可能性だ。

 瞬間移動と異世界転移のどちらがよりリアリティーがあるかと考えているうちに、少女は羊を起こして追い立て始めた。

 不満そうにのしのしと歩く羊を監視しながら、少女が声をかけてくる。


「一緒に来ませんか? 魔物に牧羊犬が殺されてしまって、手が足りないんです。できれば手伝っていただけると嬉しいんですけど……」


 魔物、という単語が自然と発せられて、彼は内心ため息を吐いた。

 ――異世界で決定かな。


「役に立つかはわからないけど、それでよければ」


 彼の返事を聞き、少女は安堵したように笑った。


「私はクローナ。あなたは?」

「規路史隆だ。よろしく」


 一緒に歩き出しながら、自己紹介を交わす。


「キロフミタカさんですか?」

「……キロでいい」


 言い難そうなクローナを見かねて、キロは妥協する。

 太い木々に視界を遮られて気が付かなかっただけで、羊の群れはすぐそばにいた。

 地面から飛び出している木の根を跨ぎながら、キロは羊の群れを見た。

 数は十頭ほど。クローナはざっと眺めただけで数が揃っているかを確かめたようだった。


「羊を挟んだ向こう側を歩いてください。それだけで結構です」


 キロは頷いて、クローナの指示に従う。

 羊が放つ強烈な獣臭さを我慢して歩きながら、キロはクローナを盗み見た。

 出くわしたタイミングから考えて、救う対象はクローナではないだろうかと思ったのだ。

 しかし、すぐに思い直す。

 確かにクローナは牧羊犬を失って困っている。しかし、是が非でも助けがいる状況とは思えない。

 もしも、これからクローナが助けを必要とする立場に追いつめられるとすれば、その未来を知っていた男は何者なのか。


「分からない事だらけだな……」


 キロはため息とともに小さく呟いた。

 いずれにせよ、言葉が通じないこの土地で、今のところ頼れる相手といえばクローナだけだ。

 そう思ってもう一度クローナに目を向けると、視線が合った。


「キロさんの故郷はどこですか?」


 質問をぶつけられて、キロは内心の動揺を悟られないように小さく深呼吸する。

 違和感を持たれない程度の間を開けて、キロが口を開こうとした時、クローナはくすりと笑った。


「――なんて、言われても分からないんですけどね」


 クローナは自らが出した質問の意義を否定して、クスクスと笑った。


「大陸に冠たるuyvtoy教会の名前だけが腕輪で翻訳されないなんて、そんな事、まずありえませんから」


 腕輪は使用者の母語から合致する単語を抽出する。

 クローナが言う教会がもし、キロが歩いている土地の大部分を宗教圏に収めているのなら、キロはどこかで見知っているはず。

 宗教圏の外から来たのなら、クローナと出会うまでの旅はどうしていたのかという話になる。


「着ている服も綺麗ですけど、この辺りでは売ってない様式です」


 指摘されるまでもなく、キロだって気付いていた。

 様式が云々という以前に、化学合成素材が使われている。

 苦い顔をするキロに、クローナは楽しげな笑みを向けた。


「あなたにとっての異世界にようこそ、キロさん」


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