第三十七話 帰宅
排気ガスの臭いがした。
遠くを行きかう車の音につい身構えて、キロは周囲を見回す。
「ちゃんと現代に帰って来られたみたいだな」
クローナの過去の世界に旅立った時と同じ駐車場に出て、キロはほっと胸を撫で下ろす。
クローナとミュト、フカフカも同じように周囲を見回していた。
キロはミュトの担いでいる鞄を見る。
あわただしく過去の世界を後にしたが、ミュトは忘れず三人の鞄を持って帰ってきていた。
ミュトが視線に気付き、困ったような顔をして駐車場を見回す。
「ここで着替えるつもり?」
「こんな血だらけで町中を歩いたら大変なことになる世界だからな」
クローナはともかく、前線で直接フリーズヴェルグを切り殺していたキロとミュトは返り血を浴びている。
「我がおる。誰とも出くわさぬよう、安全な場所まで案内しよう」
「いや、カバンの中に丈の長いコートが入ってるから、羽織れば済む。俺は返り血を浴び過ぎてるからここで着替えるよ」
キロは胸の辺りがべったりと血で染まった服を軽く引っ張って、苦笑した。
コートを羽織っても誤魔化し切れないほど血生臭い。
キロはミュトから受け取った自分の鞄から替えの服を取り出し、車と柱の陰になる場所に入って素早く着替えた。ズボンは裾に泥をかぶっている事さえ除けば綺麗なものだったため、着替えずに済んだ。
それでも、あまり気持ちの良いものでもないので、アパートに帰ったらすぐにでも風呂に入ろうと心に決める。
槍を捨てるわけにもいかないため、刃の部分に服を巻いて誤魔化す。
高枝切り鋏に見えない事もないだろう。
着替えを済ませて出てきたキロは、今後の予定を考える。
「まっすぐにアパートに帰りたいところだけど、公園に寄らないといけないな」
「私はキロさんの家を早く見たいです」
「クローナ、我がまま言っちゃだめだよ。……公園で見つけた猫の死骸の首輪を取ってくるの?」
ミュトの問いかけにキロは肯定を返す。
公園の死骸について知らないクローナは首を傾げた。
「公園って、私が目を覚ました時にいたあの開けた場所ですよね?」
「そうだ。その公園には誰かに飼われていた猫の死骸がある。その猫が付けている首輪を借り受けて、もう一度この世界に戻って来れるようにする」
クローナが納得顔を頷かせる。
公園に向かって歩き出したキロは、ミュトに横目を投げる。
「クローナを連れて先に俺の部屋に帰ってもいい。ミュトなら道も分かるだろ?」
徹夜で戦闘した事もあり、肉体的な疲労はすでにかなりの物だ。
魔力の残量もほとんどないため、動作魔力で楽をして歩く事も出来ない。
キロの気遣いに、ミュトはクローナと共に首を振った。
「疲れてるのは確かだけど、疲れてるのはキロも一緒でしょう?」
「むしろ、キロさんが一番激しく動き回ってましたし、公園には私達が行ってもいいんですよ? さっきの話を聞く限り、ミュトさんも場所は分かってるんですよね」
「いや、確かに疲れてるけど……ってやめておこう。堂々巡りだ」
笑いあって、キロ達はまっすぐ公園に向かう。
高枝切り鋏に偽装した槍が周囲の風景に溶け込む事はなかったが、フカフカの優れた聴覚で通行人を避けたため職務質問をされる事はなかった。
公園の滑り台に到着したキロ達は、猫の死骸の前でしゃがむ。
冬の気温のおかげか、腐臭を放ってはいなかった。
首輪を外し、地面に描いた魔法陣に乗せる。
魔法陣を発動させた際の反応から遺物潜りに使える事が分かったため、鞄の中に入れてあった皮袋の中に仕舞い込んだ。
「さて、帰るか」
「キロさんのお宅訪問ですね!」
ガッツポーズするクローナに、キロは苦笑する。
最初にキロの家へ着いた際、クローナは死んでいた。前回、虚無の世界から帰ってきたキロと扉越しに話しに行った際の記憶はクローナにはない。
記憶の上では初の訪問なのだ。
歩き出したキロに並びながら、クローナはミュトに声を掛ける。
「子供の頃に集めたガラクタとかあるかもしれませんね」
「前に行ったときはそれどころじゃなかったから、考えもしなかったなぁ」
クローナとミュトが家探しの相談をしている。
子供時代のキロは児童養護施設で気を使って生活していたため、迷惑になるようながらくたはもちろん、授業で作った物も場所を取る場合は持ち帰っていない。
賞でも受けていたなら話は別だったろうが、キロは美術的な器用さを持ち合わせていなかった。
「あるとしてもせいぜい子供時代の写真くらいだな」
児童養護施設に入ってからの写真しかないが、小さなアルバムにまとめてある。
写真、と言われて理解できない顔をするクローナとミュトに、キロは携帯を取り出して地下世界で撮った写真を見せる。
「これを紙にし――」
「見たいです!」
キロの言葉にかぶせるようにクローナが言う。
クローナの意気込みに気圧されて、キロは後ろに仰け反った。
そうこうしている内にキロのアパートに到着する。
隣人に出くわさないように気を遣いながら、キロ達は部屋に入った。
「お邪魔します」
ミュトが断りを入れながら靴を脱ぎ、中に入る。
脱衣所の前まで歩いたミュトはキロを振り返った。
「先に水浴びしていい?」
服に着いた返り血を気にしていたらしく、ミュトが申し訳なさそうに訊ねてくる。
「いいぞ。腹も減ったし、俺は有り合わせで何か作るから」
キロの回答に嬉しそうに笑って、ミュトは脱衣所に入って行った。
ミュトの肩から飛び降りたフカフカが器用にリビングの扉に飛びついてドアノブを回し、ドアを押し開ける。
キロは靴箱に靴を入れているクローナを見る。
「クローナはどうする? ミュトの水浴びが終わったら風呂を入れようと思ってるけど」
「お風呂にします。それより、子供の頃のキロさんが見たいです」
わくわくした顔のクローナを連れて、キロはリビングに入る。
大して広くもない部屋だ。玄関から三歩も進めばリビングの扉である。
リビングに入ったクローナが、おぉ、と感動したように呟く。
「キロさんの匂いがしますね」
「自宅だからな。ほら、これがアルバムだ」
キロは本棚の端に収まっていたアルバムを取り出して、クローナに渡す。
満面の笑みを浮かべ、アルバムを両手で受け取ったクローナは、机の上で開く。
中の写真を見た瞬間、クローナの笑みが急に引いていった。
「……そうですよね。キロさんの昔の写真だから、こういう表情ですよね」
真顔に戻ったクローナがポツリと呟く。
何事かと思って、キロはアルバムを覗く。
写っているのは見慣れた自分の姿だが、キロはすぐにクローナの反応に得心がいった。
机に飛び乗ったフカフカがアルバムを見て鼻を鳴らす。
「愛想笑いしておるな。今とは大違いである」
キロはアルバムのページをめくる。
幾らめくっても、写真のキロは体が大きくなるばかりで同じ愛想笑いを浮かべていた。
「クローナと会うまではこれが普通の笑い方だと思ってたけど、今見ると違和感が凄いな」
心配そうに見てくるクローナに気付き、キロは微笑みかける。
「もう笑い話だ。後でミュトにも見せてやろう」
「良いんですか?」
「別にいい。笑い話なんだから、皆で笑おう」
キロは言い置いてキッチンに向かう。
「この絵と同じ人間だとは思えぬ言葉であるな」
フカフカがキロを見送りながら、機嫌よく尻尾で机の上を払った。




