第二十六話 躊躇こそが後悔の根源
太古の昔、地下世界人の祖先が空を失った原因。
ミュトの張った特殊魔力の壁を一息で呑み込む悪食の竜を見て、キロは悟る。
――勝てない。
体長は十メートル、翼長は十五メートルほど。
どんな物より黒い体は重そうに見えるが、動作魔力を使って全力で逃げるキロ達を悠然と追いかけてきている。
キロ達に逃げ場がない事を知っているのか、悪食の竜は速度を上げる事もなく散歩を楽しむような余裕を持って飛んでくる。
キロは必死に頭を働かせ、逃げ切る方法を探していた。
自分達と悪食の竜の存在以外に何もない虚無の世界で、逃げる方法。
――駄目だ……。
キロは槍を持つ手が緊張で汗ばんでいるのを感じていた。
悪食の竜が迫る速度を考えれば、このまま虚無の世界を逃げ続けても未来はない。
遮蔽物はなく、あったとしても悪食の竜に食われて意味をなさないだろう。
キロの取れる手段は一つしかなかった。
だが、キロはその選択をとれない。
悪食の竜との距離は縮まる一方だったが、キロは焦りながら頭に浮かんでいた選択肢を否定し続ける。
フカフカが先ほどから無言を保っているのが不気味だった。
一か八か、悪食の竜と戦おうか、と自暴自棄な考えが浮かんだ、その時。
不意に、クローナが足を速め、キロとミュトに先行した。
キロは咄嗟に槍を持っていない方の手をクローナに伸ばす。
しかし、クローナは肩越しに振り返ってキロの手を払いのけた。
クローナはキロの顔を見て、目に涙を浮かべて苦笑する。
見覚えのある表情だった。
一か月前、遺物潜りをするキロに付いて来ようとするクローナと喧嘩した時、別れ際に浮かべていた表情とそっくりだった。
「キロさん、気付いてるなら話は早いですね」
――まさか、クローナも気付いて……ッ!
キロはクローナの言葉にぞっとして、石で造られた地面を強く蹴る。
しかし、蹴られた地面はキロに推進力を与える事はなく、紙で作られたように脆くも崩れ去った。
「――キロ⁉」
バランスを崩したキロを見て、ミュトが足を止め、キロを支える。
キロは石の地面を見て、その壊れ方から何が起こったかを察した。
――クローナの奴、特殊魔力を混ぜたのか⁉
「崩れるかどうかは賭けだったんですけど、私の勝ちです」
クローナが目に浮かんだ涙をぬぐい、微笑みながらクローナはモザイクガラスの髪飾りを外す。
話に付いて来れていないミュトが怪訝な顔でクローナを見る。
しかし、クローナが懐から短剣を取りだした時、この窮地を脱する唯一の方法を悟ったらしい。
唯一の脱出方法、それは――
「やめろ、クローナ! 俺がやるッ!」
クローナに向けて叫びながら、キロは手を伸ばす。
クローナが短剣の柄を握り、刃先を自分の胸に向ける。
「駄目ですよ。キロさんのいない世界で私は生きたくないんですから」
「やめろって言ってるだろ、クローナ!」
「大好きですよ、キロさん」
そう言って、クローナは躊躇なく自らの胸を短剣で突き刺した。
糸の切れた人形のように倒れてくるクローナをキロは抱き留める。
クローナの胸から血がにじむ様を呆然と見つめるキロの頭が、目の前の事実を何度も突きつけてくる。
キロは悪食の竜から逃げ始めた時、すぐに気付いていた。
誰かが自殺する事で遺物を作り出し、遺物潜りで別の世界に行くしかない事を。
「――呆けておる場合か。クローナの死を無駄にするな、大たわけ!」
フカフカが大声を張り上げる。
振り返れば、悪食の竜がすぐそこまで来ていた。
キロは唇を噛みしめ、クローナの手が握っていた髪飾りを取り、石で魔法陣を作り出す。
事前にわざわざ髪から外したくらいなのだから、クローナも髪飾りに一番思い入れがあるのだろう。
キロはクローナの髪飾りを媒体に魔法陣を発動させる。
もはや見慣れた黒い空間が出現した。
遺物潜りが発動した事がクローナの死をキロに事実として突きつける。
「……キロ」
声を掛けられて、キロはハッとして振り返った。
心配そうなミュトの顔を見て、キロはミュトの手を握る。
――ミュトとフカフカだけでも、守る。
もう片方の手でクローナの遺体を抱きかかえ、キロはクローナの髪飾りが作り出した異世界への扉を潜った。
ちらりと視界の端に見えた悪食の竜は獲物に逃げられたと知って口を閉ざす。
――いつか殺す。
キロの憎悪と殺意を悪食の竜は無感情に受け流していた。
視界が闇に覆われた直後、キロは足元にしっかりとした地面の感触を感じ取った。
視界に光が入り込み、キロは目の前に広がった光景に硬直した。
「……ここ、クローナの世界じゃないよね?」
ミュトが戸惑いがちに周囲を見回し、呟く。
すでに日は落ちた暗い空、冬の寒風が吹き込むコンクリートの廊下、天井に下がる電球、下の通りを横切る大型トラック。
クローナの世界では絶対にありえないはずの光景。しかし、キロにはなじみの景色。
「なんで……」
混乱の中、キロは呟く。
何度周囲を見まわしても、疑う余地はどこにもない。
間違いなく、そこは科学が発達した現代世界。
キロが、規路史隆が生まれ育った世界だった。
さらに混乱を誘うのが、キロ達が立つその場所が他のどこでもない――
「なんで、俺のアパートなんだよ」
混乱するキロの頭の中で、あの言葉が繰り返されていた。
行って来い。そして、救ってくれ、と。
――俺は、失敗した。
以上で三章は終了となります。
四章開始は九月十日を予定しております。




