プロローグ
彼は携帯電話を耳に当てつつ、バイト先の店長に目礼して扉をくぐった。
暖かさなど微塵も感じない冬の外気に包まれて、身震いする。
道路を挟んだ向かいの歩道に視線を転じれば、毛皮のマフラーを巻いた人影を見つけて羨ましくなった。
髪も肌も真っ白なその人物は、マフラーで口元を隠していて性別がよく分からない。高校生くらいだと見当はついたが、年齢にしては上等な毛皮のマフラーがどうにも不釣合いだ。
――外人さんか。
少し気になりはしたものの、あまりじろじろと眺めるのも失礼だと思い直す。
何より、右手に握った携帯電話で通話中なのだ。
「――見つけたのはついさっきだ。もう冷たくなっていたよ」
「……そうか。歳だったもんな」
携帯電話の向こうにいる父親代わりの言葉に返した。
耳に当てた携帯から、泣きじゃくる子供の声が微かに聞こえてきて、苦笑する。
――年少組の子か。
「俺が施設に入ったのとほとんど同時だろ? 十三歳くらいか」
「十五歳は超えていたよ。犬にしては長生きな方だ。お前もこっちに来い。お前にだけは良く懐いていたんだから」
「あぁ、いま向かうよ」
通話を切り、数年前まで住んでいた児童養護施設に足を向けた。
幼いころは嫌悪感すら抱いた場所だった。
逃げるように勉強し、奨学金を得て全寮制の高校へ進みバイトをしつつ卒業したものの、就職活動は身元保証人が空白の履歴書の影響で難航している。
時間だけはあるというのに、最近はあまり構ってやれなかったなと、牙を剥いて威嚇ばかりしていた犬の顔を思い出す。
やたら強気なくせに、彼にだけは懐いていた。段ボール箱から拾い上げて最初に餌をやった人間だからだろう。
施設への道筋を思い出していると、耳慣れない名前が耳に飛び込んできた。
横に目を向ければ、家電量販店の店頭に置かれた液晶テレビが視界に入る。
どうやら、しばらく前から行方が分からなくなった女性に関する報道らしい。
女性の名前が日本史の教科書で最初に出てくる女性と同じ読みなのだ。
気になった事といえばただそれだけ、すぐに記憶の中から消えるような些末事だ。
「――自分には関係ない」
この言葉が自分と社会とを隔てる壁を作り始めた時期は何時だろうか。
昔は捨て犬を拾うくらいの優しさを持ち合わせていた癖に、今となってはただ一言で切って捨てる。
そうやって、自分と自分の居場所をリスクから守っている。
牙を剥いている方がまだ救いがあるかもしれない。少なくとも外に対して積極的に行動しているのだから。
つらつらとそんな事を考えていたからだろう。
彼は裏道に落ちていた手袋に目を留めた。
「毎度思うけど、なんで手袋って片方しか落ちてないんだろうな」
苦笑しつつ、誰にともなく呟いた。
拾って目立つところに掲げておけば、落とし主の目にも付きやすいだろう。
牙を剥くより健全だ。
自嘲気味に考えて、彼は手袋に歩み寄る。
男物の丈夫そうな革の手袋だ。少し年季がいっているようにも見える。
彼が手袋を拾おうと屈むと同時に、背後から駆け込んでくる足音が聞こえた。
タイミングよく持ち主が現れたのかと、拾おうとしていた手を止める。
その瞬間、革の手袋が光を放ち、彼の前に正体不明の黒い長方形の空間を生み出した。
驚いて手袋から飛びのこうとした彼だったが、背後から駆けてくる足音は速度を緩める様子がない。
空気を読めと文句を言う前に、駆けてきた勢いごと彼にぶつかってくる。
背中に与えられた衝撃で彼は前へと押し出され、黒い長方形の一歩手前で何とか踏み止まった。
「おい、何するんだ――」
文句を言おうとした彼は体を反転させ、体当たりしてきた人物の顔を見て絶句した。
毎日のように鏡に映す顔が、そこにあったからだ。
「……行って来い。そして、救ってくれ」
短く、台本を読み上げるような抑揚のなさで彼にそっくりな男は囁く。
まるで、録音した自分の声を聴いているような感覚に襲われた。
「お前、誰だ?」
「――忘れるな。今は一月二十日、二十時だ」
男は何故か時間を告げた。
ますます混乱したが、この状況に答えを出す時間は与えられなかった。
男が音もなく流麗な足捌きで彼我の距離を詰めたのだ。
咄嗟の事で反応できないでいる彼の胸へ、男が掌底を放つ。
怪我をさせる意思はなく、ただ突き飛ばしたと表現するべき柔らかい一撃だった。
しかし、その細い腕からは想像もできない力が込められていたらしい。
彼の靴底からコンクリートの感触が消えた。
「――なっ⁉」
男の姿が遠ざかる。いや、男は動いていない。
彼が遠ざかっているのだ。
そう理解した直後、革の手袋が生み出した黒い長方形の空間へと、彼は吸い込まれた。