Clair de lune
「降って来たな」
カミーユがカーテンを開いて窓の外を眺める。
…雨。
「もう、立夏の長雨?」
「あぁ。…今年は早いみたいだな」
立夏の長雨。
ラングリオンでは季節が春から夏に移り変わる時期に雨が続く。トーロの後半になると雨が増えて、立夏になると休日の四日間ずっと雨が降り続いていることも珍しくない。
その為、この時期の雨のことを立夏の長雨と呼ぶ。
雨の降り方も様々で、傘も要らないようなさらさらとした雨のこともあれば、雷を伴うほどの豪雨になることもあるらしい。
立夏が過ぎれば砂漠から乾燥した風が運ばれ、ラングリオンは暑い夏を迎える。
信じられないぐらい一気に季節が変わることを体感できるのもこの季節だ。
去年はずっとフラーダリーの家に居た。
ベリエの十九日にラングリオンに来てから、コンセルの朔日に養成所に入るまでのおよそ二か月半。
だから、立夏の長雨の時も。
ずっと家に居た。
「待ってても、夜に虹は見えないと思うぜ」
「虹?…虹って、雨上がりに見える光学現象?」
「ロマンも何もない言い方だな」
「ロマンって?」
「夢のない言い方だって言ってるんだよ。もっと綺麗なものだろ。七色に輝くアーチだぜ?」
「七色のアーチ?」
「…見たことないのか?」
「ない」
砂漠で雨なんて滅多に降らないし。
雨なんて見ていたいと思わないから。
「この時期なら雨上がりにいつでも見られるはずだけど。…あ、確か、虹って作れるんだぜ」
「どうやって?」
「さぁ?」
知らないのか。
「滝とか噴水の側にも出るし、難しくなさそうだけどな」
水と光があれば作れる?
「明日、シャルロと調べてみようぜ」
頷く。
七色なんて、綺麗に違いない。
楽しみだ。
「で?どれ動かしたんだ?」
「まだ」
視線をチェスボードに戻す。
昼間やっていたチェスの続きをやる為に、カミーユの部屋に来ていたのだ。
その勝負は引き分け。
今度は俺が白、カミーユが黒でやってる。
…白のルークをキングの手前へ。
「チェック」
キングを端に追い詰める。
それから、白のビショップを動かす。
カミーユは全然違う戦場の黒のナイトを動かして、まだ一度も動かしていないルークに攻撃。
でも、そっちは無視して良いだろう。
「チェック」
「あ」
白のルークでポーンを取って、キングを攻撃。
カミーユが黒のナイトでルークを取る。
「サクリファイスって言うんだっけ」
ルークのサクリファイス。
さっき動かした白のビショップの保護下へクイーンを移動させて、止め。
「チェックメイト」
カミーユが欠伸をする。
「今日はこれで終わりだ」
カミーユがチェスの駒を片付ける。
カーテンから覗く雨と。部屋に響く雨の音。
さらさらとした…。
「カミーユ」
「なんだ?」
「泊まって良い?」
「は?…何言ってるんだよ。明日も授業があるんだぞ。徹夜なんて御免だ」
「寝るよ」
「寝る?」
ベッドを指す。
「一緒に寝よう」
「…帰れ」
「だめ?」
「お前の部屋はすぐ近くだろ。早く帰れ」
泊めてくれない。
「わかった」
「…おやすみ、エル」
「おやすみ、カミーユ」
カミーユの部屋を出て、廊下の窓から外を見る。
雨。
まだ起きてるかな。
『部屋に戻らないのか?』
「アレクのとこに行く」
消灯時間が過ぎた廊下は薄暗い。
普段だったら月明かりが射し込むから、もう少し明るいのに。
窓から差し込む街灯の明かりだけが足元を照らす。
廊下に響くのは雨音。
他に音はなくて。
静かで。
ここは屋内なのに雨の音が耳のすぐそばで聞こえるみたいで。
体が重くて。
息が苦しくて…。
『エル…』
どうか起きていますように。
扉をノックする。
「どうぞ」
アレクの声だ。
その扉の取っ手に、手をかける。
…扉?
辺り一面が暗闇に落とされたように、視界が真っ暗になる。
手に触れてるのは、扉の取っ手。
耳に入る音がすべて消えて。
声すらも出なくなりそう。
どうしよう。
この先に、何もなかったら…?
急に扉が開いて明るい光が射し込む。
すごく明るい。
夜の暗さじゃない。
ランプの明るさじゃない。
「おいで」
手を引かれて部屋に入る。
「何か飲むかい」
「眠い」
そのままベッドに倒れ込んで、目を閉じる。
嫌な夢を見そうだ。
だって、雨の音が…。
あれ?
何の音?
目を開く。
「オルゴールだよ」
音の鳴る機械。
体を起こして、オルゴールを受け取る。
「ゼンマイを回すと音が鳴るんだ」
円筒形の部品が回ると、横にある金属の突起が弾かれて音が鳴る。
円筒形のところどころについている突起が楽譜、横にある平たい金属が楽器になってるんだろう。
綺麗な音。
「気に入ったならあげるよ」
オルゴールを耳に近づける。
優しい音色。
…落ちつく。
「曲名は?」
「月の光」
月の光…。
「アレク、膝枕して」
「いいよ」
アレクに膝枕をしてもらって、ベッドに横になる。
「泊まって良い?」
「いいよ」
アレクが微笑む。
目を閉じると頭を撫でられる。
オルゴールの音も心地良い。
「雨は嫌いかい」
「嫌いだよ」
砂漠では、雨なんて全然降らないから。
でも、あの日。
雨が降っていた。
確かに、雨が降っていた。
雨。
扉を開いた先。
薄暗い世界。
何もないあの場所にさらさらと降り注ぐ雨。
雨。
じっとりと張り付くように自分を濡らす雨が。
最後に聞いた音を思い起こさせる。
あの、声。
「…っ」
体を起こす。
声が、出ない。
「エル」
アレク。
「喉が渇いたならサイドテーブルに水があるよ」
サイドテーブルに置いてある水を飲む。
「…甘い」
なんで?
「水差しがあるだろう」
水差しからコップに水を移して飲む。
こっちは普通の水?
「さっきのは?」
どこかで飲んだことのある…。
「砂糖水だね」
「なんで、砂糖水?」
「花にあげる水を作ってたのを忘れていたんだ」
花?
そういえば、アレクはいつも部屋に花を飾ってるっけ。
「切り花には砂糖水を使うと長持ちするんだよ」
それ、前にフラーダリーから聞いたことがある。
「悪かったね。口直しにコーヒーでも淹れようか」
「良いよ。すぐに寝る」
眼鏡をかけて本を読んでいるアレクを見上げる。
ずっと起きてたのかな。
「雨は怖いかい」
怖い…?
「怖くないよ。嫌いなだけで」
「大丈夫だよ。私は居なくなったりしないから、怖がらずに扉を開くと良い」
それは…。
「なんで、そんなに俺のことに詳しいんだ」
「砂漠に行った時に精霊のお喋りを聞いたんだよ」
アレクは精霊が語りかけなくても精霊の声が聞こえるから?
「全部、知ってるのか?」
「一部始終すべて」
あのこと…。知ってる精霊も居たのか。
アレクは全部知ってる?
フラーダリーですら知らないことも、全部?
「フラーダリーは忘れろって」
「そうだね。でも、話して楽になることもあるよ」
話して、楽になれる?
「話してごらん。躊躇うことはないよ」
アレクは全部知ってるから?
忘れたいのに忘れられないこと。
「忘れたいことは何かな」
何度も夢に見る、あの光景。
雨と共に蘇る…。
「声…」
「声?」
頭に響いて、鳴りやまない音。
耳を塞いでいても聞こえてくる声。
あの時、聞いた…。
精霊の…。
「エル」
後ろから抱きしめられる。
「エルには何の責任もない」
「違う。俺のせいなんだ。だって…」
あの時…。
「だって、俺が瞳を渡せば…」
誰かに話すのなんて初めてだ。
絶対に誰も知らないこと。
知っている精霊は皆死んでるはずなのに。
アレクは、誰から聞いたんだろう。
※
―エル。
懐かしい声。
金色の髪。
菫の瞳。
いつも頭を撫でてくれる手。
俺の母親の話しをしてくれる唯一の相手。
いつも勝手に居なくなってしまう。
俺が一人の時は傍に居てくれるのに。
気が付いたら、別れの言葉も告げずに居なくなる。
…もう会えないのかな。
今は、一人じゃないから。
※
目が覚める。
何度目だろう。
でも、嫌な夢を見た気はしない。
隣でアレクが寝てる。
アレクの寝顔見るのって初めてかも。俺より先に寝ることはないから。
部屋はすごく静かだ。
…雨が止んでる?
ベッドから出て、カーテンを開いて窓の外を見る。
満月だ。すごく月の光が強くて…。
「え…?」
なんだ?あれ。
目をこする。
錯覚じゃない?
カミーユは夜には見えないって言ってた気がするけど。
「ア…」
アレクに声をかけようとして、やめる。
俺が起きてるのに気付かないってことは、きっと疲れてるんだ。
もう一度、窓の外を見ると、さっき見たものはなくなっていた。




