06 王国暦五九九年 ポアソン 十五日
「エル!アレク!おかえりなさい」
「姉上、お久しぶりです」
「…ただいま」
そんなに喜んだ顔をされると、今まで帰ってこなかったことを後悔する。
「元気だった?」
頷く。
「今、コーヒーを淹れるから待っていて」
フラーダリーが慌ただしく台所に戻るのを見ながら、アレクと一緒にソファーに座る。
少し、落ちつかない。
帰って来るのは久しぶり。
最後に帰ったのは、後期の期末テストが終わった後。
カプリコルヌの三十日とヴェルソの朔日の連休に帰ったきりだから、一月以上経っている。
「チェスでもやろうか」
「…ん」
頷いて、チェスボードを出し、チェスの駒を並べる。
「いつも二人と遊んでるのかな」
頷く。
「シャルロは、俺が黒の時に勝ったことは一度もない。カミーユは、白でも黒でも勝ったことはあるけど、負ける時は、すごく面白い手を使って来る」
「面白い手?」
「思ってもみないところからビショップが飛んでくる」
アレクが笑う。
「上手いんだね」
「ビショップのチェックから逃げたと思ったら、もう一つのビショップでチェックされたんだ。後は、クイーンで追い詰められて、ポーンがクイーンになってチェックメイト」
「棋譜は覚えているかい」
「待って。今、書く」
カミーユは白、俺は黒だった。
ノートを出して棋譜を書いていると、フラーダリーがコーヒーを持って来る。
「またチェスをやっているの?」
これ、どこから詰んでたのかわからない。
キャスリングされた時点で詰んでたってことはないよな?
キャスリングは、一手で二つの駒を動かせる特殊なルール。
条件さえそろえば、キングを二コマ隣に移動させ、ルークをキングの真横に持って来れる手だ。端に居るルークを一気に中央に持って来れるからかなり有効な手なんだけど。
「面白いね。エルからは、本当にビショップが飛んできたように見えただろうね」
ビショップが、あんなに自由に動き回れるラインを残していたなんて。
俺のビショップは完全に潰されてるのに。
「そうだね…。カミーユは早い段階で駒を中央に出してる。エルももう少し早い段階で、手前の駒を前に出して良かったかな」
確かに。
「エルはクイーンを気に入ってる割りに、使い方が下手だからね」
あんなになんでも出来る駒なのに。
失うリスクの方が高いから困る。
「この前、シャルロにも言われた。最後、キング、ポーンで相手のキング一人と戦うなら、ポーンはルークにした方が良いって」
「そうだね」
アレクがくすくすと笑う。
「さ、二人とも。今日のお菓子はパルミエだよ」
ハートの形をしたパイだ。
一つを手に取って食べる。
食感が良くて美味しい。
※
お風呂に入って二階に上がると、フラーダリーがバルコニーに出ているのが見えて、外に出る。
「エル。…髪を乾かさないと風邪をひいてしまうよ」
フラーダリーが俺のタオルを持って、タオル越しに頭を撫でる。
「俺は、そんなにひ弱に見える?」
「うん」
酷い言われようだ。
「風邪なんてしばらく引いてないのに」
フラーダリーが笑う。
「子供の心配をするのは親の特権だからね。心配させて」
「心配するのが特権?」
「そうだよ」
変な特権。
…あれ。
フラーダリーなら何て答えるかな。
「フラーダリー、手に入った瞬間要らなくなるものって?」
「手に入った瞬間要らなくなるもの?…難しい問題だね」
フラーダリーは黙ったまま、濡れた髪の水分を拭き取る。
「もともと不要な物だったら、手に入れても要らないかもしれないね」
「それまでは、すごく欲しいと思っていたもの」
「すごく欲しいと思っていたのに、要らなくなるの?…エルには、そういうものがあるってこと?」
「ない」
「じゃあ、それが答えだろうね」
「手に入った瞬間要らなくなるものは、ない?」
「うん」
少し、ほっとした。
…なんでだろう。
「もしくは、そもそも絶対に手に入らないものであるか」
「絶対に手に入らないもの?」
「たとえば、夜空の月。…今日は綺麗な満月だね」
フラーダリーと一緒に月を見上げる。
「あれは絶対に手に入らない。でも、もしも手に入ってしまったら、私は手放すだろう」
「なんで?」
「月は、独り占めしてはいけない。皆のものだからね」
もう一度、月を見上げる。
絶対に手に入らないものが、手に入ったなら。
「俺は、離さないよ」
欲しいもの。
俺の欲しいものは、もう二度と手に入らない。
俺のせいで生まれてこなかった。
会いたかった。
愛しいアンジュ。
「エル」
フラーダリーが、後ろから俺を抱きしめる。
「私は何よりも君が大切だよ。だから、エルも自分のことを大切にして欲しい」
どうして。
そこまで…。
俺なんかを。
「大丈夫だよ、エル」
大丈夫?
「過去は戻らない。あの時、あの時点では不可避だったんだ。さぁ、全部忘れて。前だけを見るんだ」
忘れて。
「大丈夫」
全部。
捨てて。
やり直して…。




