01 王国暦五九九年 ヴェルソ 十六日
眠い。
「あんまり夜更かしなんてするものじゃないよ」
「なんでアレクは眠くないんだよ」
一緒に寝たはずなのに。
「エルより年上だからかな」
年上って。二歳しか違わない。
昨日のチェスの結果は、一勝六敗二引き分け。
引き分けは、俺がステールメイトを二回やった。
「デザートは食べないのかい」
「要らない」
「姉上のお菓子は食べていたじゃないか」
フラーダリーがこの前作ってくれたショコラのケーキは、ショコラの香りが良くて、甘くなくて美味しかった。
「そんなに甘くないやつなら平気」
養成所のデザートは甘いものしかない。
「お菓子を食べに帰ろうか。今日は家に居るはずだよ」
「帰りたくない」
「どうして」
「フラーダリーが俺を甘やかすから」
アレクが笑う。
「子供なんだから、好きなだけ甘えたら良いのに」
「フラーダリーは忙しいのに。俺が帰ったら、俺のことを考えなくちゃいけないだろ」
俺が甘いものを食べなくなったのを知って、わざわざ俺が食べられる菓子を作ってくれた。
「それがいけないことかい」
「これ以上、迷惑をかけたくない」
「エルの意志は固いんだね。でも、節句の長休みぐらいはちゃんと帰るようにね」
季節の変わり目。新年の立秋、立冬、立春、立夏は長い休みがある。
次の節句は立冬でヴェルソの終わり。そして学年が上がる節目。
「次の節句は無理。帰れない。…歓迎会に劇をやるんだ。バイオリンの練習をしなくちゃいけない」
「一日ぐらい帰ってあげないのかい」
きっと、フラーダリーは会いたいと言ってくれるだろう。
優しいから。
少し、会いたい。
「次は、ポアソンの十五に帰るよ」
「姉上は、エルの顔を見たら喜ぶよ」
「心配だから?」
「好きな人の傍には居たいものだから」
母親って。こんなに子供を大切にするものなのか。
あの人も、いつも俺の頭を撫でてくれた。
そして俺が他の人たちに願いを聞くたびに、少し悲しそうな顔をしていた。
―可哀想な子。
自分が可哀想だなんて。
恵まれていないなんて、一度も思ったことないけど。
それが人間から見た俺の印象なのだろう。
「アレクは、俺を可哀想だと思う?」
「そう思って欲しいのかい」
「思わない」
「私は、自分の意思で自由に生きられる人間を可哀想だとは思わないよ」
アレクの言う通りだ。
俺は自分の意思を曲げたことなんてない。
「音楽室に行こうか。午後からは私も用事があるから」
「わかった」
「…エル、気をつけて」
「え?」
後ろから急に抱き着かれる。
「おはよう、アレク。今日も可愛いね、エル」
ロニー。
「おはよう。ロニー、グリフ」
グリフも居るのか。
「おはよう、アレク、エル」
「いい加減、離せ」
「ロニー」
ロニーがくすくすと笑いながら俺を離す。
グリフもロニーもアレクの言うことは必ず聞く。
「おはよう、グリフ、ロニー」
振り返って、二人に挨拶する。
「襲われたってのに挨拶か。相変わらず行儀の良い坊やだな」
「いい加減、坊やって言うのやめろよ」
「気に入らないか?」
「気に入ってるわけないだろ。ロニーだって、何でもかんでも可愛いって言うなよ」
「私は可愛いものが好きなだけだよ」
「俺は可愛くないぞ」
「可愛いよ」
「…アレク、どうにかして」
「エルは可愛いね」
だめだ。助ける気がない。
「ロニー、エルが愛の喜びと悲しみを知りたいって」
「また難しい質問だね」
難しい質問?
「手に入った瞬間、要らなくなるって感じかな」
「何の話しだよ」
「好きな人の話しじゃないの?」
「好きな人?手に入ったら要らなくなる?なんで?」
要らなくなるものなのか?
「欲しいものって、とても輝いて見えるけど、実際手に取ってみると案外光ってなかったりするんだよ」
「それって、お前の目が節穴なだけじゃないのか」
アレクとグリフが笑う。
「そう言われたら困っちゃうな。でも、ピアノならやっても良いよ」
そういえば、ロニーはピアノが出来るんだっけ。
「だからアレクがバイオリン持ってたのか」
そう言って、グリフがアレクのバイオリンを持つ。
「エル、音楽室に行こうか」
アレクの腕を掴む。
「うん?」
アレクも。
要らなくなる…?
「エル。わからないことは調べてごらん。学ぶ方法ならいくらでもある。それは本ばかりではないよ。自分の目で見たもの、感じたことがすべてだ」
「手に入ったら、要らなくなる?」
「不要になるものなど欲しいと思わない。私は、自分が欲しいものしか手に入れたいと思わないよ」
それが、アレクの答え。
やっぱりロニーの目が節穴なだけだ。
※
何度か演奏してもらって音楽を覚えた後、教室に戻る。
ユリアに楽譜をもらって練習しよう。
教室に居れば良いけど…。
そう思って教室に行く途中。調理室から甘い匂いがして、立ち止まる。
…甘い匂いも苦手だ。
っていうか。
少し焦げ臭い?
これ、やばいんじゃ…。
気になって調理室を開く。
「あ、エル」
「丁度良かったわ。サブレが焼けたところなの」
そういえば、セリーヌたちはお菓子係って言ってたっけ。
「ね、食べて行って」
「嫌だよ」
なんで食べなくちゃいけないんだ。
っていうか、この匂い、だめ。
調理室の扉を閉めて、教室を目指すと、勢いよく後ろで扉が開く。
「待ちなさい。味見ぐらいして行きなさいよ」
「嫌だよ。食べたくない」
「失礼ね。みんな、エルを捕まえて」
嫌な予感がする。
教室を目指して走り出すと、案の定、追いかけられる。
なんで?
「待ちなさい!」
俺、何も悪いことしてないのに。
走って、教室に入る。
「あれ?エル」
「エミール?…なんで、裁縫なんかやってるんだ?」
「女子連中に押し付けられたんだよ」
教室の扉が開く。
「見つけた」
「しつこいな」
「食べてよ」
「嫌だって言ってるだろ」
教室の後ろの扉から廊下に出る。
どこに逃げよう。
あ。確か、カミーユたちが会議室で剣舞の練習やってるって言ってたな。
どこの会議室だっけ?
…あれかな。なんか騒がしいし。
扉を開く。
居た。
「カミーユ、助けて」
「エル?」
走ってカミーユの後ろに回る。
すぐに、俺を追いかけていたセリーヌたちが入ってくる。
「どうしたんだよ」
「丁度良かったわ。みんなも食べてみて」
「お菓子作ったのよ」
「…エルは甘いものは食わないぜ」
「だからって、手作りのお菓子を見るなり嫌そうな顔するの、失礼じゃない」
だって甘い匂いがしたから。
「美味そうだな」
「でしょー?」
「食べて食べてー」
カミーユが一つ取って食べる。
「美味しい?」
「香ばしくて良いんじゃないか」
剣舞の練習中の皆も、サブレを食べる。
「うわ。まっず」
「そうか?美味いぜ」
「苦い…」
「こんなもんじゃねー?」
つまり、不味いんだな。
「どうしてうちの男子ってこんなに失礼な奴ばっかりなの」
「お前ら、衣装制作はどうした」
「エミールたちに任せて、お菓子作りをしてたのよ」
任せた?押し付けられたって聞いたけど。
「あいつらは舞台道具を作ってるはずだろ」
「やってくれるって言ったからいいのよ」
「こっちもちゃんとしたの作らなきゃいけないものねー」
少なくとも、美味しそうに見えない。
焦げてるから。
「もう少し焼き時間を調整した方が良いわね」
焼き時間の問題だけか?
味だって駄目なんだろ?
「ショコラ入れてごまかせば良いんじゃないか」
味も美味しくなるし、焦げも隠せる良い方法だと思うけど。
「ショコラのサブレか。美味しそうね」
「っていうか、食べなさいよ」
「甘いのは嫌いだって言ってるだろ」
しつこいな。
「アシューは苦いって言ってたわよ」
「不味いものは、もっと食べたくない」
「はっきり言うわね…」
「あー、みんな居たぁ」
「ユリア」
ユリアが入ってくる。
「どうしたの?ピアノの練習してたんじゃなかったの」
ピアノの練習?
音楽室には居なかったから、ピアノ練習室に居たのかな。
「ふふふ。エルに用事があるのぉ」
「だってよ、エル」
俺もユリアには用事がある。
「これ、弾いて欲しいのぉ」
ユリアから楽譜を受け取る。
「これが愛の喜びと悲しみか」
リーベスフロイデとリーベスライド。
「いいよ。やろう」
アレクに演奏聞かせてもらったし。
「うん。じゃあ、一緒に練習しようよぉ。あ、これ一個もらうねぇ」
ユリアがセリーヌたちが焼いたサブレを食べる。
「んー。美味しい」
美味しい?
「今度はマドレーヌが食べたいなぁ」
「マドレーヌも良いわね」
「試してみよっか」
しばらく調理室は避けて通ろう。
そう思っていると、急に口に何か突っ込まれる。
「んぐ」
なんだ、これ。
これ、サブレ?今まで食べたことない。
「…砂糖が焦げた味」
言った瞬間、誰かに殴られた。
「いってぇ」
セリーヌか。
なんでそんなに俺に攻撃的なんだよ。
※
ユリアと一緒に練習してたら日が暮れる。
「エルはバイオリン、上手だねぇ」
「アレクに教えてもらったから」
「ふふふ。たまぁに、素直じゃないねぇ」
「素直じゃない?」
「謙遜しなくても良いのにねぇ」
「謙遜?…してないよ。ユリアの方がピアノのレパートリーも多いし、音楽に詳しいじゃないか。楽譜を見て弾くなら誰にでもできる。俺の演奏が上手いと思うなら、アレクが上手いからだ。俺はアレクの真似をしてるだけだよ」
「そういうのを謙遜って言うんだけどねぇ」
「謙遜って、もっと偉そうな奴がやるんだろ?」
ユリアは笑う。
そうだ。あれ、聞いてみよう。
「ユリア。手に入った瞬間要らなくなるものって?」
「えぇ?…すっごく食べたかったお菓子かなぁ」
「菓子?」
「ほら、食べちゃったら満足しちゃうからぁ」
満足するから要らなくなるのか。
好きな人って手に入っただけで満足するのか?




