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史上最凶の親子丼

 乗りこむは、甲府駅発新宿行きの高速バス。山梨県民にはなじみ深い乗り物だ。これまで、一体何回こいつに乗ってきただろうか。


 30分~1時間おきに走っていて便利だが、曜日と時間帯によって混み方にだいぶ幅がある。

 平日の昼あたりだと、乗車率半分以下なんてことはザラでなかなか快適。空席状況なんかまったく気にする必要もないし、発車直前にバスターミナルのカウンターで切符を買ってそのまま車内へ……という気楽な使い方ができる。そんなときは、車内で旅行用の大きなザックを隣の席に置いておいても、降りるまでだれも来ない。

 これが連休の午前あたりになると、快適どころか、一気に満席にまでなっちゃったりするから焦る。いつでも空いているか、逆にいつも混んでいるというなら心積もりのしようもあるもんだが……。


 さあ、今日は祝日。どうだろう。バスターミナルの建物に入ってディスプレイに目をやると、「△:残席僅少」の表示。やっぱり、休日になると混むんだな。でもまあ、乗れさえすればいいや。

 カウンターで、予約していないことを告げて切符を買う。受け取った切符の席番を見ると……一番前の窓側だ。

 窓側、空いてるんだ……。

「残席僅少」っていうから、当然通路側なもんだと思っていたが、窓側。ちょっと気をよくして、バスに乗りこんでその席に座る。


 高速バスに乗るとき、荷物は持ち込んだほうが何かと便利なので、できる限りそうしたい。さすがに今日みたいに混んでいるときは、大きな荷物は床下のトランクルームに入れさせてもらうのが普通だろうが、一番前の席は他より足元が広いこともあって、持ち込んじゃうことにした。親子丼も食べることだし。


 ひとまず、縦長の登山用ザックを股の間にはさんで置いて、発車を待つ。

 その間、切符を持った面々が、1人また1人と、ドアの前で座席表を持つドライバーのところにやってきて、切符のチェックを受けてから車内に入って、自分の席に座っていく。一番前に座っていると後ろのことはよく分からないが、席がだいぶ埋まっている気配がする。

 バスに近づいてくる人がいなくなると、ちょうど発車時間になって、ドライバーが運転席に座って、ドアが閉まったバスは甲府駅を後にした。


 隣の席は……空いている。こりゃ運が向いてきたか?

 ちょっと気が引けるが、ザックを股の間からその席に移した。隣の人が途中のバス停で乗ってきたら、また股の間に戻せばいいし。

 このバスは、途中から乗れるバス停が、始発と終点のだいたい真ん中まで10個くらいあるが、実際に乗ってくるのはいつも2~3か所といったところだ。


 最初の2か所はたいてい乗ってこないが……今日も乗ってこない。3か所目は何人か乗ってくることもあるが……乗ってこない。

 少し離れて4か所目。途中のバス停の中で利用者が一番多いところだ。さあどうか……窓からバス停を見ると、年配風の男性が1人待っている。

 バスが止まってドアが開き、乗りこんで運転手との予約の確認を済ませたその年配風は、私の席のところで立ち止まると、無言で自分の鼻と席を指差す。私も無言で会釈をして、事前のシミュレーションどおり、ザックを抱えて足の上へ……ま、こんなもんだよね。


 足元に荷物があると窮屈は窮屈だが、一番前の列ならスペースにうまくザックが収まるし、2時間乗っているだけならそんなに悪くない。乗っているだけなら……。

 でも今日は違う。なにせ、ここで件の親子丼を食べるというミッションをこなさなきゃいけないのだ!


 朝飯が早かった今日のこと、バスが着く前に腹が減るだろうし、降りるバス停のあたりに手頃な弁当スポットもない。着く前に食べ終わるくらいのタイミングで、ここで済ませるほかはない。

 せっかくの旅立ちだが、そんなことに心を奪われながら、バスはいつしか高速道路に乗って、山梨の山あいを東へ東へ進んでいく。


 そのうち、山あいの景色は大して変わらないが、山梨から一旦神奈川のはじっこをカスって、小仏トンネルを抜けると、いよいよ東京都へ。時間も手ごろだ。さあ、意を決して、親子丼ミッションの開始。


 まずザックのカバーを開けて、親子丼やら飲み物やら、必要なものを取り出すのだが、なんか手つきがおぼつかない。

 そもそもこのバスは距離もたいして長くないので、車内で弁当を食べる人自体がほとんどいないうえに、まだ11時台とくれば、食事している人は皆無。しかも、すぐ隣にも客がいる。ここまで気が引ける状況で弁当を食べたことはない。体に変な力が入っているようだ。

 でも、食べると決めた以上、食べる。


 よりによってこのバスにはテーブルがないので、ザックの上をテーブル代わりにして食べるほかはない。ひるむ心を奮い立たせながら、慎重に親子丼を取り出して、ザックの上へ。取り出したら、次はいよいよ開封作業。緊張感が高まる。


 コンビニの弁当とかいった類のものは、どういうわけか汁が漏れやすい。目の前にあるこの親子丼も、たいして持ち運んでないし、傾けた覚えもないのに、フタのふちにだし汁をいっぱいたたえていて、開けた瞬間こぼれてやろうと、手ぐすね引いて待ち構えている。

 全神経を集中して、そろりそろりとフタを外す……ここはクリア。次に、頼んでもいないのに卵の上に乗せてある、謎のフィルムを撤去しなきゃいけない。割り箸を取り出し、そいつをつかんでそーっとフタの上へ……ここもクリア。


 ふう。これでやっと親子丼にありつける。じゃ、いただきまーす……と箸をつけようとした、その時!

 こともあろうか、だし汁をいっぱいたたえたフタが、無情にもザックの上からすべり落ち、その汁をザックに付けながら、ザックをどけなきゃ絶対拾えない床の上へ落ちていったのだ。


 大災害発生……悪夢だ……さあどうする……この状況をどう打開する??


 一刻も早くザックを拭きたい。落ちたフタも拾いたい。でも、ザックの中にティッシュが入ってはいるものの、からぶき程度じゃもはやほとんど意味はないし、この状況でティッシュを出すこと自体が恐ろしく煩雑だ。フタを拾うにもザックをどけなきゃいけないが、その間親子丼をどうするんだ?


 ……ムダなあがきはやめよう。大事な親子丼にもしものことがあったら元も子もない。後は野となれ山となれだ。まずは食事を済まそう。

 すべて捨ておいて、目の前の親子丼に全神経を集中して、とにかく食べる。無になって食べる。


 もともと小さなこの親子丼、食べ切るのにさほど時間はかからない。食べ終えちゃえば、だいぶ身軽になる。バスを降りる前に、懸案のひとつ、落ちたフタの回収は無事クリア。


 あとはザックの汚れだ。こいつはそう簡単にいかない。

 バスを降りた後、移動の途中で通りかかった公園で、ティッシュを濡らして拭いてみるが、そんな程度の水分で落ちるような相手じゃないし、ティッシュもすぐボロボロになるしラチが明かない。

 結局、汚れたまま一日を過ごして、この日の夜、宿のタオルで水拭きして、ようやく親子丼の呪いから解放されたのだった。


 思えばこれまで、親子丼ってヤツにはだいぶお世話になってきた。

 コンビニで買ったのはこれが初めてな気がするが、ゲストハウスとかキャンプ場に泊まるとき、朝飯に便利なので、レトルトをよく買って、飯にかけて食べるのだ。そんなスタイルを確立して何年くらいになるだろうか。

 その間、いろいろな朝があって、いろいろな親子丼があったが、こんなにも苦痛な親子丼が果たしてあったろうか?


 こいつは間違いなく、史上最凶の親子丼だ!

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