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おおらかな山陰線

 夜桜を愛でた後、買い物して宿に戻り、望みどおり洗濯をしっかり済ませて、心残りなく一夜を過ごした翌朝。

 宿をチェックアウトして駅へ向かい、汽車に乗りこんで、山陰線をさらに東へ……とは行かず、一旦西行きの汽車に乗って、また山口に戻ろうというのだ。


 なんでそんなことするのかって?

 それは、その、明るい時間帯に、山口県内の青い海を見たいから……。


 昨日、美祢線を使って急いだおかげで、日のあるうちに益田に着けたが、夕方だったせいで、青い山陰の海を眺められなかった。一方で、今日の宿は、島根から鳥取に入ってすぐのところにある、米子よなご。まっすぐ行けば半日ちょっとといったところだ。それじゃ早く着きすぎる。

 それに、今手元にあるのは、青春18切符。1日にどれだけ乗っても、同じところをどれだけ行ったり来たりしても、値段はいっしょだ。


 だったら、朝、まず米子と逆方向に向かう下りの汽車に乗って、上りとすれ違う駅の1つ手前まで行って、こんどはその上りの汽車に乗りかえて益田まで戻ってこよう。そうすれば、今日もまた、かの国鉄型タラコ汽車とともに、麗しの山口の旅を楽しめる……なんて、甚だマニアックかつ未練がましいオプショナルツアーを企てた次第だ。


 ふつうに片道切符を買ってする旅なら、まずやることはないだろう。萩までは戻れるわけではないのだが、片道1時間くらいの道のりか。それだけ楽しめれば上出来だ。

 さあ、今日もまた、山陰線の旅を大いに満喫するとしよう。


 意気揚々と益田駅に着き、青春18きっぷを取り出し、スタンプを押してもらうべく窓口に向かうと……誰もいない。

 あれ、そうだったっけ……。


 時刻は8時前。益田には前にも泊まったことがあって、そのときも同じくらいの時間帯に乗りに来た気がするが、スタンプ押してもらったような……。営業時間が変わったか、今日が日曜日なせいかもしれない。

 益田駅は、山陰線と山口線が通っていて、特急も止まるターミナル駅だが、地方だと、そんな駅でも朝とか夜は無人になることも、あるにはある。それは仕方ない。

 ただ、今日の自分のケースでは、どこでどうスタンプを押してもらえばいいんだろう?


 まず、ここの改札は素通りして、そのまま汽車に乗っちゃうしかない。これは間違いない。その後、次に降りる駅がもし有人駅なら、そこで降りるときに押してもらえばいい。そういうケースは、これまでの旅でいくらでもあった。でも、今日最初に降りる駅は、紛うことなき無人駅だ。

 そうなると、降りるときに汽車の乗務員に押してもらうことになるだろう。これから乗る汽車がワンマン列車じゃなければ、車掌に押してもらえばいいのだが、これまた紛うことなきワンマン列車だ。そうすると、運転手に押してもらうしかないことになる。

 うん、そうなるよな……。


 それがなんか問題でも? 押してもらえばいいだけの話じゃない?

 そう、たしかにその通りなんだけど、ちょっと気になることがある。


 かつて、どこかのローカル線で、無人駅から乗ったときのこと。その列車には車掌がいたので、車掌が回ってきたときにスタンプをもらったのだが、まずフトコロからペンを取り出し、スタンプを押す欄にその日の日付と列車番号を書き込み、それからポケットから自分の名前入りのシャチハタを取り出して押していた。向こうにとっては仕事だろうが、駅だったらスタンプ1つポン!で済むところ、見るからに煩雑で、頼んだこっちが恐縮するほどだったのを覚えている。


 それを、降りるときに運転手に頼むとなると、どうなるだろうか?


 ワンマン列車に乗ったことがある人はよくご存じだろうが、駅に汽車を止めた運転手は、まずドアを開け、それから立って客のほうを振りかえって、切符やら定期券やら運賃箱やらを1人1人確認して降ろしていく。そこへスタンプのない18きっぷを持っていくと、そこから前述のルーチンが始まることになるだろう。

 しかも車掌じゃないから、ペンとかシャチハタとかカバンにしまってあるかもしれない。えーっと、とか言いながらカバンを開けて、それらを取り出して……ってな光景が目に浮かぶようではないか。恐縮することさらに倍、だ。


 いや、読者諸賢のおっしゃりたいことはよく分かる。向こうは仕事、こっちは客。そんなこといちいち気にすることはないだろう。

 でも、そんなことがいちいち気になってしまう、そういう人間なのだ。ここまでお読みいただいてきた諸賢には、うすうす伝わっているかもしれないが……。


 そんな考えに遊びながら、無人の改札を素通りして、こ線橋を渡ってホームに降りると、今日も元気なタラコ汽車が、エンジンをガラガラ言わせて温めながら、ドアを開けて待っていた。ドアは開いているが、運転手氏はまだいない。

 乗って海側の席に陣取り、さあどうしようか……そうだ、ここは始発駅だ。時間に余裕がある。今はまだ運転手が来ていないが、発車の何分か前には戻ってくるだろう。来たらすぐ申し出て、発車までの間に、煩雑なその作業を済ませてもらえばいいんじゃないか。そうだ、それがベストに違いない。


 そう決めて、ワンマン運転用に見通しよくできている運転席のほうをチラチラ見ながら、その時を待つ。まだ来ない……まだ来ない……来た! 運転手がもろもろ作業を済ませて、席に着いたタイミングを見計らって、18きっぷ片手に歩み寄る。

「あのー、すいません」

「はい」

「これ、今日ここから乗るんですけど、駅員さんいなくてスタンプ押してもらってないんですけど、押してもらえます?」

「あー、降りるときでいいっすよ」そう、こともなげにおっしゃる。

「途中の奈古なごで降りるんですけど、無人駅ですよね?」

「……今日は奈古で終わりなんすか?」

「いえ、その後、途中寄りながら米子まで行きます」

「じゃあ、有人駅で降りるときに押してもらってください」と、またこともなげに。

「はあ、わかりました……」

 席に戻る。


 ほう、意外な展開だな。まさに拍子抜け。あれだけいろいろ、ひとりで勝手に気を回していたのは、大方の予想通り、完全に取り越し苦労だったわけだ。

 有人駅で降りるまで、スタンプなしでいいんだ……。


 つまり、この汽車を降りるとき、18きっぷに今日の日付はナシでOKということか。そいつは初体験だなあ……。まあ、それならそれでいい。なら気兼ねなく、山陰線山口エリアの旅・リターンズを楽しませてもらうことにしよう。

 かような私の脳内劇場とは無関係に、車内の隅々まで平穏ムードに満たされた汽車は、やがてドアが閉まって、朝のローカル線の線路を進みはじめた。


 昨日逆向きに通ったとおり、益田の町を出るとまずは防風林風のところを走り抜けて、しばらくすると海が見えてくる、のだが……。

 天気、悪いなあ。


 そういえば、駅まで歩いた道路は濡れていた。雨こそ降ってはいないが、空には青のかけらもない。

 今日、18きっぷだからって、なんでわざわざ行こうとする方向と逆の汽車に乗っているのか。昨日楽しみ損ねた、山陰山口エリアの青い海を見たかったからだ。でも、海は、青くない。これじゃ昨日といっしょじゃないか。まったくうまくいかないなあ……。


 まあ、しょうがない。旅していればこんなこともある。余分な費用がかかるわけじゃないし、時間も余裕あるし、タラコ汽車に揺られながら海を眺める時間を楽しもう。

 汽車の座席は、昔ながらの4人掛けボックスシート。車内はガラガラ。靴を脱いで向かいの座席に足を乗せ、時折頬杖なんぞつきながら、エンジンの音と振動に身を預けてぼんやり窓外を眺める。これだけで至福のひとときだ。


 そうは言っても、そのうち晴れてこないかな……なんてほのかな期待はあったのだが、いっこうに晴れないまま、汽車は西へと進んでいく。そうして、ときどき海を眺めながら、1時間ばかり過ごしていると、降りる予定の駅に着いた。

 ワンマン列車のルール通り、運転手のところに行って、今日のスタンプを押していない18きっぷを見せる。運転手氏、立って振り向き、「はい、ありがとうございました。」


 誰もいない無人駅のホームに降り立ち、汽車を見送る。タラコ汽車は、テールランプを赤く点々と灯してだんだん小さくなり、見えなくなった。

 手元には、18きっぷ。


 スタンプ押してもらわずに、降りられちゃった。

 山陰線、おおらかだな。


 突然気が変わって、今日の旅をここで終えたとしたら、どうなるだろう……そんなふうに考えないでもない。

 でも、ここは、ときに何時間も汽車が走らないような、言ってみれば僻地のローカル線だ。18きっぷでこんなところまで来るような旅人は、私のような相当なモノ好きくらいかもしれない。このおおらかさに目をつけて、よからぬことをたくらむような輩は、まあいないんだろう。

 だからこそ、この平穏、このおおらかさが保たれているわけだ。これは好ましいことに違いない。


 ごく一部のけしからん輩のせいで、その他大勢が割を食う……。この構図は、はるか太古の昔から続いてきた人の世の常なんだろうけど、近頃とみに気に障る。インターネット上の各サービスのログインなんて、不便になって仕方ない。それを考えると、ここに漂う空気の価値がよく分かる。


 さて、汽車を降りた。

 上りの益田行きが来るまで、まだ10分くらいある。造りのシンプルな無人駅のこと、すぐそこに出口があることだし、ちょっと駅のまわりをそぞろ歩いてみたいところだが、駅の前には、国道。1台また1台と、結構なスピードで走りすぎていく。天気もあいかわらず。

 ……なんか、出歩く気にならないなあ……まあ、駅でのんびりしているか。


 結局、駅から一歩も出ることなく、同じホームに反対からやってきた同じ色の汽車に乗り、同じ景色を眺めながら、益田へと戻っていった。そして、2時間ちょっとぶりに戻った益田駅で、いつの間にか出勤していた駅員によって、手元の18きっぷには無事に今日のスタンプが押されることになった。

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