すぐそこなのにカケラも見えない富士
一夜明けて、旅3日目。これからようやく、本来の目的地である西日本に向けて動きはじめる。
前日は、江ノ電の旅を楽しんだ後、あれやこれやと乗り継いで、静岡県東部の御殿場に宿をとった。結果、今日の旅は御殿場がスタート地点となる。
昨日までの2日間はもったいないくらいのいい天気だったが、今日はちょっと芳しくない。今日は1日移動だけで、桜の名所に寄る予定もないとはいえ、車窓の景色も楽しみたいことだし、天気はいいに越したことはないのだが……。
宿をチェックアウトして外に出ると、真っ白な空から、ギリギリ気のせいでは済まないくらいの霧雨が降っている。ちょっと濡れるけど、傘をさすほどでもないので、濡れながら歩いていくか。
宿から駅のほうへ向かう、この道の先に、霊峰富士がそびえているはずだ。晴れていれば見事だろうなあ。
御殿場からの富士山、見たことあるだろうか?
あれは、デカい。とにかくデカい。
関東や中部地方で富士山が見えるところは数ある中、静岡東部と山梨は、近いだけあってよく見えるところが多い。その中でも御殿場は、山梨側の富士吉田と並んで、富士山に一番近い都市と言っていいだろう。
それだけに特にデカく見える。他と比べると、迫力が一段違う。なんだか、ドーンっていう音が聞こえてくるようだ。……近くに自衛隊の東富士演習場があるので、ときどき、ほんとうにドーンっていう大砲の音が聞こえてくるのだが、そういうことじゃなくて、なんというか、その姿から音が聞こえるような気がする。
それくらい近くに、デカくそびえているのだが、さすがにこの霧雨の中だと、そのひとカケラも見えない。
前方ナナメ上を眺めながら、このあたりに、こんなふうに稜線があって、このへんに、こう頂上があって……と、目で八の字を描いて、太宰治の『富岳百景』に出てくる、三つ峠の茶店のばあさんに倣ってみても、ちびっとも、うっすらとも、とにかく見えないものは見えない。いくら富士山に近い御殿場っていったって、こんな日もあるよね。
霧雨の底を歩いて、霧雨の底にある御殿場駅に到着。みどりの窓口のカウンターで、青春18きっぷを買う。この切符で、これから西日本一周の鉄旅を楽しむのだ。
鉄道旅行者の間では知らぬ者のないほど有名な、この切符。
春・夏・冬の学生の休暇時期に合わせて期間限定で売り出される切符で、鈍行とか快速とか、特別料金のいらない列車に限って5日間乗り放題になる。今は5日連続で使い切るシステムに変わったが、この旅の時点では、期間内の使いたい日に、改札口の駅員に日付入りのスタンプを押してもらう欄が5個あるスタイルだった。
改札口の端にある窓口で、「3月23日 御殿場駅」のスタンプを押してもらって、ホームへと降りる。すると、あいかわらずの霧雨にけぶる中、沼津行きの電車が退屈そうに発車を待っていた。大都市圏ではおなじみの、通勤通学向けな長椅子タイプのヤツだ。景色を眺めながらローカル線の旅を楽しんでやろうと思うとおもしろくないが、まあ、しかたがない。
その長椅子に座ってのんびり過ごしていると、発車の合図があって、ドアが閉まった電車は、しばらく止まっていてなまった体を、一つ大きくゆすってから動きはじめた。
のどかな地方都市といえども、駅の周りには建物が連なっているが、駅を出てしばらく走ると視界が開けてくる。陣取った席は、当然、西側を向いた進行方向左側。
そう、そりゃあ当然だとも。JRで、これだけ間近で富士山を眺めながら行ける電車は他にない。こっち側に座ると、正面の窓越しに、演習場がある大平原を前景にした富士の眺めが、ときに左に行ったり右に行ったりしながら、少しずつ遠くなりつつも、終点の沼津のほうまで楽しめる……はずなのだが……。
せっかく左側に座っても、せっかく視界が開けても、あいかわらずの霧雨模様で、やっぱり見えないものは見えない。なんとなく、雄大な裾野を前にしているフンイキは感じるのだが、どんなに目を見開いても細めても、どうしても、ひとカケラも見せてくれない。どっちにあるのかさえ分からない。
だって、近いんだよ?
ほんとにすぐそこなんだよ?
ほらさ、よく見るとほんのうっすらシルエットが見えるとかさ、ふとした拍子に一か所雲が薄くなって、昔のクイズ番組のヒント画像みたいに、そこだけ黒く見えるとかさ、そのくらいあってもいいじゃん。ここまで見せなくする必要あるか? なんか富士山の恨みを買うようなことしたっけ? べつに富士山見にきたわけじゃないけどさあ……。
あいかわらず車窓の風景は、郊外らしい開けた田園風景と、その向こうに広がる裾野の大平原のフンイキを思わせぶりに感じさせるばかり……「大平原のフンイキ」っていうのも、結局は心が作りだした幻想に過ぎない気がしてきた……。
御殿場から沼津まで、30分ちょっとの御殿場線の旅。ついに、富士のそのお姿を拝見することはなかった。
沼津に着いたら、東海道線に乗りかえる。ここから名古屋まで、延々240キロの東海道線の旅が続くわけだ。こっちは御殿場線と違って、静岡を貫く一大幹線。そこそこ混んでいる。でも、進行方向左側の空きを見つけてゲット。なぜって、そりゃ向かい側には富士山が……。
べつに、ニワトリみたいについさっきまで乗っていた御殿場線のことを忘れたわけじゃない。ここの電車に乗るときには、こっち側に座るという習性が身についているのだ。うん、これは習性だから仕方がない。
とはいえ、晴れた日に東海道線の沼津~富士間に乗ったことがある人はご存じかと思うが、沼津からちょっとの間、車窓に富士は見えない。どんなにピーカンでも見えない。なぜかというと、手前に愛鷹山があるからだ。
この愛鷹山、高さは富士山の半分もないのだが、かなり手前にそびえているので、富士山を隠してしまうわけだ。ただ、今日はその愛鷹山すら見えないわけで、そりゃあ富士山見えるわけないよな。
山が見えようが見えなかろうが、電車はお構いなしに西へと走り、やがて富士市内へ。そろそろ愛鷹山の左肩から富士山がご登場になる頃だが、今日はどうやら、富士様は1日お休みなご様子だ。
富士駅を出てしばらくすると、電車は富士川を渡る。ここからの富士がまたいい眺めだ。川幅が広いうえに河川敷も広大で遮るものがなく、愛鷹山も完全にどいて裾野まできれいに見渡せる。新幹線の橋もそうだが、富士をバックに鉄橋を渡る電車を撮る、撮り鉄ご用達のフォトスポットだ。
だが今日は……いや、もういい。川の眺めを楽しもう。なまじ富士山なんぞ見えちゃうと、川の眺めと両方楽しまなきゃいけないから忙しくてさ……。




