「日本の宝」は今日も行く
山から下りて街中を歩いていくと、だんだん賑やかになってきて、鎌倉駅に着く。その名の通り、観光都市鎌倉の玄関口だ。この駅には、2つの電車が通っている。1つはJR横須賀線、もう1つは江ノ電。
横須賀線は、東京から横浜を通って横須賀のほうまで伸びている、三浦半島エリアの幹線のひとつだ。本数もそこそこあって、電車も長い。鎌倉へのメインのアクセス手段といったら、やっぱり横須賀線だろう。どこへ移動するにしても、横須賀線がダントツで便利だ。
でも、そこをあえて、江ノ電で行こうというのだ。
江ノ電、ご存じの方も多いんじゃないだろうか。
鎌倉と藤沢を結んで走っているローカル私鉄だ。このあたりに来たことがない人でも、某有名バスケ漫画をはじめ、漫画とかテレビで見て知っているっていう人も多いと思う。あの、レトロでかわいらしい4両の電車が、のんびりトコトコ走るやつだ。
鎌倉から藤沢まで、全部で10キロ。横須賀線なら同じくらいの距離を10分ちょっとで走り抜けるところ、実に30分以上かけて走る。本数も1時間に4~5本で横須賀線より少ないし、電車も短いし、ノロい。しかもJRより高くつく。
そんな合理性のカケラもないような電車を、なんでわざわざ選ぶのかというと、この電車、旅人を楽しませてくれる魅力に満ちているのだ。
鎌倉の建て込んだ町中あり、有名観光スポットが集まる街あり、レトロなトンネルあり、小ぢんまりした谷あいあり、さらにその先にはオーシャンビューやら路面電車区間やら……。
たった10キロの沿線に、よくもこれだけと思うほどの、魅力的な車窓風景が目白押し。これはもう、毎年鎌倉に来たら、どうしても乗らずにはいられない。この先、西日本を一周してさんざん鉄道旅行を楽しむ予定なのだが、ここで早速、一発楽しんでやろうという魂胆だ。
改札口を入って右に曲がると、まず、お土産とか江ノ電グッズを売っている売店があって、その先に、ローカル線のターミナル駅らしく、行き止まりの線路と、それを挟む2本のホームが伸びている。平日の昼間だが、さすが観光地鎌倉、さすが桜シーズン、結構な数の人が並んで待っていた。
すぐ隣の横須賀線ホームからは、近代的な自動アナウンスの声とか、電車が入ってくる音がときどき聞こえてくるのだが、こっちには、そのいずれもない。春の昼下がりらしい空気が流れている。
しばらく待っていると、ようやく放送が入って、ホームの端からレトロな電車がヌッと顔を出して入ってきた。この電車、4両つながっているのだが、1両がたいそう短く、ドアが片面2つしかない。4両といっても、ふつうの電車なら3両分もないんじゃなかろうか。
始発駅だから、一旦電車が空になってから、待っていた面々が乗りこんでいくのだが、見事満員御礼。立ち乗り決定。背中のザックを床に立てて、吊革につかまる。やがてドアが閉まると、レトロな音をたてて動き出した。
電車はひとつ踏切を過ぎると、家並みの中を走っていく。線路と家とのクリアランスがやたらと少なくて、ちょっと揺れると軒先にこすっちゃうんじゃないかという勢いだ。
古都鎌倉とかいったって、線路沿いにお寺が並んでいたり古い町並みが見られたりするわけでもないが、わざわざ裏道を縫って走っているみたいな風情は、ふつうの電車じゃなかなか味わえない。
5分くらい走ると、長谷駅に到着。八幡宮と並ぶ鎌倉最大の観光地、大仏と長谷寺の最寄り駅だ。立っていた人も座っていた人も、次々にゾロゾロ降りていく。鎌倉駅エリアと長谷との移動のために乗っていた人が多かったらしい。ここでようやく席ゲット。
ただ、ザックを網棚に載せようとしたら、こともあろうか天井とのスペースが狭くて載せられなかった。電車がちっちゃいとこんなこともあるのか。仕方なく、引き続き床の上へ。
長谷駅を出ると、山が近づいてきて、車内だけでなく車窓にも余裕が出てきた。そのうちちょっと上り坂になってきて、江ノ電でただ一つのトンネルに突入。朝夷奈とか化粧坂と並ぶ鎌倉七口のひとつ、極楽寺坂の切通しにあたるトンネルだ。なんでも明治時代からずっと使われ続けているらしい。
古いトンネルはたいていレンガでできているもんだが、ここももちろんレンガ。コンクリのトンネルとは、電車の音の響きが全然違う。なんだか、音がトンネルの壁に吸われず全部跳ね返ってくる感じで、硬くて、近くて、素朴。これまた、よそではちょっとやそっとじゃ味わえない。
トンネルを抜けると極楽寺駅。せせらぎの音がする。江ノ電唯一の「山あいの駅」だ。そうは言っても海から1キロくらいしか離れていないのだが、でもここに来てみれば、誰もが「山あい」を感じるんじゃないだろうか。山と海が手をつないで町を囲んでいる鎌倉ならでは。
ここから次の稲村ヶ崎まで、ちょっとした谷あいをゆるやかに下っていく。江ノ電沿線の中で、ここは特に見どころがあるわけでもないのだが、個人的には、なんか好きだ。江ノ電が谷あいを走るところ自体ここしかなくて、ひっそりした趣を感じるし、木が盛り上がる低い山に、ところどころ小さな谷戸(鎌倉では「やつ」と呼ぶ)が家並みといっしょに切れ込んでいく風景は、いかにも鎌倉らしい。
そんな谷あいの小旅行が終わって、稲村ヶ崎駅を過ぎると、車窓はあいかわらず家並みだが、空が広くなって、ソレが近づいてきた気配を感じる。やがて、線路がひと曲がりして最後の家並みをかわすと、ソレが一気に目の前に広がった。
江ノ電のクライマックス、湘南の海のパノラマ登場だ。
このために、長谷で山側の席に陣取っていたのだが、海側の席の面々は、みんな一斉に体をねじって外を見る。ところどころ歓声が上がったりする。春の陽がさざ波とじゃれあってキラキラ輝く中、サーファーがあちこちに浮かんでいる様は、いかにも湘南の海。
この海は、「相模湾」とはいうものの、それほど内海というわけでもなく、言ってみれば太平洋だ。近くに視界を遮る陸もなく、平らに広がる大洋のパノラマを存分に見渡せる。線路と海との間には、片側一車線の国道134号だけ。視界の下のほうを横切っていく車が若干うっとうしいが、街並みもトンネルも海も、とにかく線路沿いのモロモロがやたら近いのが、すべてが小さくできているローカル私鉄の醍醐味だ。
途中、一旦ちょっと海から離れるところを除いて、駅2つを挟んでサービス満点のオーシャンビューが続く。
そんな中、右のほうに目をやると、豊かな深緑の上にしゃれた形の灯台が乗った陸が、臆病な亀の首みたいに、電車の向きが変わるのに合わせて、車窓の右端から出てきたり隠れたりしている。湘南のシンボル、江ノ島のお出ましだ。江ノ電のクライマックスたるオーシャンビュー区間の、さらにクライマックスといったところか。大洋を広々と見渡せるだけでも十分ありがたい絶景なのだが、そこに島が加わると、これまたとっても絵になる。
その時、何年か前にここを通りかかったときのことを思い出した。
あれはたしか、日暮れの早い紅葉の時期のこと。鎌倉駅の時点でおおかた日も暮れて、乗っているうちに真っ暗になっていた。
稲村ヶ崎を過ぎて家並みが途切れると、車窓に真っ黒な世界が広がった。車のライトが行き交うほかは、右も左も、手前から向こうまで、とにかくひたすら黒。波やサーファーどころか、海自体も含めて、なんにも見えない。
それじゃおもしろくもなんともない、やっぱり江ノ電は昼間に乗らなきゃダメだな……と、思うだろうか。でも、考えてみたら、見渡す限りひとつも光が見えない、どこもかしこも真っ黒な眺めなんて、相当な山の中とか、北海道の原野でも行かなきゃ味わえないだろう。それを大都市横浜の近郊で味わえるとくれば、この黒もまた、江ノ電ならではの価値に違いない。
そんな「広々とした黒」を楽しみながら進むうち、右のほうに、海面とおぼしきあたりの灯のラインと、その上に立つキャンドルが見えてきた。黒の中に、光が浮いている。江ノ島の灯台は、上に向かって広がっていくその形から「シーキャンドル」なんていう名前がついているが、夜に眺めると、ほんとうにキャンドルが立っているのだ。
それを見たとき、思った。
――江ノ電は、日本の宝だ!
日本全国、隅から隅まで、とんでもない数の鉄道が走っている。でも、江ノ電ほど人を笑顔にする、人を幸せな気持ちにする鉄道は、全国探してもそうそうない。
昼間乗れば、穏やかなオーシャンビューに島の眺め。夜は夜で、見渡す限りの黒に浮かぶ光の島。みんな一斉に外を見て、ある人は笑顔で喜び、ある人は指をさし、ある人は真顔で眺めていても、頬は緩み、眼差しは穏やか。きっと江ノ電は、魔法使いなんだろう。
やっぱり江ノ電は、日本の宝だ!
そんなシアワセなひとときは、車輪が線路とこすれる音を合図に、ローカル私鉄らしい急カーブにさしかかると、ついに終わりを告げて、また家並みの眺めに戻った。でも、これで終わらないのが、魅惑の江ノ電ワールド。
次の腰越駅を出ると、何を思ったか、突然道路の真ん中を走りはじめる。江ノ電唯一の路面電車区間スタートだ。これまでと違って、床下からゴロゴロゴロ……と、いかにも硬いところを走っています、という音がしはじめた。
この通りは、単線の線路の両側に車道が1車線ずつで、歩道もなく、それほど広い通りじゃないが、ちょっとした商店街らしく、お店と民家が混ざって並んでいる。交通量もそれほど多くないが、ときどき車が走っていたり、止まって電車を待っていたりする。ときどき人も歩いている。それらすべてを、電車ならではのちょっと高い視点から見下ろす眺めが、非日常感があっておもしろい。
そのうち、にわかに道が広くなると、交差点に突入。クジラが身をひるがえすように、交差点の中を緩やかにカーブしつつ過ぎて、その片端に吸い込まれると、江ノ島駅に到着だ。




