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第31話 俺

「お前は…………エリー……なのか?」

 

 その名を呼んだ瞬間、時間の流れが止まったかのように感じた。

 

 

 俺の声は、自分でも驚くほど震え、かすれていた。

 

 

 銀色の髪、深く冷たい青い瞳。なのに、今のエリーとは違う、大人びた姿。

 

 

 どれほど大人びて、その身に魔族の翼を宿していようと、魂が「彼女だ」と叫んでいた。

 

「…………」

 

 イルレ――いや、エリーは、ゆっくりと目を開けた。

 彼女の視線が、俺を、そして震えるヒヨリとミナを順番になぞった。

 ヒヨリが震える声で聞いた

 

「エリー……どうして……」

 

 ヒヨリの震えた声が、漏れ出す。

 だが、その期待を、エリーは冷酷な一言で切り捨てた。

 

「……エリーという名前は……捨てたわ」

 

 その声には、かつての慈しみなど欠片も残っていなかった。

 

「私は魔王軍幹部、イルレ。……あんな脆弱で、愚かな人間の娘だった頃の記憶など……とうの昔に焼き捨てた。今の私にあるのは、あの方への忠誠と、この穢れた世界を塗り替える意志だけよ」

「嘘だろ……。そんなはず……」

 

 俺が一歩踏み出すと、エリーは力なく笑った。

 その青い瞳から、一筋の黒い血が伝い落ちる。

 

 

 サラの放った《獄炎剣(プロミネンス・ソード)》は、彼女の命をすでに焼き尽くしていたのだ。

 

 

「カイト……様。あなたは……相変わらずね。……そんな甘い顔で、よくここまで……」

 

 

 全身から、魔力が霧散するように溢れ出し、銀色の髪がバラバラと抜け落ちていく。

 

 彼女の視線が虚空を彷徨っていた。

 

 その瞳の奥に、一瞬だけ、かつての優しい「エリー」の光が宿ったように見えたのは、俺の願望が生み出した幻影だったのだろうか。

 

 

 

 わけがわからなかった。

 

 あの俺たちの知っているエリーは、今はアクアリアに居るはずだった。

 サラの「私が守る」という言葉通り、俺は生き残った。

 だが、その代償として失ったものの大きさに、俺の心は激しい虚脱感に飲み込まれていった。

 

 

 

 

 ……だが、突然

 

 ()()()()()()|()()()()()()()()()()

 

 

 

 

 

「……な、に……?」

 

 俺の隣で、サラが掠れた声を漏らす。

 

 彼女の視線の先にあったのは、イルレの頭部――ではない。

 

 横たわるイルレの頭の下の遺体。

 その身体を包む漆黒のマントの内側から、場違いな布地が覗いていた。

 

 

 


 それは、あの白いパーカー。

 

 あの時、エリーに渡した、俺のパーカーだった。

 

 そして

 

 そのフードの奥が――どろりと、漆黒に染まっていく。

 

 

 

 

 

 シュアァァ……

 

 

 

 

 

 空間が、腐食していく音がした。



 「……んん、んんん、ん、んんんー……」



 そして──フードの闇から聞こえてきた鼻歌。


 それは()()()()()()()()だった。




「────Every day I listen to my heart……ひとりじゃない……」



 

 パーカーのフードから溢れ出したのは、この世のものとは思えないほど濃密な魔力。

 

 いや――

 

 それはもはや「魔力」という脆弱な概念ですらない。

 

 存在そのものが世界に対する不敬であり、物理的な「絶望」が形を成したかとしての、悍ましい圧。

 そのフードの暗がりに、今、底知れぬ真実の奈落が口を開いた。

 

 ズルリ、ズルリ、と。

 

 数インチの隙間という物理的制約を嘲笑うかのように、無限の泥濘が、形なき殺意が吐き出される。

 蠢き、膨張し、因果を塗りつぶしながら立ち上がる「それ」。

 この世のあらゆる光を貪り喰らう、絶対零度の闇。

 そこから這い上がり、無慈悲な人の形を模していくのは、この宇宙の終焉そのものを織り上げたかのような漆黒の法衣。




「────深い胸の奥で、つながっている……」

 

 

 顔には、一切の感情を排した、無機質な銀の仮面。

 



 

「ああ!……来たぁ……!」

 

 顔だけのエリーはかすれた声で、恍惚の表情を浮かべた。

 

「……っ、あ……」



 

 ヒヨリが短く悲鳴を上げ、その場に崩れ落ちる。

 

 ミナもまた、金縛りにあったように動けない。

 

 先ほどまで「駆力炉」を全開にしていたはずのサラですら、足の震えを、止められずにいた。

 

 

 

 

 ただ、それが「いる」だけで。

 

 世界の理が、壊れていく。

 

「…………」

 

 その仮面の男は、一言も発さず、歩みを進める。

 その足取りに、殺意はない。

 あるのはただ、絶対的捕食者の静謐。

 餌の鮮度を確かめるような、無慈悲なまでの落ち着き。

 

 

 

 

 

 男は、動けないサラ、ヒヨリ、ミナのすぐ傍に立った。

 

 膝をついたまま震えるヒヨリを見下ろし。

 

 眼鏡の奥で、絶望に瞳を凝らすミナを見つめ。

 

 

 

 そして――

 ゆっくりと、手を伸ばした。

 

 標的は、サラ。

 



「や……め……」

 

 サラの喉が、辛うじてその音を絞り出す。

 

 だが。

 

 男の指先は、彼女の火照った頬に、無造作に触れた。

 

 まるで――愛おしい玩具を愛でるように。

 

 あるいは、壊れる運命にある器を、憐れむかのように。

 

 

 

 

「……触れるな」

 

 俺は絞り出すように、口にした。

 

 その男の冷たい仮面の奥から、底知れぬ「情愛」と「狂気」が混ざり合った視線が、サラを射抜く。

 




「サラに……触れるなと言っているんだぁぁぁっ!!」




 

 絶叫と共に、俺は地を蹴った。

 

 身体はボロボロ。

 魔力も、底を尽きかけている。

 

 それでも。

 

 仲間の――サラの肌に、その穢れた指が触れる光景が、俺の魂の奥底、理性の枷を爆砕させた。

 

「……おおおおおぉぉぉぉぉぉっ!!」

 

 もはや魔力ではない。命そのものを燃焼させ、身体の限界を無視して無理やり引きずり出した一撃。

 

「《零式・世界切断(ゼロ・クロニクル)》!!」

 

 それは、この世界のいかなる法にも属さない、ただ一つの「真実」を斬るための最強の剣技。

 そして『無属性』の魔法を纏わせている。

 光すら置き去りにする超神速の閃光が、仮面の男の心臓を――因果ごと断ち切らんと奔る。

 

 だが――

 

 

「…………」

 

 

 男は、サラの頬に手を置いたまま、わずかに首を傾けた。

 

 ただ、それだけ。

 

 俺の剣技は、男の周囲にある「空間そのもの」に吸い込まれ、歪み、霧散した。

 

 

 

「な……っ!?」

 

 

 

 男が、サラから手を離し、ゆっくりとカイトへ向き直る。

 

 その瞬間。

 

 

 

 

 ドォォォォォン!!

 


 

 

 魔法ではない。

 

 ただの「視線」の圧力だけで。

 

 俺の全身の骨が悲鳴を上げ、床に吸い寄せられた。

 細い木の枝が、地面に叩きつけられたみたいに。


 

「……カ、イト……!」

 

 

 サラが叫ぶ。

 

 だが彼女もまた、目に見えない巨大な杭で地面に縫い付けられたかのように、指一本、動かせない。

 

 

 

 圧倒的。

 この世界に存在する、いかなる強者とも――次元が違う。

 神の如き暴力が、そこに、立っていた。

 

 

 

 

 頭部だけになったエリーは、細く、しかし、慈愛に満ちた声で言った。

 

 

 

 

 

 

 

 

「……ようこそおいでなさいました…………魔王様……」

 

 

 

 

 

 

 

 そして……

 

 パチン、と。

 乾いた、あまりに軽い音が広間に響いた。

 

 仮面の男が指を鳴らした瞬間、世界の色彩が反転する。

 

 

 

「――っ!?」

 

 

 

 重力、音、空気の感触。

 

 そのすべてが、一瞬にして俺の認識から剥がれ落ちた。

 

 足元にあったはずの石畳は消失し、無限の奈落を転落していくような感覚。

 隣にいたサラの声も、ヒヨリの泣き顔も、ミナの絶望も、すべてが千切れた写真のように遠ざかっていく。

 

 視界を埋め尽くしたのは、粘つくような漆黒と、時折奔る不気味な紫電。

 

 どれほどの時間、虚空を彷徨ったのか。

 

「…………ここ、は……」

 

 ようやく足の裏に確かな感触が戻り、俺はよろめきながら立ち上がった。

 

 そこは、ダンジョンの最下層ですらなく――いや、もはやこの世界のどこでもなかった。

 

 空はない。

 ただ、割れた鏡のような空間の裂け目から、歪んだ星々の残骸が覗いている。地面は黒い泥のように波打ち、周囲には朽ち果てた巨大な歯車や、正体不明の石柱が浮遊していた。

 

 理が崩壊した、因果のゴミ捨て場。

 

 俺のすぐ足元には、切り落とされたイルレの頭部が、血の代わりに闇を零しながら転がっていた。

 



「サラ! ヒヨリ! ミナ!」


 

 叫ぶが、返事はない。

 

 この歪んだ空間には、俺と、物言わぬエリーの頭部。

 

 そして――

 

 

 

 

 

「……無駄だ。ここは、女神の監視も、世界の理も届かない、魔王である俺の領域だ」

 

 不意に、背後から声がかけられた。

 

 その響きに、俺の思考が一瞬で凍りつく。

 音、高低、そして耳から脳へ伝わる微かな「震え」の癖。

 あまりにも聞き馴染みがありすぎる声。

 心臓が警鐘を鳴らすように、ドクンと激しく脈打った。

 全身を、逃れようのない寒気と、嫌な汗が伝い落ちていく。

 


 

「お前……誰だ?」

 

 

 

 震える声を絞り出し、俺はゆっくりと振り返る。

 

 そこに立っていたのは、先ほどと同じ仮面の男。

 

 男は感情の読み取れない仮面越しに、じっとこちらを見据えていた。

 

 

「誰か、だと?……滑稽だな。お前が一番よく知っているはずだろう。その声の主を。その魂の形を」

 

「…………っ!」

 

「信じがたいのも無理はない……俺の正体は……」


 

 男は、ゆっくりと、儀式めいた動作でその銀の仮面に手をかけた。

 

 金属が擦れる冷たい音が、静まり返った虚空に響く。


 仮面が外され、その素顔が露わになる。


 仮面は、その人物の()()()()()()の上に落ちた。








「正確には、お前が辿り着くはずだった『最悪の未来』の一つ。九十九回、絶望を繰り返した果ての――『カイト』だ」

 

 そこにいたのは、俺だった。



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