第29話 ダンジョンのラスボス
重く湿った空気が、肺の奥まで侵食してくるようだった。 カイトの隣を歩きながら、私は何度も左手の感触を確かめる。
握っているのは、あの女の子から譲り受けた「サラマンダーの重剣」。 自分の体の一部のように馴染んでいた愛剣とは違う、無機質で、ただひたすらに重い鉄の塊。
「……次はここね。二人と合流できればいいけど」
目の前には、周囲の岩壁とは明らかに質の違う、装飾の施された重厚な大扉がそびえ立っていた。
カイトが頷き、二人で扉に手をかける。
凄まじい重量。だが、私たちの焦りを見透かすように、扉は低い地鳴りを立ててゆっくりと開いた。
中に入った瞬間、背後で凄まじい衝撃音が響いた。
「っ、閉まった……!?」
振り返る余裕さえ、与えられなかった。
広大な空間そのものが、一瞬にして凍りつくような、あるいは底なしの沼に沈められるような濃密な魔圧に支配される。
「……ふふ、ようやく来たのね。待ちわびたわよ、子鼠さんたち」
不気味という言葉では足りない。
魂の奥底を直接爪でなぞられるような、甘く、それでいて絶対的な階位の差を突きつける声。
広間の最奥、天を突くような高さに鎮座する、魔獣の骨を繋ぎ合わせた禍々しい玉座。そこに、その女はいた。
銀色の長い髪が、光を拒絶する闇の中で、冷酷な月光のようにゆらめいている。
顔を覆う白の仮面。
背中からは、漆黒の夜を切り取ったような巨大なコウモリの翼が突き出し、時折不気味に脈動しては、周囲の魔力を喰らっている。
彼女の体を覆うマントから「完成された捕食者」の風格を漂わせている。
そこに座っているだけで、世界の理を書き換えてしまいそうなほどの圧倒的な「大物」の存在感。
私は本能的に理解してしまった。……目の前にいるのは、今まで戦ってきた相手とは格が違うと。
「お前は……イルレ!」
カイトが叫ぶ。その声は、かつてないほどに微かに震えていた。
かつて彼がその手で葬ったはずの女幹部。
「嘘……あんた、死んだはずじゃ……」
だが、イルレと呼ばれた女は、顎を手に乗せ、退屈そうにこちらの絶望を眺めている。
「ふふ、威勢がいいわね、坊や。……あれはただのクローンよ。私の細胞を少しだけ分けた、劣化版。ガラクタを壊したくらいで、勝ったつもりになっていたのかしら?」
イルレはくすくすと肩を揺らし、獲物を追い詰める蛇のような視線を私たちに向けた。
「そういえば……あなたたちが必死に戦ったケルベロス、カラス、クラーケンは……うふふ……人間って本当に愚かだわ」
彼女がゆっくりと立ち上がると、その背後から巨大な影が、空間の裂け目から染み出すように這い出してきた。
「私は『命』を創り、操るのが得意なの。……さあ、見せてあげるわ。あなたたちが今まで相手にしていたのが、いかに安っぽいコピーだったかをね。これが『本物』よ」
闇の中から現れたのは……かつて私たちが死闘の末に退けたはずの、あの魔獣たち。
だが、その存在感は、記憶にあるものとは似て非なるものだった。
三つの頭を持つ巨犬ケルベロス。
天井を覆い尽くさんばかりの翼を広げる、漆黒の十眼のカラス。
そして、床一面に広がる水路から、のたうつ触手を伸ばす巨大なクラーケン。
「な……っ!? うそ、でしょ……。こいつら、前に戦ったやつらとは……」
私は息を呑んだ。全身の毛穴が総毛立つ。
理解してしまった。あの日、私たちが辛うじて「勝った」と確信した相手は、この女が言った通りただの泥細工……魔力さえ希薄な劣化版のコピーに過ぎなかったのだと。
本物のケルベロスの三つの口から漏れる吐息は、それだけで周囲の空気を腐敗させるほどの魔力を含み、巨大なカラスが羽ばたくたびに、鋭い風圧が頬を切り裂く。そして水路を埋め尽くすクラーケンの触手は、まるでこの空間そのものを握りつぶそうとしているかのようだ。
「……っ! おい、嘘だろ……。あいつら、魔力量が前のやつとは桁違いだ……!」
隣に立つカイトの声が、これまでにないほど激しく動揺している。
彼ほどの魔法使いが、ただ対峙しただけでここまで気圧されるなんて。
「今まで戦った奴らとは、格が違う……」
私の肌を刺す殺気。
コピーとは比較にならない、本物の魔獣たちの咆哮が広間に反響する。
借物の重剣を構える私の手が、わずかに震えた。
炎を宿さないこの剣で、この化け物たちの肉を切り裂けるのか。
「サラ!」
カイトの声に、私は無理やり思考を遮断した。
彼を――騎士である私が守らなければならない彼を、これ以上あの女の好きにはさせない。
「わかってるわよ……! 偽物だろうが本物だろうが、私の前を塞ぐなら……叩き斬るだけよ!」
私は奥歯を噛み締め、熱を持たない鉄塊を正眼に構えた。
冷たい水の底で、最悪の夜が始まろうとしていた。
「――来るわよ、カイト!」
私の警告と、本物の魔獣たちが放つ殺意が爆発したのは同時だった。
広間を支配する魔圧が物理的な衝撃波となって押し寄せ、足元の水面が激しく波立つ。
「あはは! 逃げ惑いなさい、愛らしい子鼠さんたち!」
玉座に座るイルレの愉悦に満ちた声が合図だった。
まず動いたのは、三つの頭を持つ巨犬ケルベロス。
「オオオォォォン!!」
突進。
鼓膜を突き破らんばかりの咆哮と共に、巨体が弾丸のような速度でカイトへと肉薄する。一歩、一歩踏み込むたびに石畳が砕け散るその突進は、以前戦ったコピーとは比較にならない質量を伴っていた。
「くっ……《疾風の矢》!」
カイトが咄嗟に放った風魔法が、ケルベロスの真正面で炸裂する。凄まじい爆風が広間を水しぶきで覆い、ようやくその巨体を後方へと吹き飛ばした。
だが、カイトの顔に余裕はない。今の全力の一撃でさえ、あの化け物を「止める」のが精一杯だったからだ。
「サラ、危ない!」
カイトを援護しようとした私の頭上から、巨大な影が降り注ぐ。
急降下の突撃。
漆黒の十眼のカラス。
その十個の瞳が不気味に発光し、私の動きを完全に先読みしている。
「ガアァァァッ!」
鋼鉄のような嘴が、私の喉元を狙って突進してきた。
「このっ……!」
私は剣を振り上げ、盾にするように構える。
凄まじい衝撃。
キィィィィン、と耳障りな金属音が響き、私の腕から肩にかけての骨が悲鳴を上げる。
(重い……っ!)
重剣の重さと、カラスの突進。かつての愛剣なら、この勢いを利用して受け流せた。だが、この熱を持たない鉄塊は、ただ私の体力を削り取る枷でしかない。
「 ――『神輝一閃』!」
カイトがケルベロスの追撃を振り切り、私を襲うカラスへと跳躍した。魔力を帯びた彼の一振りがカラスの首を狙う。
だが、カラスは空中で物理法則を無視したような急転換を見せ、カイトの剣を紙一重で回避した。
「逃がすかよ!」
カイトが空中で姿勢を立て直し、逃げるカラスを追おうとしたその瞬間。
空間が歪んだ。
水路から噴き出した魔力の奔流が、透明な壁となってカイトの行く手を遮る。
「……ッ!? 結界か!」
「無駄よ。私の可愛いクラーケンが、その領域を支配しているもの」
イルレが翼を広げ、優雅に指を振る。
クラーケンの触手が、水路から四方八方へと噴き出した。それはまるで、意思を持った鞭のようにしなり、カイトの逃げ場を奪っていく。
「しまっ……! おおぉぉぉっ!」
カイトは必死に剣と魔法で触手を弾き飛ばすが、次から次へと地を這い、天から降り注ぐ粘着質な腕に翻弄されていく。《装備最適化》による達人級の剣技によってなんとか対応している。
これだけでも異常。
しかし、完全に、防戦一方だ。
「カイト!」
助けに行こうとした私の前に、再び三つの頭が立ち塞がる。
炎に焼かれたはずのケルベロスが、傷口から泥のような魔力を溢れさせながら、より一層凶悪な笑みを浮かべていた。
(……強い。これが、『本物』の力……)
重剣を握る手の感覚が、恐怖と疲労で麻痺し始める。
「 《重力崩落》!!」
カイトが鋭く叫び、地面に掌を叩きつける。
その瞬間、床一面に広がる水路から今にも飛び出そうとしていたクラーケンの触手たちが、まるで見えない巨大な足で踏みつけられたかのように、バシャバシャと激しい音を立てて水底へ叩きつけられた。───イルレのコピーに使ってあの重力魔法。
「すごいわ、カイト!」
重厚な魔力が空間を支配し、あの化け物の動きを力ずくで押さえ込む光景に、私は思わず声を上げた。
これならいけるかもしれない。
そんな微かな希望が胸をよぎった、その刹那だった。
「ガアァァァッ!!」
希望を切り裂くような凶悪な咆哮が、私のすぐ横から響いた。
ケルベロスの突進。
暗闇から飛び出してきた三つの巨大な顎が、同時に、あるいは執拗な時間差で私の肉を求めて牙を剥く。
「がっ……、ああぁぁっ!!」
右の頭が喉元を狙い、左の頭が脚を払い、中央の頭が逃げ道を塞ぐ。その完璧な連携に、私はただ翻弄されるしかなかった。
この「サラマンダーの重剣」は、本来なら業火を纏い、すべてを焼き切るための神域の武装。だが、魔力を通す術を持たない今の私にとっては、ただの鈍鈍しい鉄の板に過ぎない。
「このっ……、化け物……っ!」
正中線を狙った鋭い爪を、剣の腹で辛うじて受け止める。
凄まじい衝撃が腕から脳まで突き抜け、足元の石畳が私の重さに耐えかねて沈み込んだ。
(……ダメ、これじゃ防戦一方。反撃に転じられない!)
自分の愛剣なら、今の隙に潜り込んで喉元を貫けていたはずだ。
「サラ、そこを動くな!」
背後からカイトの鋭い声。
彼は、私がケルベロスの猛攻を耐え抜いた一瞬の隙を見逃さなかった。
巨体のケルベロスが次の一撃を繰り出そうと前脚を浮かせた瞬間、カイトが地を這うような姿勢でその腹下へと潜り込む。
「おおおぉぉぉっ!!」
蹴り上げた。
重戦車の如き質量を持つケルベロスを、彼は下から力任せに突き上げる。
凄まじい衝撃音。天井の岩盤に叩きつけられたケルベロスが、三つの口から苦悶の声を漏らし、瓦礫と共に宙を舞う。
「やった……!」
思わず叫んだ。けれど、その歓喜は一瞬で凍りつく。
天井の闇から、漆黒の翼が静かに滑空してきた。
あの、十眼のカラスだ。
「カイト、上よ!」
カイトが顔を上げた時には、すでに遅かった。
カラスは鋭い鳴き声を上げながら、翼を激しく打ち振る。そこから放たれたのは、雪のように舞い落ちる不気味な「灰」だった。
「……くそ! 魔力が……!」
カイトの声に驚愕が混じる。
───『腐食の灰』
彼の周りで展開されていた魔法が、その灰に触れた瞬間にバチバチと音を立てて霧散していく。魔力を喰らい、無効化する最悪の呪い。
コピーよりも数倍強力。
「ふふ、隙だらけよ。踊りなさい、私の可愛いクラーケン」
イルレの冷酷な宣告が響く。
魔法が途切れ、クラーケンは重力魔法の拘束を振りほどいた。
クラーケンの足元の水路から、超高圧の水の槍が噴き出した。
「くっ……《聖域の盾》……ッ!?」
カイトは咄嗟に手をかざし、防御魔法を展開しようとした。だが、彼の指先から溢れようとした光は、舞い落ちる灰に触れた瞬間、無惨にも火花を散らして消失した。
魔法が出せない。絶対の信頼を置いていた彼の魔力が、この空間そのものに拒絶されている。
「しまっ――」
カイトの瞳が、絶望に大きく見開かれる。
「カイト!!」
私の叫びが届くより早く、水の衝撃がカイトの脇腹を容赦なく貫いた。
彼は糸の切れた人形のように弾き飛ばされ、壁の瓦礫の中に深く埋まっていく。
「あはは! 素晴らしいわ! 騎士が守りきれず、魔法使いが地に伏せる。これこそ私が望んだ喜劇よ!」
玉座のイルレが、背中のコウモリの翼を大きく広げて狂喜する。
「カイト……っ!」
瓦礫に埋もれたカイトのもとへ駆け寄ろうとした私の足を、イルレの冷笑が止めた。
「あらあら、まだ終わっていないわよ? 知識は力……でも、多すぎる知識は毒なの。ねぇ、カイト様? あなたもっと頑張れるわよね?」
イルレが手にした禍々しい古書を、無造作にカイトへと投げつけた。
本は空中でバラバラに解け、紙の一枚一枚が意志を持つかのようにカイトの体に張り付いていく。
「が、あ……っ! あ、ああああぁぁぁぁっ!!」
カイトが頭を抱えて絶叫した。
本のページから溢れ出した膨大な文字――「知識」という名の情報の濁流が、彼の脳内に直接流れ込んでいるのが分かった。
圧倒的な情報量が彼の頭をショートさせる。
「カイト! しっかりして!」
私は彼を支えようと周囲を見渡した。
そして、見てしまった。
玉座に座るイルレの頭上。そこには、いつの間にか七体の異様な魔獣が浮遊していた。
巨大な頭部だけが肥大化した、学者のような風貌の魔獣――『ブレインズ』。
「なによ……あいつら」
ブレインズたちが一斉に怪しく発光する。
すると、空間に漂う文字が青い線となって、三体の魔獣……ケルベロス、カラス、クラーケンの頭部へと吸い込まれていった。
情報の書き込み。
……いや、あれは「未来予測」だ。
「ガアッ!」
カラスが再び急降下してくる。
カイトは朦朧とする意識の中で、私を守るように前に出た。
「…………っ、――剣……技《水平……円舞》」
ショート寸前の頭で彼が放った一撃。
それは確かに強力だった。
だが、カラスは魔法が放たれる0.1秒前、すでに回避行動を終えていた。
「嘘……、完全に読まれてる」
カイトの剣筋も、魔法の軌道も、すべてはあの『ブレインズ』たちが弾き出した最適解によって見切られていた。
たしかにカイトは『略式模倣』によってヴォルドガムから模倣した『第三の目』によって対応できる。
普段のカイトなら、対処できているはず。
しかし、今のカイトは情報の過負荷に襲われている。
単純にならざるを得ない剣筋がすべて読まれていた。
犬に、カラスに、タコ……なるほど。
全員賢い生き物だ。
だからこの予測にも最適なのだ。
「やめて、カイト! もういい、私が……!」
「……泣くなよ……そんなサラ、見たくない……」
気づけば、私の目から一筋の涙が伝っていた。
恐怖と情けなさが混然となった、涙の粒。
カイトが、血に染まった口元で無理やり笑っていた。
その背中が、あまりにも小さく、今にも折れてしまいそうで――。
四方八方から襲い来る触手と牙。
カイトが盾となってそれらを防ぐたびに、鈍い衝撃音が私の心臓をえぐっていく。
私の手の中にあるのは、熱を持たず、ただ重いだけの鉄塊。
(……このままじゃ、二人とも殺される)
イルレの笑い声と、カイトの荒い呼吸、そしてブレインズたちが文字を刻む不気味な音が、私の意識を白熱させていく。
カイトを守りたい。その一心で、私は冷たい重剣の柄を、指が白くなるほど強く握りしめていた。
「カイト……っ、もうやめて!!」
私の叫びは、魔獣たちの咆哮にかき消された。
「─── 《絶対防御結界》」
カイトはイルレのコピーの残党から私と女子生徒たちを守った時に使った、聖魔法を使った。
幅の半径1メートルほどのバリアが張られる。
「ふん……小癪な」
イルレが不機嫌そうにつぶやく。
ケルベロスが思いっきり噛み付くがびくともしない。
しかし、この防御も永遠じゃない。
「サ……ラ……。聞け……、一か八かだ……」
カイトがよろけながら、私の手を強く握った。
「一つだけ、勝つ方法がある。それにはサラの力が必要なんだ」
「私の…………力?」
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