第27話 ブレインズ
噴水の底、激しい水流に飲み込まれたと思った瞬間、私の視界を塞いでいた飛沫が嘘のように消え去った。
「……えっ?」
思わず声が漏れた。
足元に広がっていたのは、冷たい水の底ではなく、石畳の美しい広場。
天井を見上げれば、そこには果てしなく続く巨大なドーム状の空間が広がっていた。地下特有のジメジメした暗闇なんてどこにもない。
「綺麗……」
隣でヒヨリが、カイトの腕を独占するように抱きしめながら呟く。
視界の端から端まで、壁という壁には天井に届くほど巨大な書架が埋め込まれていた。そこには数千万、いや数億冊はあるだろう古文書がぎっしりと収められ、一冊一冊が淡い青色の光を放っている。その光が空間全体を照らし出し、まるで月夜の広場に迷い込んだような、現実離れした光景を作り出していた。
「これが『水のダンジョン』……別名『書庫ダンジョン』です」
ミナが、眼鏡の奥の青い瞳を知識への渇望で輝かせ、一歩前に出た。
彼女の足元には、迷路のように張り巡らされた複雑な水路。
驚いたことに、その水底にも大量の本が沈んでいるけれど、どれも腐ることもふやけることもなく、静かに青い光を放ち続けている。
「見てください。空気中に浮遊している本もあります。……でも、カイトさん、サラさん。絶対に、許可なく本には触れないでくださいね」
「触るとどうなるのよ。ただの本じゃない」
私が剣の柄に手をかけながら問うと、ミナは真剣な顔で振り返った。
「情報の濁流に、脳がショートします。ここの本は物理的な質量以上に『純粋な情報量』を保持しているんです。不用意に触れれば、数年分の知識が一瞬で脳内に流れ込み……自己が崩壊して廃人になります。深部へ行けば行くほど情報の濃度は増す。それがこのダンジョンの防衛機構なんです」
「……情報の罠、か。物理的な魔獣より質が悪いな」
カイトが感心したように頷き、『領域同期』を微調整して周囲の魔力を測り始める。
その横顔は、すでにこの異常な空間に適応しようとしていた。
私はというと、足を踏み入れた瞬間から、自分の居場所が少しずつ削られていくような感覚に襲われていた。
「……すごい情報量。壁の文様から推測するに、これは古代の記述に基づいた空間固定術式ですね。カイトさん、あちらの水路の合流点が、次の層へのゲートになっているはずです」
ミナは、私にはただの汚れにしか見えない壁の文字をスラスラと読み解き、最短ルートを導き出していく。
(……わからない。一文字も、理解できない)
騎士として、戦場での戦術なら誰にも負けないくらい叩き込まれてきた自負がある。
でも、この幻想的で知性的な空間において、私の「白金位『剣導師』の筋力」は何の役にも立たない。
カイトはミナの説明を熱心に聞きながら、時折「なるほど」と頷いている。
その横顔が、私からどんどん遠ざかっていく。
「サラ、大丈夫か? 顔色が悪いぞ」
カイトが、歩みの遅い私を振り返った。
さっき他の二人とキスをしてデレデレしていた時とは違う、心から私を案じるような優しい眼差し。
その優しさが、今の私には一番痛い。
「……平気よ。ただの本の山でしょ? 私が一気に斬り伏せてあげたいところだけど、斬る相手もいないみたいだしね」
わざと強気に、剣の柄をカチャリと鳴らしてみせる。
でも、私の心は水路の底に沈んでいるあの本たちと同じ。
重く、冷たく、誰にも届かない場所へ沈んでいく。
(ミナみたいに、賢ければ。ヒヨリみたいに、治療ができたなら)
ダンジョンの最深部に潜むボス。
そこへ辿り着くまでに、私は彼の隣に立つ資格を証明できるのかしら。
それとも、本当に「ただの人間カイロ」として、彼の体温を維持するためだけに存在する添え物になってしまうの?
「ほら、カイト! ボヤボヤしてないで進むわよ! 私が先頭を行くんだから!」
私はこみ上げる情けなさを振り切るように、青い光に満ちた書庫の奥へと駆け出した。
背後でカイトが「危ないぞ!」と叫ぶ声が聞こえる。
その心配さえ、今の私には「足手まといへの忠告」に聞こえて、胸の奥がチリチリと焼け付くようだった。
書架が並ぶ幻想的な広場を抜け、私たちはさらに奥へと続く細い回廊に足を踏み入れていた。 壁一面を埋め尽くす古文書の青い光が、私の横顔を冷たく照らす。
(……やっぱり、私だけ浮いてる気がする)
前を行くカイトの背中。その後ろにぴたりと張り付くヒヨリと、何かを熱心に分析しながら歩くミナ。 私は剣の柄を握りしめ、周囲を警戒することしかできない。
その時だった。
「……ッ、何か来ます!」
ミナの鋭い声。 青い光が揺らぎ、通路の先からズルリ、と五体の影が這い出してきた。
それは、透き通った亡霊のような姿をしていた。
だが、異常なのはその形だ。体はひょろひょろと細いのに、頭部だけが異様なほど肥大化している。まるで、巨大な脳に手足が生えたような……不気味なバランス。 彼らはそれぞれ古びた本を抱え、口々に何かをぶつぶつと呟いていた。
『……私の理論を……否定する者は……』
『……不完全な……仮説……』
『死をもって……証明……』
「……何、あいつら。気味悪いわね」
私は反射的に剣を抜いた。白金位の筋力を乗せた一撃なら、どんな魔獣だって両断できる。 でも、ミナが険しい表情で眼鏡を押し上げた。
「……『ブレインズ』。生前、知識に執着しすぎた学者が魔獣化した成れの果てです。彼らは物理的な打撃よりも、情報の奔流を魔法に変えて攻撃してきます!」
「知識人の魔獣……? なによそれ」
ブレインズたちが一斉に抱えた本を開く。 瞬間、水路の水が逆巻き、鋭い水の刃となってカイトへと殺到した。その水の中には、水路に沈んでいた本が含まれていた。『あれに触ると、大量の情報が流れ込んで、廃人になる』という言葉を思い出した。
「カイト!」
私が飛び出そうとした瞬間、それよりもミナが手をかざした。
「いけませんね。『効率とは魂の削りカスですよ』。大気に眠る氷晶の欠片よ、我が命に従い城壁を築け。氷壁!」
カイトの目の前に氷の壁が立ち上がり、激しい衝撃と共に水の刃を霧散させる。 カイトを守ったのは、私じゃない。ミナの魔法だ。
「ありがおう、ミナ」
「これくらい、どうってことないですよ」
微笑み合う二人。
それを見ているのが苦しかった。
『……理解できない……愚か者に……呪いを……!』
ブレインズたちがさらに呪詛を吐き散らし、不気味な青い光を放ち始める。 今度は私が、と思って一歩踏み出したけれど。
「……汚れた魂に、救済を――光の浄化」
ヒヨリがカイトの隣で、祈るように手を合わせた。
彼女から溢れ出したのは、先ほど話していた「めちゃくちゃな魔力」を源泉とする、圧倒的な密度の聖魔法だ。
眩いばかりの純白の光が通路を埋め尽くす。
ブレインズたちの巨大な頭部が光に焼かれ、浄化の炎に包まれていく。
彼らは悲鳴を上げる暇もなく、霧のように消えていった。
「…………」
私の掲げた剣は、一度も空を切ることなく、ただそこにあった。
「あー……助かった。ミナ、ヒヨリ。ナイスサポートだ」
カイトが二人の頭を撫でる。 ミナは「ふふ、これくらい当然ですよ」と胸を張り、ノーブラの豊かな果実が誇らしげに揺れた。ヒヨリは「カイトに、褒めてもらった……」と、その冷たい肌を少しだけ赤らめている。
その光景を見て、私は剣を鞘に戻した。 指先が、怒りと情けなさで小さく震えている。
(……あんな遠距離の相手じゃ、私の剣は当たらない。ミナが守って、ヒヨリが倒す。私の出番なんて、どこにもないじゃない)
白金位の騎士?
アイゼンガルドの誇り?
そんなもの、カイトの隣では何の役にも立たない。 私はただの、物理的に力が強いだけの「カイロのゴリラ」?
「サラ、大丈夫か? 怪我はないか?」
カイトが、私の方を振り返る。 その瞳はどこまでも真っ直ぐで、私の醜い嫉妬なんて、これっぽっちも気づいていない。
「……平気よ。私だって、次こそはやってみせるんだから」
わざと乱暴に言い放ち、私は二人を追い抜くように歩き出した。 カイトの気配を感じるたびに、胸の奥がチリチリと痛む。
(……やっぱり。私だけ、置いていかれてる)
回廊の青い光は、奥へ進むほどその密度を増していく。
「……いた。またブレインズよ」
私が通路の曲がり角で足を止める。
そこには、先ほどと同じ大きな頭を持つ亡霊たちが、本を貪るように眺めながら徘徊していた。
『……証明不能……不完全……』
『……定義できない存在は……消去……』
「定義できない存在、ね。まさに私のことかしら」
自嘲気味に呟き、私は剣を構えた。
魔法が効くなら、物理的な衝撃だって届かないはずがない。
騎士としての意地をかけて、一気に地面を蹴った。
「――はぁぁッ!」
私の放った白金位の斬撃。
空気が爆ぜるほどの威力をもって、ブレインズの首へと迫る。
けれど、私の刃は虚しく虚空をすり抜けた。
「なっ……!?」
『……物理定数は……ここには……通用しない……』
ブレインズの嘲笑うような呟き。
瞬間、私の目の前に水の塊が炸裂した。
「しまっ――」
死を覚悟した瞬間、私の体は強い力で背後へと引き寄せられた。
「危ない! サラ!」
カイトの腕。
私の背中に伝わる、あの温かい……けれど今は残酷なほど頼もしい体温。
カイトの放った聖魔法が、私の鼻先をかすめて魔獣を吹き飛ばした。
『隙だらけだ…………』
カイトの隙をみて、もう一体のブレインズが襲い掛かった。
そして、そのままカイトの頭を掴んだ。
『バカめ…………貴様の記憶を、知恵を、吸い取ってやろう……』
「知恵? 記憶?」
ブレインズの右手が紫に色に発光する。
ミナが叫んだ。
「カイトさん、危ない! それはブレインズが使う闇魔法、『大脳剽窃』です! 過去に蓄積した知恵や記憶が抜き取られて、最悪幼児化します!」
「やばいじゃん! 光の浄化!」
カイトは一瞬でそのブレインズを蹴散らした。
「カイトさん……大丈夫ですか?」
「ああ……なんともないよ」
カイトは平気そうに頭を揺らした。
「なんで記憶が取られる術を食らっても平気だったんだろうか……やっぱりこの世界に来て日が浅いからなんだろうか……」
カイトは一人でぶつぶつ言っていたが、その『この世界に来て日が浅いから』という部分はよく分からなかった。
「……ありがとう。カイト」
消え入りそうな声で礼を言う私の隣で、ミナとヒヨリが次の術式を練り始めている。
私の手の中にある剣が、今はただの重たい鉄屑にしか感じられなかった。
結局、私はその戦いをその終わりまで見ているだけだった。
通路の隅、本棚に囲まれたわずかなスペースで足を止めると、ヒヨリが迷いのない足取りでカイトに歩み寄った。
「……カイト、少し魔力の回路が乱れてるね。治療するよ」
「ああ、悪い。ちょっと脳がジンジンするんだ」
カイトが石畳の上に腰を下ろすと、ヒヨリはその目の前に膝をついた。
……いや、膝をつくなんてお淑やかなものじゃない。
彼女はカイトの股の間に入り込むようにして、お腹に顔を埋めるように深くうずくまった。
「ちょ、ヒヨリ!? 治療って……そんな体勢で……」
カイトの困惑した声。
でも、ヒヨリは気に留める様子もなく、カイトの腰を細い腕でギュッと抱きしめる。
(…………嘘でしょ!)
私の目の前で、とんでもない光景が繰り広げられていた。
カイトにしがみつくヒヨリは、四つん這いに近い姿勢で、無防備にそのお尻をこちらに突き出していた。
黒い修道服の超ミニスカートによって突き出されたお尻は、パツパツの白い生地を押し広げるようにして、しなやかでいて肉感的な曲線を完璧に描いていた。
そして、修道服の薄い生地越しに、彼女のパツパツに張り詰めた胸が、カイトの……アソコに直接押し当てられた。
「…………っ〜〜〜〜〜!!!」
カイトの顔が一瞬で茹で上がった。
ヒヨリの艶やかな銀髪がカイトの腹部でさらさらと揺れ、彼女が顔を上げると、ライムグリーンの瞳が陶酔したように潤んでいた。
「……肌の温もりを、直接流し込めば、回路はすぐに安定するよ。カイト、もっと……私を感じて……」
「ヒ……ヒヨリ……そこは…………あっ♡……」
彼女はそう囁きながら、さらにお腹に顔を擦り付ける。
お尻を高く突き出したまま、カイトの胸元へ這い寄るようなその仕草。
修道服のパツパツに張り詰めた生地をさらに押し広げる、その暴力的なまでに豊かな質量。カイトの下腹部に、彼女の熱を帯びた巨乳がむにゅりと深い感触を残しながらめり込んでいく。
カイトの太ももの間に、ヒヨリの……いや、その熟れきった果実のような、とろけるほど柔らかい肉感が沈み込んでいく。
カイトの鼻の下が、見る間にだらしなく伸びていくのがわかった。
(エ、エロカイト……! ……そもそも、なによ……あの格好! 治療にかこつけて、あんなにお尻まで突き出しちゃって! あんなの、ほとんど誘惑するための姿じゃない!)
『お前が言うな』と言われそうだが、そんな自己矛盾に気づかず、私は見ていられなくて叫んだ。
「ちょっとヒヨリ! あんた、カイトに対してすぐ体密着させすぎでしょ! 聖女のくせに……破廉恥だわ!」
嫉妬で見苦しく叫ぶ私を、ヒヨリはカイトのお腹に顔を埋めたまま、首だけを回してじろりと眺めた。
長い銀の髪から、ヒヨリの首筋の傷が見えた。
ライムグリーンの瞳が、暗い光を宿す。
「……サラ、羨ましいの?」
「はぁぁぁぁぁァァァァ!?⤴︎⤴︎⤴︎(転調) ぜんッッッッッぜん羨ましくないし!!! ただ、見ていて暑苦しいって言ってるのよ!」
「…………」
ヒヨリは無言でカイトから離れると、ゆらりと立ち上がった。
そして、抗議する間もなく私の目の前まで距離を詰めると、私の腰に手を回した。
「……じゃあ、サラさんにも『やって』あげますね」
「えっ、ちょ、何――」
言葉は、柔らかい感触に塞がれた。
やってきたのは――唇だった。
銀髪の毛先が私の頬をくすぐり、ヒヨリの冷たくて甘い唇が、私の唇を正面から奪う。
「んんぅ……ッ!?」
鼻先をかすめる、白百合の濃密な香り。
ヒヨリの舌先が、迷いなく私の唇を割り、熱を流し込んでくる。
女の子同士とは思えないほど、強引で、それでいてとろけるような口づけ。
「…………ぷはっ」
ヒヨリが唇を離すと、銀色の糸が一本、空中に引かれた。
彼女は満足げに、いつもの無表情に戻って唇を指で拭う。
「……女の子の唇も、甘いんですね。カイトの、好きな味がする」
「…………っ、~~~~~っ!!!」
頭が真っ白になった。
顔が、沸騰したヤカンのように熱い。
心臓が口から飛び出しそうで、私はただ、唇を押さえてその場にへたり込んだ。
カイトとミナの方を見ると、二人とも信じられないものを見たという顔で、顔を真っ赤にして固まっていた。
特にカイトは、ショックを受けているような、それでいて「女の子同士のキス」という光景に猛烈に興奮しているような、形容しがたいスケベ顔で鼻血を出しそうになっている。
軽蔑の眼差しを向けたいのに、唇に残るヒヨリの感触が、私の理性をバラバラにかき乱す。
そんな混乱の中、こう思った。
(……どうして。どうして私は、あんな風にできないの?)
ヒヨリみたいに、なりふり構わずカイトを癒やして、独占して。あんな風におっぱいを突き出してまで彼に甘えて。
ミナみたいに、無自覚に彼を誘惑して。
私だって、さっきカイトに『幸福の印』をせがまれた時、意地を張らずに受けていれば。
今頃、カイトのあの幸せそうでスケベな顔を、独り占めできていたかもしれないのに。
「……サラ、大丈夫か? なんか……すごいもん見たわ」
カイトが、気まずそうに、でも視線だけは私の唇をねっとりと追いかけながら声をかけてくる。
その目は明らかに、次の展開を期待している「男」の目だ。
「……うるさい!」
怒鳴りつけるけれど、声が震えてしまう。 拒絶したのは私。後悔しているのも私。 こんなにボロボロの劣等感にまみれているのに、カイトに「もう一度」と言ってほしい自分もいて……
「……もう、カイト! ボヤボヤしてないで、先を急ぐわよ!」
「あ、おい、サラ! そんなに急ぐと危ないって!」
背後でカイトが制止する声を上げるが、今の私に立ち止まるなんて選択肢はない。止まれば、自分が「ただの人間カイロ」でしかない事実を、もっと突きつけられそうな気がして怖かった。
足元の石畳は、水路から溢れた薄い膜のような水に濡れ、青い光を不気味に反射している。
とにかく、何でもいい。
剣を振るう機会さえあれば。魔獣さえ出てくれば、私は自分の価値を証明できるのに……!
(――カチャッ)
「……え?」
右足が、妙に軽い感触を捉えた。
タイルの一枚が、私の重みで数センチだけ沈み込む。
その瞬間、迷路のような書庫の静寂が、不気味な地鳴りに塗り替えられた。
「サラ、今何か踏んだか!?」
カイトの鋭い叫び。
次の瞬間、私の背後の壁が、巨大な口を開けるように勢いよくスライドした。
「――ッ!? サラ! 危な――」
叫ぼうとした時には、もう遅すぎた。
壁の向こう側から、溜め込まれていた大量の水が、瀑布となって回廊へ溢れ出したのだ。
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