第22話 ミナ登場【イラスト付き】
アクアリア魔術学校、その船底に位置する特別学生用食堂の一室。
厚い強化ガラスの向こう側にはアクアリアの深い蒼い海が広がり、時折、光る鱗を持つ魚たちが優雅に横切っていく。
この部屋のテーブルの裏には『恒温の魔法』と『補水の魔法』が刻まれており、料理は常に作りたての温度を保り、空になったグラスには自動で清涼な湧き水が満たされる。
さらに、給仕を担当するのは宙に浮く自律型の銀皿――マジック・トレイだ。
そんな魔法の恩恵に満ちた幻想的な空間で、俺たちは案内役のエリーが手配してくれた個室に集まり、遅めの昼食を囲んでいた。
俺のすぐ隣に座っているのは、先ほどまで「銀の栞」だった黒髪の少女――ミナだ。
あの地下から、エリーの寮の部屋に運んだのだ。
今の彼女はエリーから借りた予備の魔法学校の制服に身を包んでいる。
極度に視力が悪かったため、他の女子生徒からエリーが赤縁メガネを借りてきたのだ。
「……カイトさん。この、手前にある液体の記述は、何と定義されるものなのですか?」
ミナが、小さな子供のような純粋な瞳で、目の前のコンソメスープを指差した。
丁寧な敬語だが、その声音には感情の起伏が乏しい。
五年間、情報の海で意識を削り続けてきた彼女にとって、現実の世界はまだ「読み解くべきデータ」の集積体でしかないのだろう。
「それはスープだよ。……ほら、冷める前に食べなよ」
俺が苦笑いして促すと、ミナはおもむろに右手を伸ばした。
スプーンを取るのかと思いきや、彼女は白く細い指先を、そのまま熱いスープの中に浸したのだ。
「ちょっと! 何やってんのよ、スプーンを使いなさいよ!」
座っていたサラが、身を乗り出して絶叫した。
ミナは驚いたように肩を揺らし、濡れた指先をじっと見つめてから、中指の先で眼鏡のブリッジをクイッと押し上げた。
「……あ。これが、『熱い』という記述の正体……熱伝導による細胞の微細な損傷の予兆……。情報の断片でしかなかった概念が、今、電気信号として脳に……」
彼女の頬が、ポッと上気した。
痛いというよりも、未知の刺激に触れたことへの知的好奇心と、失われていた「生」の感覚への陶酔。
少しだけ潤んだ瞳で自分の指先を舐めるその仕草は、魔法オタクの異常性というよりも、どこか壊れそうなほどに官能的な色香を放っていた。
「……このスープの塩味は、第四層の複雑な術式が解ける瞬間の清涼感に似ています。あるいは、記述された真理が脳髄に直接染み渡るような……」
スプーンを持った彼女は、今度は理屈っぽく独り言を並べ始めた。
だが、その口元は微かに緩み、美味しさに抗えない様子で何度もスープを運んでいる。
「ミナ。もっと普通に、『うまい』でいいんだよ?」
俺がそう言うと、彼女は咀嚼の手を止め、俺をじっと見つめた。
彼女は少しだけ俯き、宝石のように綺麗な唇を微かに震わせて囁いた。
「……うまいです、皆さん。……記述の中にはなかった、この重み、この温度……ありがとうございます」
その微笑みに、俺の心臓が一瞬跳ねた。
理屈ではない、彼女の魂からの感謝が伝わってきたからだ。
「カイトさん、サラさん、ヒヨリさん……みなさん結構強いですよね」
「おぉ……まぁ強い方かもな。魔王討伐を目指してるぐらいだし」
「ふふん……わかってるじゃない」
「まーね」
サラ、ヒヨリがまんざらでもない顔をする。
ミナが、小さな口を開く。
「魔王……討伐……それは大きな目標ですね」
「なぁ……ミナ。今までどうしてあの栞の中にいたんだ?」
俺が核心に触れると、ミナは眼鏡を触る手を止め、どこか遠くを見るような目をした。
――そして、淡々と、まるで他人の記録を読み上げるかのように、自分の過去を記述し始めた。
帝国の軍事顧問という名家に生まれながら、「美しさ」や「祈り」を込めた詠唱を愛したために、効率至上主義の家族から「落ちこぼれ」として蔑まれたこと。実戦演習での失敗を機に、実の父から『処理機』と吐き捨てられ、地下牢に幽閉されたこと。 そして、老人から渡された魔法が暴走し、家族の手によって、意識だけが情報の波に晒され続ける「銀の栞」へと再構築されたこと――。
「五年間、私はただの記述回路でした。風の感触も、誰かの声の温度も、すべては紙の上の文字でしかありませんでした。私は、私という物語の『ゴミ箱』に捨てられていたのです」
感情を排したその語り口が、かえって彼女の受けてきた絶望の深さを浮き彫りにした。
「…………っ」
俺は拳を握りしめ、言葉を失った。
胸の奥が、どろりと重い絶望感で満たされていく。
実の家族から存在そのものを「非効率」として消去される――そんな地獄がこの世にあっていいはずがない。
「……そんな、あんまりだわ……」
横を見ると、あの勝ち気なサラが、ルビーのような瞳から大粒の涙を溢れさせていた。
エリーも、声を押し殺して肩を震わせている。
いつも無表情なヒヨリですら、そのアーモンド形の瞳を潤ませていた。
「う、うわあああああん! ミナ、あんた……あんた、そんなに苦しかったのねぇぇ!」
「ミナ様ぁっ! もう、もう大丈夫ですからぁっ!」
次の瞬間、サラとエリーが席を立ち、左右からミナに抱きついた。
サラは目に涙を浮かべ、エリーはパーカーの袖で涙を拭っている。
突然の物理的な「重圧」と、二人の少女の熱い涙に、ミナは眼鏡を歪ませながら呆然としている。
「さ、サラさん、エリーさん。……近いです」
「いいから黙って抱かれなさいよ! これからはアタシたちが、あんたを栞になんかさせないんだから!」
サラがミナの豊かな胸に顔を埋めるようにして号泣する。
エリーもまた、ミナの細い肩に顔を寄せ、嗚咽を漏らしていた。
カイトはただ、二人に挟まれて戸惑いながらも少しずつ顔を赤らめていくミナを見つめていた。
彼女が取り戻したかったのは、この「理屈では説明できない、鬱陶しいほどの温かさ」だったのかもしれない。
ようやく落ち着きを取り戻し、サラが鼻をすすりながらサバ入りサンドイッチをヤケ食いし始めた頃。
「ミナ……さっきの詠唱が不要かどうか……の話だけどさ。俺は、その『遅い魔法』、嫌いじゃないよ」
俺の言葉に、ミナが驚いたように顔を上げた。
「……え? でも、効率こそが戦闘では至高で……。遅い詠唱は、戦場ではただの隙でしかないと……」
「いいや、違うな。……昔、俺の知ってる奴の話でさ」
俺は少しだけ、前の世界の自分――高校生だった頃の光景を思い出した。
「そいつはさ、高校生の時、毎日夜遅くまで塾……いや勉強する場所……に通って、いかに効率よく点数を取るかばかりを叩き込まれてた。テストに出ない脚注は読み飛ばせ、解法を丸暗記しろ、無駄な思考は省け……ってな。周りはみんな、最短距離でゴールすることに必死で、そいつだけが、余計な寄り道をしてるような劣等感を持ってたんだ」
俺は、ミナの震える肩を支えるように語り続ける。
「でも、そいつが一番好きだったのはさ、教科書の隅っこにある無意味な歴史の裏話だったりしたんだよ……効率化ってのはさ、要は『中身』を削ぎ落として、ただの数字に変えることだ。でも、そんな冷たい世界で、そいつだけは信じてた。非効率な場所にこそ、本当の『魂』が宿るんだってな」
俺は感情を込めて勉強の思い出を語った。
だが、「勉強をした」ということは思い出せるのだが、
「どこで」「誰と」「どのように」勉強したのかということだけが、一向に思い出せなかった。
記憶にもやがかかっているみたいだった。
おそらく勉強漬けだったから、細かい記憶が残っていないのだろう。
そして、俺の視線は、ミナではなく、固まっているヒヨリに真っ直ぐ向けた。
「ヒヨリの祈りだってそうだろ? もし神様がただの結果だけを求めるなら、ヒヨリの祈りはただの時間の無駄だ。神の名前を千回、機械的に高速再生すればいい。……でも、そうじゃない。お前が、誰からも見られない静寂の中で、一文字ずつに祈りを込めて、指先を震わせながら時間をかける……。その『無駄』な時間にこそ、本当の神が宿るんじゃないのか?」
ヒヨリがハッとしたように目を見開いた。
彼女の瞳には、カイトを見つめる、これまでにないほど強烈な光が混ざっていた。
「最短距離で結果を出すだけが、正解じゃない。決してその過程が『空っぽ』だとは思わない……時間をかけて、祈るように紡いだ言葉にしか届かない深みってのが、絶対にある。ミナ、お前の魔法にはそれがあった。だから、俺はお前の魔法を信じるよ」
「カイトさん……あ、ありがとうございます」
ミナは頬を軽く赤らめさせながら、俯いた。
彼女は長い前髪に埋もれながら「そうですよ……そうですよね」とぶつぶつ呟いていた。
サラが「あなた、友達とか居たのね」とか失礼なことを言っていたのだが、それは完全に無視した。
先程の重い過去話と、このくだりで場がしんみりしたところで、その重苦しい空気を振り切るように、ミナは口を開いた。
「……ところで、ヒヨリさん」
これまで静かにサラダを突いていたヒヨリに対して、ミナが抑揚のない声で話しかけた。
「あなた、信仰の人ですよね。……その首元にあるのは、帝国聖典の紋章でしょう?」
ヒヨリが淡々と答えた。
「うん。私はシスターだよ。理論の世界に生きる、あなたには、分からないと思うけど」
「いいえ、分かりますよ。聖典を読み上げるのも、一種の詠唱のようなものですしね」
「……ふーん、よく分かってるじゃん。言葉に祈りを、乗せる大切さを、理解しているなら、少しは話が通じそうだね……で、ミナは、神は信じてるの?」
ヒヨリが期待を込めた目でミナを見る。
だが、ミナは瞬き一つせずにこう言い放った。
「いや、いるわけないじゃないですか。神などという非効率な超越存在を仮定せずとも、世界の事象はすべて術式の演算結果として記述可能です」
「「「「………………」」」」
部屋の空気が氷点下まで凍りついた。
ヒヨリの手の中のフォークが、メキリと音を立ててひしゃげる。
「……そう。ミナは一回、神の罰を、受けた方が、いいみたいだね……」
「神の非存在を証明するための論理を、今から三時間ほどかけて説明しましょうか?」
「上等……だよ。あなたの脳内に直接……神の啓示を、叩き込んであげる……」
冷徹な理論家と、毒舌の聖女。
俺とサラが二人をなだめ、エリーは奥歯をガタガタ震わせていた。
一触即発の二人の間に割って入ろうとしたが、それより早く、俺の腕に強烈な「感触」が押し当てられた。
「……カイトさん……」
ミナがさらに深く、俺の腕に自身の体を預けてくる。
「久しぶりの肉体で、体が慣れません。ちょっと体を預けてもいいですか?」
「お、おう……」
薄いブラウスの生地越しに伝わってくるのは、もはや『柔らかい』などという言葉では生ぬるいほどの、圧倒的な胸の質量の感触だった。
上から見える、深い谷間が腕の圧力でふゆんと歪む。
これまで共にしてきたサラやヒヨリも、女性として十分すぎるほど豊かな身体をしていたはずだ。
だが、ミナのそれは次元が違った。
俺がこれまでの人生で出会ってきたどんな女性よりも――その豊潤な双丘は、あまりに、あまりに巨大すぎた。
「……このまま、少しだけ、肉体を安定させてください……」
彼女は目を閉じ、俺の肩に顔を埋めた。
無自覚なのだろうが、その体勢は端から見れば俺を誘惑しているようにしか見えない。
「――ちょぉぉぉぉッ!! あんた何やってんのよ、そのふしだらな女を今すぐ引き離しなさいよバカイトぉぉぉぉぉッ!!」
案の定、サラが立ち上がってテーブルを叩いた。
「サラ、落ち着け! か、彼女はただ体調が悪いだけで――」
「体調が悪ければ男の腕に胸を押し付けていいっていう法律がどこにあるのよ! この不潔男! エロカイト! あなた鼻の下伸び切ってるじゃない!」
サラが机を叩いて絶叫する。
いやいや!
俺はそんなにデレデレしてないって!
俺は彼女を支えようと思っただけで……
と思いながら、海を透かす窓ガラスに反射した自分の顔を見たが、かなりだらしない顔をしていた。
そして、ヒヨリが音もなく立ち上がった。
その手には、先ほどひしゃげたフォークが、もはや飴細工のように捻じ切られた状態で握られている。
「……カイト……その女……死罪、だよ」
感情を削ぎ落としたはずのアーモンド形の瞳から、底冷えするような殺気が溢れ出している。
「ミナ……神の存在は、否定してもいいけれど……今からあなたが会うのは、死神、だよ……」
「ヒヨリ様! 落ち着いてください!」
エリーがヒヨリをなだめる。
ヒヨリの背後に、不気味なほど冷たい魔力の渦が巻き起こった。
こいつ……シスターだよな?
闇魔法のほうが向いてるだろ……
個室の中は、ヒヨリの殺気とサラの罵声、そこで漂うミナの無自覚な甘い香りに包まれて、阿鼻叫喚の図となった。
俺はと言えば、サラたちの殺意と、腕から伝わるミナの極上の肉感、そして先ほどから耳元で囁かれる「カイト様の鼓動、非常に規則正しくて落ち着きます……」というミナの吐息に、心臓が爆発しそうだった。
……魔王を倒す前に、俺の理性が削り落とされそうだ。
俺は遠い目をして、海を泳ぐ魚たちに思いを馳せた。
しかし、そんな喧騒を切り裂くように、港の奥から凄まじい轟音が響き渡ったのは、その数分後のことだった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
もし「続きが気になる!」「面白かった」と思っていただけましたら、画面下の評価(☆☆☆☆☆)や、ブックマークで応援していただけると、執筆の大きな励みになります!
また、一言でも感想やコメントをいただけると、ありがたいです!




