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第21話 銀の栞と青い蝶


 

 私の記憶は、常に「青」から始まります。

 

 

 

 

 

 

 

 それは、父の瞳に宿る、凍てついた冬の湖のような冷淡な青。

 

「速さが足りない。術式を削り落とせ。効率を上げ、最適解を叩き出せ」

 

 帝国の軍事顧問という、魔術師として頂点に君臨する一族に生まれた私は、産声とともにその冷たい色彩の洗礼を受けました。

 私にとって、魔法は決して敵を屠るための「兵器」ではありませんでした。

 それは、先人たちが千年の時をかけて編み上げた、祈りと哲学が結晶化した「言葉の彫刻」であり、精神の深淵を照らす蒼い灯火だったのです。

 

「……《古の盟約に従い、天を巡る星々の瞬きを我が指先に、銀河の河床に眠る静寂を以て……》」

 

 私が陶酔とともに詠唱を紡ぐと、傍らで姉はいつも、刃物のような薄い唇を吊り上げました。

 彼女の背後に浮かぶのは、機能性のみを追求した無機質な「青」の閃光。

 

「またその無意味な韻律を弄んでいるの、ミナ?無詠唱なら瞬きひとつで終わるものを、わざわざ十秒もかけて……。それは魔術ですらない。ただの、時代遅れの独り言よ」

 

 姉が指を鳴らせば、そこには情緒の欠片もない、しかし完璧な殺意を孕んだ氷の刃が顕現します。

 訓練用の標的が、無機質な音を立てて砕け散りました。

 

「詠唱は……敬意なんです。この術式を組み上げた先人たちの魂への、届くことのない祈り……」

 

 私は指先を震わせ、沈み込むような声で反論しました。

 けれど、私の声が家族という名の氷壁を穿つことはありません。

 

 私は会話が酷く不得手でした。

 生身の人間と言葉を交わすよりも、古びた魔導書の中で微睡む「かつての賢者たち」との精神的な対話の方が、私にはずっと救いだったのです。

 

 

 

 

 その薄暗い図書室の隅で、私は「彼」に出会いました。

 魔法の才を持たぬ身でありながら、失われた魔導書の美しさに取り憑かれた老いた写本師。

 

「お嬢様、効率とは魂の削りカスですよ」

 

 彼はインクの染みた指で私の肩を叩きました。

 

「魔法とは命令ではなく、対話なのです。美しさを捨てるということは、そこに宿る意味を殺すということなのです」


 





 ある日、彼は語った。


「……お嬢様。私は今、ある『失われた旋律』を研究しています。古の記述によれば、それはかつてこの世界を救った英雄が愛し、そして今は――世界を塗り潰そうとする『魔王』が、殺戮の最中に口ずさむ呪いの歌だと言われています」


 老人は、掠れた声でそのメロディを口ずさみました。





 

 「……んん、んんん、ん、んんんー…………」






 それは、どこか世界の深淵を感じさせる荘厳な調べ。


「魔王が……歌うんですか?」

「ええ。その歌が聞こえる時、一つの国が地図から消える。非効率の極致、戦闘には一切無用なはずの旋律。ですが……これほどまでに美しい歌を、私は他に知りません。いつか、あなたもこの意味に辿り着くかもしれませんね」







 

 彼は私の詠唱を聴きながら、よく目を細めて呟いていました。

 

「あなたの魔法は、まるで夜明けの空を舞う蝶のようだ。いつか、あなた自身の言葉で、世界を青く染めなさい」

 

 その教えは、私の心に深く刻まれました。

 しかし、その願いはあまりにも残酷な形で結実することになります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 十三歳の冬。

 実戦演習の日。

 

 目の前には、汚泥のような咆哮を上げる巨大な魔獣。

 本の世界では決して表現できない、リアルな獣の雄叫び。

 

 私の脚はロウで覆い尽くされたように固まり、喉は真綿で締められたように縮こまりました。

 

 (大丈夫。私の術式は完璧……。先生に教わった通り、誰よりも、美しく構築して……!)

 

 私は声を上げました。

 一字一句を慈しむように、大気に愛を刻み込むように。

 しかし、戦場は美学を愛しませんでした。

 

 

 

 

「――っ、がはっ!?」

 

 

 

 詠唱の七割。

 最も美しい転調を迎えようとした瞬間、魔獣の鉤爪が私の脇腹を裂きました。

 遅すぎたのです。構築の美しさに酔いしれる私の隙を、現実は一秒たりとも待ってはくれませんでした。

 

 演習は壊滅。

 泥を塗られた父は、私をゴミを見るような瞳で見下ろしました。

 

 

 

 

 

「ミナ。お前は魔術師ではない。ただの『処理機』だ」

 

 

 

 

 

 冷酷な宣告とともに、私の世界から光が消えました。

 

 魔導書をすべて没収され、私は一族の恥として、陽の光も届かぬ地下牢へと幽閉されたのです。

 残っているのはボロ布と眼鏡だけ。

 

 言葉にできない、深海のような絶望。

 この種の苦しみを、明確に定義できる術式は、私の知識にはありませんでした。

 

 

 

 しかし、その絶望の淵に、あの老写本師が再び現れました。

 

「お嬢様、これを」

 

 彼は震える手で、牢屋の鉄柱の隙間から一枚の古い紙を私に差し出しました。

 そこには、二つの円が重なり合い、数学的なベン図のようでありながら、今にも羽ばたこうとする蝶の翅のようにも見える魔法陣が描かれていました。

 

 

 

「これは、対話の果てに至る答えです。あなたの言葉で、命を吹き込みなさい」

 

 

 

 老人は霧が晴れるように消えていきました。

 

 私はその陣を見つめました。

 直感的に理解できました。それは、一切の簡略化を拒絶し、言葉を重ね、祈りを積み上げた先にのみ開かれる扉。

 

 私は詠唱を始めました。

 

 一分。

 

 十分。

 

 三十分。

 

 喉から血の味が込み上げ、意識が混濁しても、私は言葉を紡ぎ続けました。

 

 

 

 そして

 

 一時間。

 

 

 

 かつての賢者たちですら踏み入らなかった、非効率の極致。

 

 そして、その瞬間に「それ」は現れました。

 

 

 

 地下牢の天井を突き破り、月光を吸い込んで煌めく、巨大な、あまりにも巨大な青い蝶。

 

 

 それは、凄絶なまでの美しさがもたらす物理的な「暴力」でした。

 蝶がその巨大な翅を震わせるたび、現実という名の秩序が情報の波濤となって砕け、屋敷は存在の根源から揺らぎ始めました。

 天井が、壁が、まるで湿った紙細工のように銀色の粒子となって崩れ去っていく。

 

 

 

 破壊の渦の真ん中で、父は立ち尽くしていました。

 彼は瞬時に効率的な迎撃術式を起動しようとしましたが、その「最適解」は、一時間をかけて紡ぎ上げられた「愛」という名の奔流の前ではあまりに無力でした。

 

 父は、自らが軽蔑したはずの「美しき残響」の中に沈み込み、崩落する情報の海に飲み込まれるようにして、静かにその息を吹き消されたのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「お父様を……よくも……よくもお前のような出来損ないが!」


 

「封印の儀式」は、悲鳴を上げる母親と、怒り狂った姉の冷たい手によって執り行われました。

 

 肉親を殺された憎悪は、効率という名の計算を焼き尽くす炎となって私に降り注ぎました。

 

 私の肉体は、一族の秘術によって情報の粒子へと分解されていきました。

 温かかった肌が、薄い膜のように剥がれていく。

 叫ぼうとしても、声はすでに「記述」へと置換され、私の存在そのものが、一枚の「銀の栞」へと再構築されていきます。

 

 

 

 

「うふふ、これでお前も、大好きな本の一部になれて幸せでしょう?」

 

 

 

 

 姉が、私の成れ果てである銀色の板をつまみ上げ、嘲笑いました。

 

 蝶になりたかった私の願いは、皮肉にも、紙のように薄く、自らの意思では羽ばたくこともできない姿として叶えられてしまったのです。

 

 

 

 

 

 

 それから、五年の月日が流れました。

 

 栞としての五年は、永遠に続く静寂の牢獄でした。

 私に許されたのは、自分を押し潰している「魔導書」の中身を読み耽ることだけ。

 

 

 

 五年間、私は「触覚」を失っていました。

 

 

 頬を撫でる風も、自分の指先の柔らかさも、もはや思い出の中にしか存在しません。

 

 あの古くから親しんだ革張り魔導書の手触りも、

 

 複雑な術式を詠唱し終わった時に感じた、あの清涼な汗の感触も、

 

 魔法の訓練の後、夕暮れに山の裾から吹き付ける心地良い秋の息吹も、

 

 あの老人の右手の皺に刻まれた、果てしない努力と温もりも。

 

 そして、視界さえも奪われ、私は「世界を情報の断片として感知する」だけの回路に成り果てていました。

 

 



 

 ――ああ! まさに『処理機』!

 

 

 

 

 

 

 けれど、意識が情報の海に溶け出しそうになるたび、私はあの老人の言葉を思い出しました。

 

 ――『一文字を惜しむことは、友人の言葉を遮るのと同じこと』

 

 私は栞として、私を包む「本」という名の友人と、絶え間なく対話を続けました。

 文字の奥にある美しさを探すことだけが、私が私でいるための唯一の祈りでした。

 

 

 

 

 

 ……あ、蝶だ……

 

 

 

 

 

 意識の澱みの中で、私は幻影を見ました。

 

 暗い情報の海を、一匹の青い蝶が舞っている。

 

 ありえない。

 こんな死に絶えた場所に、生命の鼓動などあるはずがない。

 

 けれど、その蝶は真っ直ぐに私へと飛んできました。

 

 荒々しく、情緒に欠け、野蛮なほどに膨大な……けれど、驚くほど温かい「光」を纏って。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 パキィィィィィィン!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 五年間、私を縛り付けていた冷たい「紙の牢獄」が、その暴力的なまでに真っ直ぐな魔力によって粉砕されました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……あ、つい……


 ……体が重い……何、これ……

 

 

 

 不意に、失われていた「感覚」が雪崩のように戻ってきました。

 柔らかなリネンの感触。

 どこからか漂う、薬草と古びた本が混ざり合ったような不思議な香り。

 情報の海に沈んでいた私の意識が、優しく、しかし確かな手応えを伴って現実へと浮上していきます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 まぶたを押し上げると、そこはどこかの病室……いや誰かの部屋でした。

 

 視界の端で、誰かが私のそばに座っているのが見えます。

 周りを見渡せば、黒髪の少年と、金髪の少女。そしてシスターらしき女性と、制服を着た銀髪の女の子。

 この部屋には本と、机。

 その上には動物のぬいぐるみがいくつかあった。

 

 

 

 

 

 

「……おい、大丈夫か?」

 

 

 

 

 

 

 低く、どこかぶっきらぼうな声。

 

 私の枕元で、青年が青色の「魔法貝」を掲げていました。

 

 その蝶の(はね)にも似た二枚貝からは、波打ち際のような穏やかな青い光が溢れ出し、私の乱れた精神を凪のように鎮めていきます。

 この5年間、情報の重圧に晒され続けていた脳裏に、その光は慈雨のように染み渡りました。

 

 

 

「あなた大丈夫? カイトに酷いことされなかった?」

「な!? 失礼な! こうして保健室まで運んだじゃないか!」

「ふん……どうだか」

 

 言い争いをする金髪の女の子と、黒髪の男の子。

 

 

 

 

 男の子はゆっくりと魔法貝の光を調整しました。

 洗練された一族の術式とは程遠い魔法。

 

 

 魔法貝――何年もかけて作られる非効率な魔法……

 

 

 そして驚くほど実直で温かい魔力。情報の海から私を掬い上げてくれたのは、間違いなくこの人でした。

 私は、五年ぶりに取り戻した「肉体」という重みを噛み締めながら、世界の光を浴びました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 私の記憶は、常に「青」から始まります。

 

 父親の冷徹な青い瞳。

 あの時、深淵の中で見た青い蝶。

 そして今、私の前で揺れる魔法貝の光。

 それは、私の絶望を壊しに来た、新しい運命の「青」だったのだと、今は思うのです。


 

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


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