第2話 四本腕のドラゴン【イラスト付き】
俺は、冷たい湿った土の上にうつ伏せになっていた。
最初に鼻孔を突いたのは、深い森の匂いだった。
腐葉土の重い湿気、苔の青っぽい渋み、遠くで朽ちた木の皮が剥がれるような、動物的な体温の残り香。
「うわぁ…………」
周りにあるのは、元の世界とは思えない超巨大な針葉樹林だった。
高さは100メートルくらいあるだろうか。
家一軒ありそうなほど太い木が、どこまでも広がっていた。
自分の服を見る。
白いパーカー、ジーパン、歩き慣れたスニーカー——事故の直前のまま。なのに、泥も血も、擦り傷の跡すらついていない。布地は新品のように整っていて、繊維一本一本が鮮明に感じられる。
カイトはジーパンの膝を軽く叩き、パーカーのフードを指でつまんだ。布の感触が、確かに「ここにいる」と教えてくれる。少なくとも夢じゃない。神のあの軽口も、ギフトの熱も、全部本物だった。
両手を握ってみる。
指の節が硬い。筋肉の密度が、明らかに違う。心臓の鼓動は一つなのに、胸の奥に“もう一つの鼓動”があるような——二本の川が並行して流れているような、不思議な重なり。
次の瞬間、掌の奥から透明な圧が湧き上がった。
見えないのに、確かにわかる。
魔力が、常時、途切れなく循環している。
一本は鋭く、刃のように研ぎ澄まされた流れ。もう一本は広く、術式を紡ぐような柔らかな流れ。
二つが互いを邪魔せず、同時に最大出力で動いている。
カイトは立ち上がり、周囲を見回した。
巨木が密集し、根が地面を這うように絡み合っている。
「……静かすぎるな」
独り言が漏れた。声はすぐに森に吸い込まれ、返ってこない。
鳥も鳴かない。虫の音もない。まるで森全体が息を潜めているようだ。
森の空気を切り裂くような、轟音が響いた。
「なんだ……!?」
カイトの足元が、地震のように激しく揺れる。
木々が悲鳴を上げ、ざわざわと鳥たちが一斉に飛び去っていく。ただ事ではない。
音のした方へ駆け出し、視界が開けた瞬間——カイトは息を呑んだ。
そこにいたのは、ドラゴンのような形をした『絶望』そのものだった。
全長は二十メートルを超えているだろうか。その全身を覆う皮膚は、年月を経た岩石のように硬質で、灰色のひび割れた質感をしていた。ジャングルの巨木を小枝のようにへし折り、大地を粉砕しながら進むその姿は、自然そのものの怒りを具現化したかのようだ。
何より異様なのは、その身体構造だ。
隆起した筋肉を持つ4本の腕。それぞれが巨岩を握り潰すほどの力を秘め、凶悪な爪を地面に食い込ませている。背中には巨大な翼が広がり、背後の光を遮って不吉な影を落としていた。
突き出した巨大な角、そして獲物の血に濡れた凄惨な顎。
だが、一番不気味なのは、額にカッと開いた『第三の目』だった。
その瞳は生物的な感情を超越し、見る者の魂を見透かすような、冷徹な知性を湛えている。
「あ、あぁ……。嘘だろ……これが……巌塊の四臂龍、ヴォルガドムか……」
その怪物の足元で、銀色の鎧に身を包んだ騎士たちが転がっていた。
五人。全員がいかにも「物語の主人公」といった風貌のイケメンたちだが、今は見る影もない。鎧はひしゃげ、剣は折れ、絶望的な表情で震えている。
『……ふむ。精鋭騎士団とやらは、この程度のものか』
ヴォルガドムの口が動いた。
それは唸り声ではなく、明確な『言葉』だった。
『弱者をいたぶるのは趣味ではないが、ここまで歯応えがないと欠伸が出るな』
「ひっ、ひぃぃ……!」
リーダー格と思われる男が、這いつくばって後退りする。
カイトは思わず、腰の剣を握りしめて前に出た。
「おい、大丈夫か!」
その声に、騎士の一人がカイトを振り返る。
死の淵にいながら、その瞳にはまだ傲慢な色が残っていた。
「……なんだ、貴様は! どこから湧いた!」
「俺も戦います。そいつを——」
「……ふ、ふざけるな! この、一般人が……ッ!」
騎士が、口から溢れる血を拭いもせず、顔を真っ赤にして叫んだ。
「平民が……俺たち誇り高き騎士団を助けるだと? 片腹痛いわ! 身の程を知れ! 貴様のような無価値なモブは、そこで指をくわえて、英雄である俺たちの戦闘でも拝んでいろ! 視界に入るなと言っているんだ、不愉快な——」
カイトは、その罵倒を冷めた目で見つめていた。
(……またか。この世界に来ても、結局これなのかよ)
差し出そうとした手から力が抜け、自分に向けられる醜悪なプライドに、心からの嫌悪が湧き上がる。
かつての自分が味わってきた「背景」としての屈辱。
それを当然のように押し付けてくるこの男を、もはや救う価値などない。
そう、確信した。
その瞬間――
「——がはっ!?」
ドゴォォォォン……!!
「あ……」
一瞬だった。
爆音と共に、先ほどまで怒鳴っていた騎士を含め、四人が肉塊へと変わる。
最強を自称していたはずの男たちが、ゴミのように大地に埋まった。
近くにあった超巨大な針葉樹林が何本も折られていた。
残されたのは、腰を抜かして震える一人の騎士と、カイトだけだ。
ヴォルガドムの第三の目が、ゆっくりとカイトに向けられた。
魂を凍らせるような視線。だが、そこに殺意はなかった。あるのは、徹底した『無関心』だ。
『……ふん。また弱者が一匹増えたか』
ヴォルガドムは、鼻先でせせら笑うように熱い息を吐いた。
『小僧。お前に対する興味など、持ち合わせてはおらん。失せろ。貴様ごときに振るう体力がもったいない』
龍は、カイトを無視して背を向ける。
『そこら辺のスライムでも狩っているんだな。それがモブにふさわしい、身の程というものだ』
「……スライムでも狩ってろ、だって?」
カイトの脳内で、ぷつり、と何かが切れる音がした。
元の世界での、見向きもされなかった人生。
誰の記憶にも残らず、ただの『背景』として生きてきた日々。
せっかく手に入れた新しい人生のスタート地点でさえ、また、同じことを言われるのか。
「……モブ、か」
カイトは静かに剣を抜いた。
鞘から滑り出た刃が、不思議な重みを帯びて輝き出す。
「お前も、あの連中も。……勝手に人をモブ扱いして、見下してんじゃねえよ」
胸の奥で、二つの回路が猛烈な勢いで回転を始めた。
「——全力で、後悔させてやる」
カイトが呟いた瞬間、その手に握られた剣が、青白い、刺すような光を放ち始めた。
《装備最適化》
脳内に無機質な声が響く。
ただの鉄の塊だった剣の分子構造が組み替えられ、この世界の理を超えた「最強」の硬度と鋭利さを宿していく。
「あ、あいつ……何を……」
腰を抜かした生き残りの騎士が、信じられないものを見る目でカイトを凝視した。
「……馬鹿な! 魔力が見えるほどに溢れ出ている……!? 剣を使うのに……魔力!? あんなモブが持っているのは、ただのなまくら刀のはずだろッ!」
カイトは返事もしない。
ただ、ヴォルガドムの巨大な脚に向かって、無造作に剣を真一文字に振るった。
瞬間、世界から音が消えた。
遅れて届いたのは、空間そのものが悲鳴を上げるような衝撃音。
カイトの振るった一撃は、ヴォルガドムの岩石のような皮膚を豆腐のように切り裂き、その巨体から片脚を容易く断ち切った。
刃はそのまま止まることなく、背後に広がる深い森を——一直線に、五十メートル以上にわたって、剃刀で紙を裂くように両断していた。
周囲何十メートルもありそうな太い木が、遠くのほうまで音を立てて倒れている。
一気に視界が開けた。
「……は?」
騎士の口から、間の抜けた声が漏れる。
目の前の光景が理解できない。
一振り。
たった一振りで、山のような龍の脚が宙を舞い、百年単位の巨木が数十本、一瞬で「消失」したのだ。
ズゥゥゥゥゥゥン!!という地響きと共に、ヴォルガドムの巨体がバランスを崩して激しく転倒する。
切り離された巨大な脚が地面に突き刺さり、噴き出した血が雨のように降り注ぐ中、ヴォルガドムの第三の目が、驚愕に大きく見開かれる。
『貴様…………何者なんだ?』
俺はニヤリとして口を開いた。
「……ただの空っぽなモブだよ」
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