変貌
彼女に会うのを待ち遠しく思ったのは、おそらくこのときが初めてだ。
週末になるのを待って、こちらから出向くつもりだったが、先に向こうから来た。弟は遊びに行く予定がないのか、部屋にこもっている。おそらく本でも読んでいるのだろう。興味のない本はあまり読まない私と違い、弟は乱読家といっていい。だんだん読む本の量が増えてきている。家にいるときは、勉強していなければ本を読んでいるような状態だ。
彼女が父や母に挨拶をしている間に、自分で茶の用意をして縁側に置き、傍に座る。しばらくすると彼女が一人でこの縁側までやってきて隣に座り、適当に間を置いたところで雑談が始まる。これがいつもの流れだ。この日も、縁側に座ってしばらくしたところで彼女がやってきた。―――――だが、何かが違う。やっていることは何も変わらない。顔を合わせて、はじめに交わす言葉は同じ。座る位置も同じ、しぐさもいつもと変わらない。なのに、違和感がある。……違うのは、表情、いや、目か?
いつも通りに始まる雑談。なのに、やはりどこかが違う。普段であれば、彼女との会話の際はもっと身構えている。そうでなければ、時折織り込まれる、嬲るような物言いに狼狽することになる。彼女がどういうつもりでそんな話し方をするのかは知らないが、その言葉に動揺するのは負けのような気がするのだ。……もしかしたら、そう思うことですでに、彼女の術中にはまっているのかもしれないが。
しかし、この日は身構えれば身構えるほど肩透かしを喰う。しだいに、警戒をしているのもばかばかしいような気さえして、調子が狂う。おかしい。そのせいか、いつもの流れを無視してすぐに本題に入るはずが、いつまでもずるずると雑談をしてしまっている。いつもであれば段々と私の愚痴が入り始めるころだというのに、何から話し始めるつもりだったのか忘れてしまっていた。その状態の私を、彼女は普段のように嬲るどころか心配して見せた。「どうかしたの?」と。……違和感どころではない。異常だ。
思わず、向こうの心配にこちらも、らしくなく心配で返してしまった。声に動揺がにじんだのは無理のないことだと、少なくとも私は思う。
「お……そっちこそ……」
いつも通り「お前」と呼びそうになった―――――わたしが「お前」などとぞんざいに呼ぶのは彼女くらいのものだ―――――――が、普段の彼女とは違う雰囲気に、日頃かぶっている優等生の顔が出そうになり、うっかり訂正しようとしたが、彼女相手に取り繕うのは今更無駄な事を思い出し、かといってまた「お前」と呼びなおすのもおかしい気がして、結局中途半端な呼びかけになった。わけのわからないところにこだわったのは現実逃避だろうか。
「? 何かおかしい?」
彼女は私の問いの意味が分からなかったのか、首をかしげた。本気で分からないのか、演技なのか判然としない。演技だとしても、私の前で取り繕うその意味が分からない。私が答えあぐねている間に、彼女は自力で回答に辿り着いたらしい。「ああ、そうか」と一人で納得し、続けられた言葉は意味不明だった。
「蛇になり損ねたの」
「は?」
おそらく、何かの古事なり何なりが出典なのだろうが、いきなりすぎて何のことなのかが分からない。
「旧約でアダムとイブをそそのかしたのがいるでしょう」
彼女が言うにはあの蛇は悪魔の比喩らしい。いろいろと理屈っぽく説明されたが、要するにあの蛇は悪魔であり、元は天使だったのだが、人間に嫉妬して人を唆し、神の思惑を台無しにしたとのことだ。彼女は己の人間嫌悪と、悪魔の人間への嫉妬を重ねて、自身を蛇と例えたのだ。
彼女は蛇になり損ねたと言った。ならば、今の彼女はもう―――――。
なぜか、ひどく取り残されたような気がした。
私がよく分からない寂寥感にさいなまれている横で、彼女の話は続く。聖書は「聖なる」「書」と言う割に物騒な内容が多いのだが、その内容のほとんどは失敗を何とか収拾しようとする神と、それを妨害しようとする蛇こと元天使の悪魔との、泥沼の争いの歴史らしい。そして、その一番最初の戦いともいえるのが、カインとアベル。嫉妬で弟を殺したカインと、やはり嫉妬で人を唆し、堕とした蛇。彼らはよく似ている。
ならば、私と彼女も似ていたのか。彼女が蛇なら私はさしずめカインだ。似ていたのなら、私も彼女のように、いつかこの、弟への醜い感情から逃れることができるのだろうか。―――――ああ、そうか、羨ましいのか、彼女が。
やっと、寂寥感の理由に気付いた。自分で思うより、彼女への仲間意識は強かったらしい。不思議と、裏切られたという感情はなかった。ただ、ひたすらに羨ましかった。それは、暗い感情から解き放たれた彼女が、その表情が、あまりにもきれいだったせいなのかもしれない。