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規矩準縄  作者: 木の枝
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悪夢

この章には殺人の描写があります。

たいしたものではありませんが、苦手な方はお気をつけください。

 弟を殺す夢は嫌に鮮明だった。


 当時の家の裏手には林があった。子供の恰好の遊び場で、私達兄弟も友達やその兄弟と一緒によくそこで遊んだ。この時代は年齢に関係なく集まって遊んだりするのはごく当たり前のことだった。危険だからと禁止されるようなこともなかった。怪我をしても運が悪い、ですませられてしまう時代だった。

 そこに、弟と二人で入った。二人だけで遊ぶこともあったから、何も不自然なことはない。まだ小学生の弟を、久しぶりに二人で遊ばないか、と言って誘った。弟は何も疑わずについてきた。



―――――カインは弟アベルに言った、「さあ野原へ行こう」。―――――



 割と人が入る林は、ほとんど獣道と言った程度のものでしかないが、道がある。昔は生活に必要な薪をとる薪炭林でもあった。その道を逸れ、しばらく進むと、竹の生えた一角がある。よく遊び道具の材料を調達しに入る場所で、林の外からも、林の中の道からも見えず、声もあまり通らない。


 私は手に、小ぶりな鋸を持っていた。竹を切り倒すのに使うものだ。竹は子供の遊び道具であるだけでなく、大人も使う。祭りに使う櫓の骨組みなど、用途は多く、行事の際には役員であることの多い我が家には鋸が常備されていた。


 弟は手ごろな竹を物色するため、私を追い抜いた。そのまま、私に背を向けてきょろきょろしている。



―――――彼らが野にいたとき、―――――



 弟の背中に手に持った鋸を振り降ろそうとして、ふと、鋸では一撃で致命傷を負わせるのは難しいような気がした。それに、この鋸が凶器として見つかれば足がつきやすい。何せ、家に置いてあった鋸なのだ。持ち出せるのは家族だけだ。かといって、ほかに凶器になりそうなものなど持ってきていない。


 そう考えた私の視界に、人の頭よりふた回りほど大きな石が入った。


 そっと鋸を地面に置き、代わりに石を拾い上げる。少々重いが、十分に持ち上げることができる程度だ。その石を。いまだこちらに背を向けたままの弟の、後頭部めがけて。



―――――カインは弟アベルに立ちかかって、―――――



 振り下ろした。



―――――これを殺した。―――――



 あっけなかった。腕に伝わる、硬いような柔らかいような奇妙な鈍い感触と、湿っているようで硬質な、くぐもった音とともに。悲鳴もあげずに、弟は倒れて、動かなくなった。


 弟を殴り倒した後の姿勢のまま、しばらくの間、倒れた弟を凝視した。こめかみのあたりでどくどくと、心臓が鼓動しているかのような音が聞こえる。頭蓋の中を反響して、うるさい。同時に自分の口から洩れる、荒い呼吸音がどこか遠くに聞こえる。体の表面は汗が噴き出るほど暑いのに、体の芯は凍えそうなほどに冷えていて。心臓の早い鼓動が、胸部に痛みを感じるほどはっきりとわかる。その痛みで、案外興奮していたらしいことをはじめて知った。冷静だと思っていたのだが。


 怖い。いま人を殺した自分ではなく、まだ弟が生きているのではないかという可能性が。奇妙な冷静さが去ると、今度はその感情に支配され、何もかも放り出して逃げ出したくなったが、同時にその感情が私をこの場に縫い付ける。


 わずかでも弟が動けば、再び凶器と化した石を振り下ろす気でいた。そのまま、どれだけの間倒れた弟を見つめていたのか。私にとって、果てしなく長い時間だった。弟がもう二度と動くことはないと判断した私は、ようやく石を地面に置いた。けだるい安堵感があった。


 石にはわずかに弟の血が付着している。ふと、この上に弟の頭を乗せておけば、弟が転んで頭を打ったように見えないだろうかと、思った。


 まだ温かい、命を失ってぐにゃりと脱力した弟の体を仰向けにして、その下に、弟を殺すのに使った石を置く。弟がどんな顔で死んだのか。どういうわけか、その顔を見ることがどうしてもできなくて。地面に置いたままだった鋸を拾い上げ、足早に立ち去った。


 場面が変わり、私はごく普通に生活している。そこに弟は存在しない。理由は―――――言うまでもない。しかし、様子がおかしい。誰も、弟がいなくなっていることを気にしない。感覚的に、あの日からは何カ月もたっているのが分かる。最低でも半年以上。場所が場所だ。弟の遺体はすぐに見つかっただろう。事故だろうが、殺人だろうが、葬儀もすませ、納骨もとうに終えたはずだ。なのに。


 毎朝、顔を洗い、着替えたら仏壇へ挨拶をする。物心ついた時から変わらぬ日課。そこに、弟の位牌は、ない。


 父と母はいつも通りだ。そう、弟がいなくなる前と何ら変わりがない。息子を一人亡くしたという、その影が見られない。確かに、時間はそれなりに経っている。だが、突然の死を克服するのに充分な時間であるとは思えない。あまりにも、いつも通り。父も母も、それから私も。まるで、弟が最初から存在しないかのように。


 私の手には、あの瞬間の感触が残っている。目には、あの瞬間、奇妙にゆっくりと倒れていった、弟の姿が焼きついている。確かに弟はいたはずだ。


 いなければいいと何度も思った。殺してやろうとも、思った。そして、ついに弟を自分の手で葬って、望みどおり弟はいなくなった。なのに、弟がいなくなったことを最も気にしていて、この現状を不可解に思っているのは私一人だけだ。


 弟は最初からいなかったのだろうか。それとも、死んだというのに、誰にも気にしてもらえていないのだろうか。もしや、その存在を疎まれていたのだろうか。誰にもその存在の喪失を嘆かれぬほどに。そして、誰もがそれを態度には表していなかっただけなのか。だとすれば、あまりにも―――――。


 そこまで考えたところで、あわてて思考を中断した。その先を考えてはいけない。私にその資格はない。胃の腑に重くのしかかり、締め上げるこの感情に名前を与えてはいけない。それは、私には感じることを許されないものだ。こみ上げてくるものを押さえ込むかのようにつばを飲み込んだ。


 その瞬間、唐突に以前にもこの夢を何度も見ていたことを思い出した。そして、それと同時に目が覚めた。夢の内容は、細部まではっきりと覚えている。―――――気分は、やはりひどく悪かった。


 そのとき、私は部屋の姿見がただの光の反射とは明らかに異なる淡い光を発していたことに気付かなかった。


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