契機
私が高校生になると、弟と共に使っていた部屋から、その隣の部屋に移った。私も弟も大きくなって手狭になったことはもちろん理由の一つだが、私が少々遠くの学校に通うことになったために朝が早く、弟と生活サイクルがずれるようになったのが最も大きな理由だった。もともと、田舎とはいえ代々続く名士であった家は家族四人―――――父方の祖父母はすでに他界していた―――――で住むには広すぎるぐらいで、部屋も当然余っていた。ただ、自分には理由などどうでもよく、弟と部屋が分かれたことに心底安堵していた。
私が新しく使うことになった部屋は、かつては叔母―――――つまり、父の妹―――――が使っていたらしい。そのせいか、部屋には大きな姿見が一枚あった。装飾は枠に若干の細工がしてあるだけの非常に簡素なもので、男が使っていても全く不自然ではない。通うことになった高校が非常に規則に厳しく、特に身だしなみに関しては細かいため、ありがたく使わせてもらうことにした。
部屋を移ったその日。奇妙な夢を見た。目が覚めるまで、夢だとは気付かなかった。夢というものはえてして荒唐無稽なものであるが、その夢は極めて現実的だった。―――――弟が存在しない、という一点を除いて。
弟が存在していないことになっている夢。夢だということは分かっている。周囲の人間は誰一人として弟がいないことを気にしない。父も、母も、叔母も、友人も、誰も。父の関心を買う弟がいない。父の、子に対する愛情はすべて自分だけに向けられている。―――――理想的だった。私にとって。夢を見ながら、ふと、これが現実なら、と思った。
目が覚めたとき。夢はほとんど覚えていなかった。ただ、夢を見たことだけは覚えていて、目を閉じれば、夢で見た景色のつぶれて歪んで混ざり合ったものが、わけのわからない印象とともに、まぶたの裏にこびり付いている気がした。―――――ひどく気分が悪かった。
それから、時折同じ夢を見た。ただ、夢を見たことは自覚していても、何の夢を見たのかは朝目覚めれば忘れてしまう。なのに、夢を見ているときは、以前にも見たことを覚えていて、見るたび、ああ、この夢か、と思う。夢を見た翌朝は決まって気分が悪いが、それ以外にはどうということもない、その程度のものだった。
それが変わった日のことは、不思議なほどよく覚えている。日曜日で、弟は友達と遊びに出て行き、入れ替わるように従姉妹が遊びに来た。
私にとって彼女は自分を繕わずに接することのできるただ一人の相手だったが、彼女にとってもそれは同じらしく、月に最低一度は遊びに来た。ただ、遊びに来るといっても何をするというわけでもなく、ほとんどは縁側に二人で並んで座って、お茶をすすりながら話をするだけだ。到底中高生のやっていることとは思えないが、私たちにとってはいつものことだった。
それに、何を勘違いしていたのか、そうしている間は、父も母も私達にあまり近寄ってこなかったため、都合がよかった。聞かれれば困るようなこともよく話していたからだ。主に、お互いの愚痴などがそれに当たる。もっとも、愚痴を言うのは主に私のほうで、彼女から愚痴を聞くことはあまりなかったが。その証拠に、彼女の人間嫌いの理由を私は知らない。彼女の方に教える気がなかったのだろうとも思っている。
私達の話は他愛のない雑談から始まって、しだいに私の愚痴になり、あらかた吐き出し終わったところで、まれに彼女が愚痴るが、ほとんどはまた雑談に戻る。
雑談といっても内容は到底十代の子供が話すようなものではなく、話題は大体彼女から提供される。ほとんどは、本来ならば私の趣味に合わないのだが、彼女の話し方がうまいのか、なかなか分かりやすいし興味深い。
ただ、話の合間にこちらを嬲るような事を言われるのは不愉快だった。彼女の人間嫌悪の対象には当然私も含まれているのだ。私の方も、決して彼女への苦手意識がなくなったわけではない。むしろ、弟の次に殺してやりたいと思う相手だ。
こちらも彼女に対してごく普通に暴言を吐いた。見た目ののどかさに反して、交わされる言葉は実に殺伐としたものだった。私達は似た者同士ではあったが、決して味方などではなかったのだ。ただ、お互い二人でいるときは何も繕う必要がなく、遠慮もいらない、ということが居心地良いからこうしているだけだ。
その日の話題は聖書。さらに言うなら、旧約の創世記のあたりだ。彼女は哲学に興味があるらしく、それにともなって宗教関係の話題はかなり多かったから、特に不自然なことではなかった。宗教と哲学には密接な関係があるらしい。ただ、いきなり宗教の話題から入るのは少々珍しいといえば珍しかった。
一時期は彼女に影響を受けて神話を読んでみたりもした。ただ、私は旧約聖書を読んだことがない。興味が長続きしなかったのが一因だ。それでも古事記、日本書紀にギリシャ神話は何とか読んだ。大抵学校の図書室で本を借りていたのだが、わざわざ置かれていない物を探してまで読むほど熱心にはなれなかった。
大体、読んで感じたことといえば彼女の話術の巧みさへのあきれと感嘆くらいだ。良くこんなわけの分からない話をまったく興味のない人間に面白く聞かせることができるものだ、と思ったのを覚えている。そもそも、宗教に関する話題には関心がなかったのだ。知っている内容は失楽園くらいのものだ。
だから、聖書において、初めての殺人は兄弟間で行われたのだということを、この日初めて知った。
―――――カインは弟アベルに言った、「さあ野原へ行こう」。彼らが野にいたとき、カインは弟アベルに立ちかかって、これを殺した。―――――
(創世記第四章 八)
一節諳んじて見せた彼女は続けて言った。「気をつけた方がいいよ?」何が楽しいのか、満面の笑みで。
夜、私が見たのは、弟を殺す夢だった。




