経緯
かつて、私は弟を嫌っていた。憎んでいたといってもいい。確かに、兄弟だからと言って、無条件に仲がいい、というわけではない。むしろ、誰よりも近くで暮らしているからこそ、複雑な感情を抱くものだと思う。ただ、それでも私の弟に対する感情は、家族に向けるものとしてはあまりにも剣呑過ぎた。
原因は自分自身にあったのだと思う。男の子としては異常なほど父親を慕っていた。もちろん、父のことは今でも慕っているが、当時は常軌を逸していた。
父は一見怖い人だった。実家はいわゆる旧家で、あたりの名士だった。今はそれほどではないが、当時はまだその名残が強く、その当主ともいえる父は非常に厳しく、寡黙な人だと認識されていた。その父の内面が、実は激情家であることを知っているのは家族ぐらいのものだった。その家族である自分さえ、最初のうちは気付かなかった。弟はおそらく未だに気付いていない。それは弟が薄情だというわけではなく、単に気付くきっかけがなく、そして誰も教えなかったというだけのことだ。私もきっかけがなければ気づくことはなかったかもしれない。
そのきっかけは非常に分かりやすくて単純なものだった。弟が生まれた直後で、真冬だったことを覚えている。私は五才だった。母は産後の肥立ちがおもわしくなく、しばらく入院しており、弟もまだ病院で、家には父と私しかいなかった。そんなときに、私は風邪で熱を出した。間の悪いことに、母がいない間、男所帯となった我が家の面倒を見てくれていた叔母は、自分の家庭のほうで何かあったらしく、直には来ることができなかった。当然、私の看病は父がすることになった。
父の看病は非常に不器用なものだった。それが不慣れのせいなのか、性格のせいなのか、それとも両方なのかは分からない。父は寝込んでいる私の傍にずっといた。時々具合と、要望を聞いてくる以外に会話らしい会話はほとんどなかったが、沈黙はやさしいものだった。父が作ってくれたおじやもどきの味は今でも思い出せる。……明らかに味付けを間違えた―――――妙に甘かった―――――上に、焦げていたが。
ただ、結局その翌朝に熱が上がり、四〇度を越したため、急遽入院するはめになった。具合がよくなってから医師に聞いた話では、私を病院に担ぎこんだときの父のうろたえようは相当なものだったらしい。
以来、近寄り難いと思い、どことなく避けていた父をよく見るようになった。そうしていて気付いたのは、父は不器用な人間だということだ。多分に直情径行で情に篤い性質なのに、感情を表に出すことに羞恥を感じるらしく、可能な限り感情を抑え込もうとしていた。その結果が仏頂面だ。しかし、どうしても抑えきれなくなるとそれは主に不機嫌やどなり声という、過分に捻じ曲がった形で表れていた。そして、それが他人に誤解を与えることも、自身で承知していながら、それを自分であると認めて―――――悪く言えば諦めて――――いた。理解してみれば案外わかりやすい人だったのだ。乱暴に要約してみれば、照れ屋、というだけのことだ。母はそんな父を評して「かわいい人」だと言っていた。そんなところが好きなのだとも。私もなんとなく分かるような気がした。もっとも、厳つい顔つきの父を「かわいい」と表現する母の感性は今も理解できないが。
母と比べれば、父と接する時間は短かったが、私は母以上に父が好きになった。特になにをするというわけでなくとも、同じ空間に居たがる様になった。同じ空間に居れば居るほど、父のことが理解できるようになった。理解すれば理解するほど父が好きになった。憧れていたし、尊敬していた。
気付けば、私はかなりの部分で父に影響を受けていた。父と同じように、感情をあまり見せないように努めるようになっていた。ただ、外見が母に似てしまった私は、女顔で線も細かったせいか、長じてからは周囲には穏やかだと評されるようになってしまった。子供だった当時は、どういうわけか、年の割に大人びた子供、という評価を得ていた。
単純に、好きだと言うだけだった父への感情に複雑なものが混じるようになったのは、弟が、私が父を理解し始めたのと同じくらいの年になってきたころ、だったと思う。
弟が生まれたばかりの頃は、単純にうれしかった。暇があれば構っていたし、可愛がっていた。実際にどれだけ役に立っていたのかといえば不明だが、自分なりに弟の世話を焼いて、面倒を見ていた。弟も母の次くらいに私に懐いて、ある程度自分で移動ができるようになると、母か私の後をついて回るようになった。ただ、父にはあまり懐かなかった。
自分の時もそうだったが、父は子供には懐かれにくい。ただでさえ厳つい顔なうえに、常に仏頂面。あまりしゃべらず、たまに口を開けば不機嫌そうな低音か怒鳴り声。懐けという方が無理だろう。父の人となりを知ってしまえば、単に普段はどういう顔をしていいのか分からないだけだし、不機嫌そうな声はただ照れているだけで、怒鳴り声は感情を隠しきれずにそうなってしまうだけのことなのだが。
おまけに、子供の扱い自体がどうにもへたくそで、子守をしようとしては泣かれ、どうしていいか分からずおろおろしていた。見た目には仏頂面のまま、眉間の皺がどんどん深くなっていくだけなので、人によっては泣き声を煩わしく思っているように見えてしまうようだ。そのせいで余計に子どもに怖がられる。おそらく私の時も同じような状態だったのだろう。結局、子守を母や私に代わってもらってから一人落ち込んでいた。……見た目はやはり仏頂面だったが。
弟がだんだん大きくなって、自分の意志をもつようになると、弟の面倒を見るのは楽しいばかりではなくなった。我儘も言うようになるし、反抗もするようになる。悪戯もする。このときまでの私の、弟に関する感情は子供がお気に入りの玩具に向けるそれに良く似ていたように思う。だから、決して自分の思い通りにはならないことに苛立った。それまで弟に向いていた興味が薄れ、他のものに目がいくようになって、自分の位置が、弟が生まれる前と変わっていることにやっと気付いた。
これまで両親から自分に向けられていた感情が、自分だけのものではなくなった。当たり前のことなのだが、私はそれに納得が出来なかった。これまで自分に向けられていた愛情が減ってしまったかのように感じた。弟が、私と比べて手がかかった―――――五歳も年齢差があれば当たり前だが―――――ことも弟への嫉妬に拍車をかけた。自分で云うのもなんだが、私は比較的聞き分けがいいと認識されていたので、ある程度であれば―――――言い方は悪いが―――――放置されても大丈夫だと思われていた。別の言い方をすれば、それだけ信頼されていたということなのだが、それが理解できなかった。両親の関心が弟にだけ向けられているように感じ、家に居ながら、自分はいらないのではないかという思いも湧いた。それまで私が得ていたものを奪った弟を憎らしく感じるようになった。
―――――アベルは羊を飼うものとなり、カインは土を耕すものとなった。日がたって、カインは地の産物を持ってきて、主に供え物とした。アベルもまた、その群れのういごと肥えたものとを持ってきた。主はアベルとその供え物とを顧みられた。しかしカインとその供え物とは顧みられなかったので、カインは大いに憤って、顔を伏せた。―――――
(創世記第四章 二~五)
弟への暗い感情は年を追うごとに育っていった。私にとって許しがたかったのは、両親の、父の関心を私以上に得ていながら―――――実際はどうあれ、当時の私はそう思っていた―――――弟は父のことを全く理解しておらず、それどころか父を恐れていたことだった。不器用だが、あんなにも優しい父を、理解しない、しようともしていない弟が、何の努力もせずに父の関心を買っているのが許せなかった。理解しようともせずに、見かけだけで父の人となりを決めつけて、父を恐れておどおどとしているのが癇に障った。私の方が父を理解しているのに、弟などよりずっとずっと父のことが好きなのに。けれど私以上に父の興味と関心を得る弟が憎くて、妬ましかった。
私は少しでも、弟に向いている父の関心が欲しくて、勉強も、運動も、人並み以上に励んでいた。結果的に小中高と常に主席の座に在り続けた。人付き合いや立ち居振る舞いにも気をつけた。おかげで周囲の評判は良かった。私は品行方正な優等生と評されるようになった。……それでも一番欲しいものは得られなかった。