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規矩準縄  作者: 木の枝
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喪失

「おかえり」


 確かに水の中に落ちた。水音もした。なのに、気付けば私は自分の部屋で、両手、両ひざをついてうずくまっていた。体はどこも濡れていない。呆然としていると、彼女から声をかけられて我に返った。声のした方を見ると、彼女は私の部屋の入口に立っていた。


「おかえり」


 もう一度かけられた言葉に、曖昧に返事を返した。まともな言葉にはならなかった。わけが分からない。それこそ夢でも見ていたかのようだが、彼女の言葉が現実だと認識させた。うまく機能しない頭を振って、少しでも余分な思考を振り払おうとする。


「ついさっき」


 そんな私に頓着せず、彼女は私に話しかける。


「弟さんが遊びに林に入って行ったの」


 彼女は、私と二人きりの時には弟の名を呼ばない。いつのころからか決められた、暗黙のルール。彼女が一人、暗い感情から解放され、仲間ではなくなっても、それはまだ健在らしい。そのことに、奇妙な安堵を覚える自分がいた。しかし、なぜ彼女が、弟が遊びに行ったことなどを私に報告するのか。友達でも遊びに来ただけなのだろうに。


「あなたと一緒に」



―――――カインは弟アベルに言った、「さあ野原へ行こう」。―――――



 何を言われたのか、分からなかった。弟が遊びに行った。誰と? 私、と? そんなはずはない。今私はここにいる。それに、私の記憶に間違いがないのなら、私はほんのつい先ほどまで、店にいた。家にはいなかった。弟と遊びに行けるはずなど無い。


「業を煮やしたのよ。もっとも、それに感情があるかどうかは知らないけど」


 そう言って彼女は私の背後を指差した。その指差す先をたどるように振り向く。そこにあるのは―――――あの姿見。


 妙な光を発しているような気がしたことは何度かある。しかし、はっきりと見たことはなく、気のせいと言ってしまえば、それで済まされかねないようなものだった。しかし、今はっきりと姿見は光を発している。白を基調にして、様々な色が浮かんで消える。


それはごく淡いもので、見ようによっては非常に神秘的とも言えた。いつまでも見ていたいような、人を引き付ける輝き。だがこれは―――――。


「なんで止めなかった!」


 弟と林へ。これから連想することは一つしかない。あの夢が現実になろうとしている。このままなら弟が、殺される。私の形をした、私ではないモノに。彼女には容易くそれが想像できたはずだ。私の夢の内容も、私の夢の原因も、弟を連れて行ったのが私ではないことも知っている彼女なら。そして、止められたはずだ。


 一瞬にして沸騰した怒りに突き動かされるまま、彼女に走り寄って掴みかかろうとした。だが、それは達成されることはなく、私の体は、彼女の体をすり抜けた。


 たたらを踏み、彼女を振り返る。


「どうやって?」


 そう言った彼女の顔は無表情。視線だけが強い。しかし、その強い視線とは裏腹に、彼女の気配はやけに希薄で―――――あろうことか、彼女を通して私の部屋が透けて見えた。


「……!? お前……」


 自分の体をちらりと見降ろして彼女は顔をしかめたが、それは一瞬のことで、すぐに私に向きなおった。


「私のことを気にしてる場合じゃないでしょう。早くしないと追いつけなくなる」


 その通りだ。だが……。


「急げ! 手の届くところにいる弟と、体がここにはない私と! 優先するべきはどちらだ!」


 もはや、その姿はほとんど消えかけていて、向こう側の方がはっきりと見える。声も、耳を介さず、頭の中に直接響いてくる。その音なき声に込められた強烈な叱咤に、半ば叩き出されるようにして私は走り出した。


 あの部屋に現われるまでは外にいたせいか、靴ははいたままだった。土足で家の中を走るはめになったが、今は靴を履き替える暇さえ惜しい。かえって幸いといえた。あとで怒られるだろうが、構うものか。弟が死ぬよりずっとましだ。


 彼女に掴みかかろうとした時にやっと気付いた。弟を自分で殺してしまうのが悪夢なのは当たり前だ。私は弟のことも、家族として当たり前に好きだったのだから。私自身がそれを認めようとしていなかっただけなのだから。


 私は馬鹿だ。それ以外の何物でもない。弟が生まれる前と後とで、家族の中で自分の位置が変わったのが嫌だった? それ以上に、自分の中で一番好きだったはずの父の位置が変わってしまうかもしれないのが嫌だっただけだ。自分の中の一番が別のものに変わるのが、裏切りのようで嫌だったのだ。単なる子供のわがままだ。弟に愛情を向けたからと言って、父を慕う思いが目減りするわけでもないのに。


 弟を何度も殺そうかと思った? 実行する気なんてかけらもなかった。思うだけだった。殺そうと思えることに、自分の弟への憎悪が衰えていないことを確認して、自分の中で父の位置が変わっていないことを確かめていただけだ。


 弟がいなければと思った? 自分で押し込めた感情から目をそらし続けるのに疲れただけだ。単に自分勝手だっただけだ。


 表向きは良い兄を演じていた? 何年も暮らしている家族をだませるほど、自分に演技力があるとでも思っていたのか? 自意識過剰にもほどがある!


 認めてやる。変化が怖くて、長い間目を背け続けてきた感情を認めてやる。私は弟が好きだ。いまだに父の内面に気付かない、鈍感な弟が。父の、「兄を見習え」という言葉に、優等生である私に少しでも近付こうと勉強に、運動に、自分のできることを頑張っている素直な弟が。父の願いどおりにしようとして、かえって心配させてしまう、不器用で要領の悪い弟が大好きだ。だから。


 弟を殺したくなんかない。死んでほしくなんかない。いなくなって欲しいなんて思っていない。それは私の本当の望みじゃない。


 あの名前を与えなかった感情は悲しみだ。弟を殺してしまって、弟がいなくなって悲しかった。もう会えないのが悲しかった。一緒に遊べないのが、勉強できないのが、喧嘩できないのが、名前を呼べないのが、呼んでくれないのが、応えてくれないのが、悲しかった。何より、殺してしまったのが自分だということが悲しかった。


 あの名前を与えなかった感情は哀れみだ。夢の中で、誰にもその死を悼んで貰えない弟が哀れだった。未だ続くはずだった人生を唐突に終わらせられてしまったのが、好きな本を読めなくなってしまったことが、父を誤解したままなのが、何より、一番弟の死を悲しんでいるのが殺したはずの私だということが。哀れでならなかった。


 あの名前を与えなかった感情は怒りだ。弟が死んでしまったのに、平然と、何事もなく暮らしている両親が、何も変わらない世界が腹立たしかった。何より、弟を殺してしまった自分が腹立たしかった。弟を殺そうとしていたその瞬間の自分を心底殺してしまいたかった。


 あの名前を与えなかった感情は後悔だ。弟を殺してしまったことを後悔した。あんな思いを現実にしたくなどない!


 お前は私の理想を見せるんだろう? なら、私の望みを知っているんだろう?それが、弟がいなくなることが、私の望みじゃないことも、わかるんだろう? 


 問いかける相手はあの姿見だ。意味があるのかどうかは分からない。しかし、問いかけずにはいられなかった。―――――応えはない。


 階段を駆け下り、玄関を通らずに縁側から外に飛び降り、勝手口の方へ回る。林に行くにはこちらの方が早い。獣道のような道を走る。向かうべき場所は分かっている。弟を連れて、何度も行った。弟を連れていく私を追いかけて、何度も行った。間に合うこともあった。間に合わないこともあった。今は、間に合わなかったではすませられない。絶対に間に合わなければならない。


 息が切れる。喉の奥から血のにおいが上がってくる。時々、張り出した枝が手足や顔に当たる。運動は得意な方だ。走るのも早い方に入る。だが、日頃運動する習慣があるわけでもなく、むしろ普段は室内にいることの方が多い私は持久力がない。そもそも林の中は走るにはあまり向いていない。昔、この中で遊んでいたときは落葉の積もった柔らかい土に足を取られて転んだり、動きまわるうちに木の枝で手足をいつの間にか傷つけていたりすることなど日常茶飯事だった。おそらく、今の私は傷だらけだろうが、そんなことはどうでもいい。疲労や負傷を気にして間に合わなかったら無意味なのだから。


 もうすぐ、夢の中で何度も弟を殺した場所に着く。見晴らしが悪いが、そこに人がいるのならばもう見えるはず。―――――居た。あれは私だ。夢で何度か見たが、自分の後ろ姿を自分で見るのは妙な気分だ。弟は、私よりも奥にいるせいか、私の位置からではまだ見えない。



―――――彼らが野にいたとき、―――――



 その代わり、私の手に、鋸が握られているのが見えた。私が鋸を地面に置き、人の頭より二回りほど大きい石を拾う。弟の背後へゆっくりと近づいていきながら、腕を頭上に振り上げる。



―――――カインは弟アベルに立ちかかって、―――――



 声を出そうとした。あの場所まではまだ少し距離がある。直接体で止めるのには間に合わない。早くあそこまで行かなければいけないのに、足がもつれてうまく前に進めない。だからせめて、弟に注意を促そうとした。あわよくば、あの私がこちらに気を取られて、僅かでも間ができるかもしれない。なのに、声が出ない。すでに限界に近い咽喉と肺を酷使して、やっと出せたのは風の鳴るような、声ともいえない音だけだった。―――――間に合わない。


 こちらは走っていて、それなりの足音もしているはず。それが聞こえているのか、聞こえていても気付いていないのか、気付いていても気にしていないのか。せめて弟がこちらを振り向いてくれれば。

 しかし、実際に振り向いたのは私のほうで。石を持った両腕は振り上げたまま。こちらを見て、笑った。



―――――これを―――――



 そして―――――腕を、下ろす。石を地面に置き、鋸を拾い上げた。そのまま、走ってくる私を微笑んで待っている。意外な行動に、思わず走る速度が落ちる。私のもとに辿り着く頃には、ほとんど、普段の歩く速さと同じになっていた。


 私が、手に持った鋸の刃の方を持ち、柄を私の方に向けて差し出してくる。―――――これを使って、自分でやれ、という意味なのだろうか。しかし、だとしたら鋸ではなく、夢で実際に凶器に使った石の方を手渡してくるはずだ。


 意図を測りかねて私の顔を見れば、その表情は驚くほど穏やかで。その表情のまま、視線を私から外した。その視線を追えば、その先には弟がいて。もう一度私の顔を見れば、弟を見つめる目に浮かんでいるのは優しさ以外の何物でもなく。私と同じ顔、同じ身長、同じ体型、おそらく同じ体重。見た目は何一つ私と変わらない。だが、私は、こんな表情をしたことがあるだろうか。私にこんな表情ができるだろうか。


 唐突に意図が分かった。簡単なことだ。夢の中で、最初は凶器に使おうとしていたために失念していたが、これはもともと遊びの材料を調達するのに使っていたものだ。なにより、私は弟をここに、久しぶりに二人で遊ばないか、と言って誘ったのだ。再びこちらを見た私から、鋸を受け取った。


 ピキ、というかすかな、しかし林の中という場所で聞こえるには異質な音がした。鋸を受け取るために、手元に落としていた視線を上げる。そこには、微笑んだまま、斜めに走る罅で二つになった私の顔。再び異音。もう一度。またもう一度。


 音がするたびに、私の姿はひび割れていく。だんだん頻度が増え、一度に鳴る音の数が増え、その度に、どこかがひび割れ、少しずつ欠けていく。欠けた破片は、地面にぶつかり、消える。最後に、一際大きな音とともに、私の姿は崩れ、消えていった。


 ―――――こちらを振り返った弟が、私を呼んでいる。


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