序
この作品には殺人の描写があります。たいしたものではないので年齢制限は設けていませんがお気をつけください。
また、一部聖書からの引用があります。
大学に入り独り暮らしを始めてから、親族全員が集まるような行事以外には顔を出すことはおろか連絡をよこすことさえしなかった弟が、何の気まぐれか、わざわざ有給をとってまで嫁や娘とともに帰省する、と知らせてきたのは、昨日の夜だった。電話を受けたのはたまたま帰宅したばかりで電話機の近く―――――いまだ懐かしの黒電話だ。やはり古風なことに、玄関へと続く廊下のなかほどに置かれている―――――にいた、私だった。
弟と話すのは、電話越しとはいえ、随分と久しぶりな気がする。その一方で、ついこの間話したばかりのような気もしていた。奇妙な感覚の原因は、思い出すまでもなく、すぐに思い当った。つい先日見た夢のせいだ。
ここに一家そろって帰省する、ということは、家族仲を何とか修復できたのだろうか、と考えて、苦笑する。確かに、弟は家族のことで悩んでいた。それこそ、妻と娘を捨ててまで、まったく別の人生をやり直したいと思うまでに。しかし、それは私の見た夢の中での話だ。実際に、弟の家庭がどういった状況であるのかなど、私は知らないし、知る術もない。権利も持たない。ただ、もし、弟に相談されるようなことがあれば、聞いてやりたいと思う。もっとも、電話からの声を聞く限り、その必要はなさそうだとも思った。
受話器を置いた後、その姿勢のまま、しばし、物思いにふける。不思議なものだ、と思う。かつて、弟と、こうして隔意なく話すことができるようになるとは、想像ですら思いもしなかった。それどころか、いつか、私は弟を殺してしまうだろうと思っていた。神話の、最初の人類の長子のように。
結局、私は弟を殺すことはなかった。その弟は結婚こそ遅かったが、ごくごく平均的な人生を歩んでいるはずだ。今では、ごく自然に弟を案じることもできる。弟は父を苦手としている。それは父の無骨な外見と、不器用な性格を、弟が誤解しているせいだろう。
父は一見取っ付きにくく見える。弟は、まだ自分に向けられる無骨な愛情に気付かないのだろうか。私が嫉妬し、殺意さえ抱いていたあの愛情に。いずれ気付くだろうと思ってはいたが、この年―――――弟ももう五十代―――――になっても気付かないとは思わなかった。少々鈍感であることは知っていたつもりだったが、まだまだ理解が足りなかったと見える。私が間に立って、もっと話をさせるべきだったか。父と弟のことだけではない、私自身ももう少し話をするべきだったかもしれない。
ふと、先日の夢を思い出す。あの夢では、結局父と弟は分かりあえないままだった。夢の中とはいえ、弟にひどい後悔をさせたと思う。あれも、私が父と弟の仲を取り持っていれば、また違う結末になっただろう。この現実は、あの夢とは違う。手遅れに―――――すでに遅いのかもしれないが、少なくとも、取り返しがつかなくなる前に―――――二人の手助けをしよう。
懐から、古臭い袱紗袋を取り出す。巻きつけてある紐をほどき、左手の上でひっくり返すと、中から出てくるのは、やや黄ばんだ布の塊。それを解くと割れた鏡の破片が数枚、触れ合ってカチャリ、と音を立てる。高校時代から持っている、私の“お守り”。だが、こうして眺めるのは果たして何年、いや、何十年振りだろうか。
表面に、単純な光の反射とは違う、淡い光が浮かんだような気がした。自然と目元が緩む。元通り懐にしまいなおして家の奥へと向かう。
まずは、父に弟の帰省を知らせなければ。あの不器用な、でも家族の情に篤い父は、親族の集まる行事以外での帰省に、仏頂面ながらも喜ぶのだろう。
今回、基本的に舞台は昭和です。当時の詳しい描写は大してないですが、時代考証が甘いために少々不自然な箇所などあるかもしれません。大目に見てくださると助かります。
この作品は「壷中天」「胡蝶の夢」と同一の設定ですが、「未来への懐古」とも多少リンクしています。この作品は「未来への懐古」に出てきていた主人公のお兄さんの昔の話です。そちらを読んでいない方は興味があれば読んでみていただけるとうれしいです。もちろん、これ単体でも問題なく読めます。
今後の参考のため、気づかれたこと等ありましたらご指摘頂けると助かります。