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1,不思議なBar

【パワーカップル】

 ――夫婦共に年収が七百万円以上。あるいは、世帯年収が一千万円を超える夫婦。2024年現在では、パワーカップルは約四十万世帯(全体の0.69%)に上り、その数は今も上昇傾向にある。


 


帰りたくない、帰りたくない、家に帰りたくない――。


 藤田隆史は呪文を唱えるようにブツブツと呟きながら、街頭に照らされた暗い帰路を、牛歩のように緩慢な動きで進んでいた。綺麗に舗装された道路に真新しいガードレールが遥か彼方まで伸びていて、その先にあるのは三十五年ローンで購入した中古のマンションだ。彼はつと立ち止まり、ポールスミスの腕時計に目をやった。まだ妻は起きている時間帯で、下手をすれば二人の子供も寝ていない可能性がある。


 しばし逡巡していると、スーツの内ポケットでスマートフォンが震えて思わず体が硬直した。まさか、帰宅を躊躇う自分が監視されていたのかと辺りを見渡したが、似たような住宅が立ち並ぶ景色の中に人影はなく、ゲームのラスボスが待ち受けるダンジョンのように闇のとばりが降りていた。隆史は溜息を薄く漏らしてから慎重にラインをチェックすると案の定、妻からのメッセージだった。


『牛乳 食パン カール』


 既読にならないように初めの文章だけ確認したが、おそらく続きはないのでトークルームは開かずにスマートフォンを尻のポケットに押し込んだ。胸の近くにあると心臓が止まってしまうかも知れない。彼はガードレールにもたれて一息付くと、その先にある我が家に背を向け、ナニカを求めてシトシトと歩き出した。


 フラフラとアテもなく歩いていると、短いトンネルに差し掛かり隆史は歩を止めた。五メートルにも満たない空洞は向こう側が見渡せたが、通り抜けることに彼は戸惑いを隠せなかった。すると、尻のポケットでスマートフォンが再び震える。


『シカトすんな』


 妻の冷めた声色を想起するメッセージが、隆史の心拍数を僅かにあげる。


「カールなんて東京に売ってねえよ……」

 と、彼は精一杯の反論を画面にぶつけた。


 そして妻からのメッセージを無視すると、ゆらりと導かれるようにトンネルの中に足を踏み入れた。半円形の断面はコンクリートで構成されていて、オレンジ色のライトが内部を異次元に染めている。


 ちょうど真ん中辺りで彼は立ち止まった。あるいは、立ち止まざるを得なかった。進行方向の左側、トンネルの側面には木製の重厚な扉が付いていて、高級感が溢れる絢爛な入口には、かなり異質な電飾看板がぶら下がっている。右から左に緑色の文字が流れていき、彼はその文章を目で追った。


「オヒトリサマカンゲイ アメー・バー」


 隆史が囁くように読み上げると、その扉はゆっくりと開かれた。


「いらっしゃいませ」


 トンネルの壁、その扉から背の高い男が出てきた。隆史は混乱しながらも状況整理には余念がない。彼は常に物事を冷静かつ、論理的に思考するクセが備わっていて、それは、普遍的な観点から見れば凡庸、つまらない人間と友人に揶揄されることもあったが、彼はその能力こそが自らの強みだと信じて疑わなかった。


 彼は男を観察した。男はバーテンダーの様に黒いベストと白いシャツをきっちりと着こなしている。ネクタイはダークカラーで、腰には黒いレザーのエプロンが巻かれていた。足元は光沢のある黒い革靴でまとめ、全体的に洗練された雰囲気を醸し出している。


 次に俯瞰で全体像を観察する。トンネルの壁、木製の扉、僅かに開いた空間から控えめなジャズと冷気が漏れ出している、つまり――。


「ここは何かのお店ですか?」

と、隆史は言った。


「はい、お酒と会話を楽しむバーになっています。さあ、どうぞコチラへ」

 と、バーテンの男は店内を促してくる。


 隆史はちょうど酒が飲みたかった。家に帰ったらゆっくりと晩酌をする時間など皆無である。家事や育児の不出来を詰められ、反省を強要されたあげく謝罪を要求してくる。不貞腐れた態度を察すれば小言はエスカレートしていき、やがてはハゲやチビだの、身体的罵声を浴びせられ、彼女がスッキリした所でご就寝である。


「カウンターで宜しいですか?」


 バーテンの男は言った。小さな店で、七席のカウンターにテーブルが二つ、店内に客はいなかったが、カウンター内にはバーテンの男とそっくり同じ格好をした女が、微笑みを浮かべながらウイスキーボトルを拭いていた。


「はい」


 隆史は短く答えて、一番奥の席に腰掛ける。バーテンの男がよく冷えたオシボリをスッとカウンターに滑らせた。彼はそれで顔を拭いてから生ビールを注文した。男が「ドラフト」、とカウンターにいる女に告げると、彼女はボトルを棚に戻してピルスナーグラスを手に取り、金色に輝くサーバーからビールを注いだ。一回、二回、三回。丁寧に泡を積み上げていく。


「お待たせしました」


 バーテンの女が正面から生ビールを差し出した。それを隆史は一気に半分以上も煽る。上唇に付いた泡を拭いてから「美味い!」、と自然に呟いた。

「恐れ入ります」と、女が言った。


「彼女はドラフトマスターなんですよ」

 と、男が言う。いつの間にカウンター内で二人は並んでいた。


「そういった資格があるんですね?」

「はい」と、二人は声を揃えた。


 隆史は正面に立つ男女の顔をマジマジと見つめた。男は背が高いが平凡な顔をしていて、特徴がなく似顔絵にするのは困難そうである。一方で女のバーテンは、背が低いがとても整った顔立ちをしていた。薄暗い店内で怪しげな微笑を浮かべ、その唇は艶があり、光輝いている。


「あの、珍しいですよね? トンネルの中にバーがあるなんて」と、隆史は言った。


「ええ、皆さんそうおっしゃいます」と、女が答える。


「昔からありましたか? 僕も随分と長くこの街に住んでいますが、初めて知りましたよ。すごく雰囲気もいいし、ビールも美味い」


「ありがとうございます。この店は数年前にオープンしました、ご指摘のとおり、非常に分かりづらい場所ですので、なかなか認知されませんが、お客様のように家に帰れない、あるいは帰りたくない方のオアシスになっています」と、男が言った。


「え?」

 隆史は一瞬の戸惑いを見せた。が、何かの聞き間違い、もしくは空耳だったと思い至る。


「すみません、ビールをもう一杯ください」


 彼はピルスナーをカウンターの奥に滑らせた。それを男が受け取り、女が新しいグラスを棚から取り出す。その流れるような連携に思わず隆史は質問した。


「ご夫婦ですか?」

「えっ? あ、ああ、そう、そうなんです」


 と、男が答える。女はサーバーにピルスナーを傾けながら、口角を僅かに上げて目尻を下げた。そして慎重に泡の積み重なるビールを手に取り、隆史の正面に立つ。が、しかし。


「こんな綺麗な奥さんで羨ましい」


 と、発言した次の瞬間、女の瞳が冷たく揺れた。彼女は手に持っていたグラスを力強く握りしめると、その中身を勢いよく隆史の顔面にぶちまけた――。


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