34話 ぽこと氷窟②
学者と岩鳴り山に登ったのは、つい数日前。
素人でも登れたのは、あれがギリギリ最後だったのだろう。
同じルートで岩鳴り山を登るが、雪をかいて進むのに時間がかかる。
装備はしっかり整えてきている。雪に脚が埋もれないようにするための輪を防水ブーツにつけ、両手には杖、防寒具もぬかりはない。
一つずつは大した重さではないが、こう集まればそれなりの重さになり、着こんでいる上に雪中歩くというのは、体力を消耗させる。
「さて、再出発だ」
こまめに休憩を挟むことを、最初は文句を言っていた若手たちだったが、もう文句も出ない。
再出発することに文句が出ないあたりが、野心家の彼ららしい。
最後尾を務めるぽこの顔色をチェックするが、問題ないようで安心する。
屈強な男でも口数が減る状況だが、ついこの間まで山で暮らしていたから、ある程度慣れているのかもしれない。
「さて、ここからが大屋根山だ」
雪ヶ岳連峰は、その名の通り、いくつかの山が連なってできている。
「えー! 今までのは?」
「大屋根山の隣の岩鳴り山だな」
大屋根山は迷宮のある山なのだから、それなりに山深い。素人がほいほい入れる場所ではない。
ちょうどいいタイミングでぽこが隣に来たから、二枚貝の入れ物を手渡した。
「必要なときに使うといい」
ぽこが不思議そうに俺を見上げたが、こっちは次の準備に忙しい。
ここからが山登りの正念場だ。
背中のリュックにつけていた小さな瓢箪を取り出し、中からローズマリーの小さな枝を取り出した。
ローズマリーの枝をを使って、道に白ワインの雫を飛ばす。
最初は真ん中、次に左、最後に右だ。
最後に自分に向かって同じようにした。
「それ何してるんっスか?」
「いや何、古い因習でね。俺の爺さんが山に入るときにしてたのさ。山を汚さぬように、己の身を清めるのさ」
追いついた若手四人とぽこが、ローズマリーの入った瓢箪をしげしげと見る。
「狩りに行くのに?」
「だからこそ、だ」
山の生き物たちも、互いに食うと食われるの関係にある。だから、人間が狩りをするのも自然の一部と言える。
だから、俺は必要以上に殺さないことを心掛けている。
仕事で請け負う討伐だけは、せざるを得ないが、加減が難しい。
「なるほど、俺にもしてくれ」
「ずっりぃ、俺も!」
てっきり俺の仲間や他の新人たちのように、気に留めないとか馬鹿にするのだと思っていたのに、こいつらははしゃぎながらも、真剣な面持ちで横一列に並ぶ。
盾役、暗殺者、魔術師、治癒士、ぽこの順でお清めをしてから、大屋根山に踏み込んだ。
左側が岩肌、右に崖という状況で後ろを振り返る。
「いいか? ここを登っていくわけだが――。まぁ、見てろ」
人幅よりやや右側の地面を、杖で突くと、深く刺さった後がひび割れし、周りの雪を道づれにして崖へ落ちて行った。
「とまぁ、こんな感じで、どこまで足場があるのか見た目だけじゃわからん状態だ。注意しろよ」
「ベテランさんが踏んだ跡を踏むぜ」
治癒士の言葉に、全員が頷く。
疲れている上に、神経を使いながら登っていく。
集中力を欠いて判断を誤れば、一気に崖下行き。
「ぽこちゃんは、どんな男が好み?」
魔術師が突然話始めた内容が、本当にろくでもない。
途切れかけた集中力が、馬鹿過ぎる話で休まる。
「は⁉ へっ⁉」
言われた方も驚いて、返事ができない。
くすりと誰かが笑った。
「俺なんかどうよ?」
確か魔術師の男は、四人の中で一番背が高かったはずだ。他の印象はぼんやりとしか思い出せない。仲間内は名前で呼び合っているが、そもそも俺は名前すら覚える気がない。
どうでもいい話題と判断して、目の前の道に集中する。
「抜け駆けはズルいぞ。お前より俺の方がいいはずだ」
治癒士が会話に加わり、その後は、荒い呼吸の合間を縫うように言葉が交わされていく。
ぽこは、冗談だと判断したのか、最初以外は特に返事しない。
「ベテランさんよぅ」
「なんだ?」
盾役に喋りかけられて、集中している世界からこちらへ意識が戻る。
「よくこんな道に、自分の女を連れて来る気になるねぇ」
呆れたような声に、冗談ではないのだろうと察した。
否定する労力が惜しくて、諦める。
「安全ではないが、死ぬことはないだろうからな」
タカをくくれるのは、ぽこがたぬきだからだ。
大きく開いた横穴に身体を滑り込ませて、中を伺い、顔だけ出す。
「まぁ、それもお前たち次第だがね」
いよいよ迷宮の入り口に着いたとわかり、五人がなだれ込むように後に続いて入ってきた。
持ってきたカンテラに火を灯すと、奥に乳白色の岩肌が見えた。
「ここが大屋根山の氷窟⁉」
声が洞窟内に響いていき、治癒士が口を押えた。
五人の頬に赤味が差し、目が輝く。
くだらない冗談を言っている時とは違って、活き活きしている。
「こりゃ、奥にだいぶ広いぜ」
「そりゃそうだ。なんつったって迷宮だぞ⁉」
くつくつと声を押さえて笑うのが収まってから、声をかける。
「いいか、ここは岩場だが、奥に一段下がった場所がある。そこからは氷になってる」
今度は声を出さずに頷いた。
「氷のとこからが、彼らの縄張りになる。入るな。そして、不要に傷つけるな」
「そりゃ無理っしょ」
「ノーム討伐に来てるンだし?」
暗殺者と魔術師の返事に、腕を組んで見下ろす。
「守れないなら、ノームを釣る方法は教えない」
「何言ってやがる。ここまで来たンだから、釣るってのがわからなくても、やったるぜ」
腰元のナイフへ手を伸ばすと、四人の視線が追いかけてきた。
「まぁまぁ。氷んとこに入らなくても十分狩れるんだろ⁉」
「そういうことだ」
「守りますって!」
口々に誓うのを聞いて、懐から二枚貝の貝殻を出す。
先刻、ぽこにやったやつと同じもんだ。貝殻の中には、獣脂が詰めてある。
獣脂は、人肌で温まり、いい具合にとろけている。
それを、地面が氷と岩の境になっているところへ置き、カンテラの灯りを消す。
「静かにしてろよ。奴らを十分引いてから怒らせてやりゃいい」