29話 ぽこの狸寝入り②
「おっさんなんか、まだノエルってやつが好きなんだろ?」
いじけたような声だが、聞き捨てならない。
「どこでその名を?」
「墓参り、ぽこと俺で後を付けたのさ。それに、これも見つけた」
ジョアンが、階段梯子近くの腰壁から、小さい瓶を取った。
二階が気になるのか、また見上げる。
手渡された瓶は、埃と油まみれの古い香水瓶だった。
「なるほど、これか」
親指程度の大きさのくせに、一丁前に硝子細工が入ってやがるから、目をひんむく程高かった。
ぽこが突然情緒不安定になったのは、これを見つけたからか?
「売れば、そこそこの金になると思うが、いるか?」
ジョアンに返すと、目が血走った。
「なぜ、お前さんが怒るのかね」
「俺は! 俺は、ぽこを諦めなきゃならないなら、おっさんにぽこを幸せにしてやって欲しい! 他の女に気があるのなら、ぽこを返してくれよ!」
肩を掴まれて揺さぶられる。その腕を握り返して、正面から顔を合わせる。
「それのどこにぽこの意思があるっていうんだ? えぇ?」
ジョアンは首を激しく振った。
俺は、お前さんが聞きたい言葉を言えない。
だが、それじゃ、納得は――、しないだろうな。
息を吸って、止める。
ジョアンの腕を握った掌に不思議と力がこもる。
「誰かのことで、心かき乱される感覚が新鮮でね。若いころより、より強く感じるくらいだ」
握力により血流が止まり、ジョアンの腕の血管が浮き出た。
己の心の奥底にある激しい情動に気づいて、手の力を緩める。
「少なくとも、お前さんが来てから、ぽこはよく泣いてるぞ。あまりいじめてくれるな」
自分の感情に素直なジョアンと顔を合わせられず、背を向けて、用もないのに鍋をまた掻きまわした。
沈黙を埋める薪が爆ぜる音しかしない中、階段梯子が軋む音がした。
ぽこだった。
「いつの間にか、寝ちゃってました」
目が潤んでいるが、頬が赤い。
「あ! ご飯作らないと!」
ジョアンの前を走り抜け、暖炉の鍋の中を見た。
「わぁ! 美味しそうです! これ、旦那様が?」
「ぽこの料理が旨いから、いつも甘えちまってるからな」
大したモンでもないのに、大仰に褒められれば、こっちの顔まで赤くならぁ。
俺とぽこのやり取りを見ているジョアンを、真っ直ぐ見据える。
俺を焚きつけたのは、お前さんだぞ。
心の声だが、ジョアンの切れ長の目が広がった。
「起こしちまって悪かったな」
スープ椀を用意するぽこと鍋の間に身体を割り込ませて、動きを止めさせた
「大丈夫です。今起きたところで……」
「香水瓶のせいで、いらぬ誤解を招いたようだ。申し訳なかった」
最後まで嘘を言わせるつもりはない。
「捨てなくてもへっちゃらです」
やはり、途中で起きていたようだな。
「俺にとって、かつての仲間ってのは、消えない染みみたいなもんだ。そのくせ、意識しないと、その染みがあいつらのことか自分のことなのかすら、判断できねぇ」
ぽこのまん丸な瞳がみるみるうちに潤み、堪えきれなくなった涙が溢れる。
ぽこを泣かしてるのは俺の方なのかね。
「俺の心の中に、誰かいるかって聞いたな? あいつらを、俺は忘れられねぇ」
「――さい。ごめんなさい」
「何故ぽこが謝る?」
親指の腹で、ぽこの目の端を拭いてやる。
今日は、血はつかなかった。
ぽこには笑っていて欲しい。
自然体を受け入れていると言いながら、ぽこに笑顔を求めるなんて、やはり俺も身勝手な男だ。
「旦那様は時間が欲しいって言ってくれました。なのに、私は一人でやきもきして、旦那様の大事な人にこんな気持ちを抱くなんて、申し訳なくって……。私は醜いなぁって」
より一層涙が出てくる。
こんなに我慢させてると分かれば、ジョアンにせっつかれるのも、仕方ないとさえ思える。
「お前さんは生きてるからな」
いつものように頭を撫で、身を屈めて、見上げるぽこの額に額をくっつける。
泣いているぽこの額は、汗ばんでいた。それすら生きている証のように思えて、心を締め付ける。
目の前の黒い目が澄んでいて、吸い込まれそうだ。
「今、俺と一緒にいるのはぽこだろ?」
髪をくしゃくしゃにして、急いで視線を離した。
純粋なモンを汚せるほど、俺は汚れちゃいない。
ぽこから奪ったお椀にスープを注ぐ。
「けっ!」
ジョアンが心底嫌そうに音を立てて椅子に座った。
「やってられるかよ! 飯食ったら、もう里に帰る!」
「本当?」
ぽこの尻尾が生えた。
「なんで喜ぶんだよ! 寂しくなるとか言えよ!」
「せいせいするって感じ!」
ジョアンが笑った。
「里の皆には、お前が男と幸せにやってるって報告するけど、相手が人間だなんて俺は言えないからな。認めて欲しけりゃ、自分で説明しろよな!」
ジョアンにスープ椀を渡すと、三人分揃ってないのに、かき込んだ。
「言っとくけど、俺はまだ諦めてないからな」
肩をすくめてぽこが俺の顔を見た。
スープ椀をぽこに手渡す。
「熱いから気をつけろよ。猫舌だろ」
ぽこの頭から、耳が生えた。





