22話 旦那様と香水②
ジョアンのことがきっかけで、嫌われたのかもしれず、旦那様の心にはノエルさんがいる。
出会ってから順調に関係を育んでこれたのに、今は危機的状況だ。
気まずいまま、食事が終わり、旦那様はすぐに二階のベッドへ行ってしまった。
追い出されることを覚悟して、話しかければ、旦那様はちゃんと話をしてくれた。
「熾火みたいなもんで、一度冷えちまった薪を焚きつけるには、時間が必要なのさ」
心の中にノエルさんがいるのかどうか返事してもらえなかったけれど、私にも希望があるってことだろうか。
私の首元に額をつけて、旦那様は煙を吐くように息を吐いた。
誰かを愛することは、今の旦那様には苦しいことなのかしら。
硬い黒髪を撫でながら、今、旦那様を慰められるのは私だと理解する。
不満と不安は残ったままだったけれど、旦那様の匂いに包まれれば安心できる。
❄
旦那様は、翌朝早くから納屋の奥の木箱を開けて、何かを探し始めた。
「あったあった。ちょっとそこに立ってみな」
待ちきれずに、何度も見学に行ったのを掴まり、言われた通りに真っ直ぐ立つ。
旦那様は、大きな身体を屈めて、私に肘当てと膝当てを合わせた。
「大きいな。調整するか」
大きさが分かるように印をつけて、長すぎるベルトを切ってしまった。
「これは?」
「クエスト受注率を上げるために、もう少し装備を整えれば『らしく』見えるかと思ってな」
興奮のために、耳と尻尾が出てしまう。
一緒に連れて行ってくれるんだ!
旦那様は、前にもそう言ってくれたが、改めて行動で表して貰えると、嬉しい。
「俺の使い古しで申し訳ないが、新しく買うのは嫌なんだろう?」
「旦那様の? 嬉しい!」
飛び上がって抱き着くと、耳に触らないように頭を撫でてくれた。
「ありがとうございます!」
照れ臭そうに頬を掻く様子も可愛い。
大の大人に申し訳ないけれど、愛おしさは可愛いに結びついてしまう。
「ちと出かけて、クエスト屋に寄ってから帰るよ」
「ついて行きます!」
旦那様は、心苦しそうに顎鬚を撫でた。
「あ……。お留守番しときます。ほら、家の隙間に苔を詰めるとか、色々、冬支度が残ってますし」
仕事だって連れて行ってくれるつもりで、肘当てと膝当てをくれたのに、言葉を濁すというのは、ノエルさんのことなのだろう。
昨夜の今日で、またなのかという怒りと、何か理由があるはずだという冷静な気持ちが、心の中で渦巻く。
きっと、今の私はみっともない顔をしてるだろうと思うと、最後に情けなさが残った。
作り笑顔で旦那様を見送った後、大急ぎで暖炉の薪を減らしてから、家を飛び出す。
何かにぶつかって尻もちをつきそうになり、抱きとめられる。
「っぶねーな! 何急いでんだよ?」
家に来たジョアンにタイミング悪くぶつかったらしい。
「ちょっとそこまで」
苦しい言い訳をして、たぬき姿に戻り、旦那様を追いかける。
「どこ行くつもりなんだよ?」
ジョアンもたぬき姿に戻って、追いかけてきた。
人に見つからないように、茂みの影に隠れながら、歩くのが早い旦那様を追いかけるのは大変だ。
旦那様は、中央広場の水飲み場でバケツいっぱいに水を汲んだ後、街を北の洞窟の方角へ抜けた。
街の外れには、共同墓地がある。
旦那様は、墓地に入り、脇目もふらずに一つの墓の前に立った。
持ってきたブラシで墓石を擦り、バケツの水と布で磨き上げた。
ジョアンが私の顔を鼻で突く。
「コソコソしなきゃいけない関係が自然体?」
鼻で突き返して、邪魔するなと威嚇する。
旦那様が、どんな顔をしているのか知りたい。
この位置からは、背中しか見えない。
茂みから抜け出して、墓石の影に隠れながら、回り込む。
やっと横顔が見える位置まで来て、激しい後悔に苛まれた。
旦那様は、一言も発さず、ただ無表情だった。
私にこの顔を見せたくなかったのか。
だから、ついて来ちゃ駄目だったのに、私は旦那様の思いやりをきかなかった。
掃除が終わると、墓石を見ただけで帰ってしまった。
共同墓地から旦那様が姿を消した後、さっき旦那様が掃除した墓石まで行ってみる。
見てしまったのなら、中途半端はよくない。
毒食わば、皿まで。
墓石に刻まれた名前は、ジェームズ、グレッグ、それにノエルだった。
亡くなってたんだ……。
衝撃で無言になった私に、ジョアンが話しかけてくる。
「俺、あれから街でおっさんのことを聞いてまわったんだけどさ」
私の反応を伺うように、横から顔を見る。
「おっさんの元パーティーメンバーの名前だぞ。これ」
十年前だと言っていたのと、墓石に刻まれた年は一致する。
旦那様は、仲間が亡くなったのは、自分の無茶のせいだと言っていた。
だからだ。
旦那様は、自分のせいでノエルさんが死んだと思ってるから、だから、あぁなんだ。
仲間と作った小屋で、一人で暮らす。
納屋にある充実した防具類に反して、居間も二階も必要な物以外何もない。
誰の名前も呼ばずに、新人に無茶をさせすぎないように引率する。
本当はベテランさんと呼ばれたくないとも言っていた。
まだ、傷は癒えていない。だから、時間がかかる。
「っはー。やめとけ! やめとけ!」
墓地に、不釣り合いな活気に満ちた声が響いた。
「おっさんには、ノエルがいるってことだろ?」
ジョアンが、私の頬を拭おうと手を伸ばしてきて、急いで自分で拭う。
「死んだやつに、かないっこないぞ」
亡くなった人との思い出は美化されて永遠に残る。
「泥沼だよ。俺は、お前に笑顔でいて欲しい」
「なら、私の邪魔をしないで」
「俺がいつ邪魔したって言うのさ?」
人間の姿に戻って、旦那様が次に向かっただろうクエスト屋を目指し、共同墓地を後にする。
ジョアンは、不満そうだ。
「ジョアンが私をかまうせいで、誤解を受けるのが嫌なのよ」
「男なら、自分の身に降りかかる火の粉は払うのが当たり前だろ。俺のことを誤解して、おっさんが身を引くのなら、それまでってことさ」
そのどこに私の気持ちが入ってるの?
旦那様に嫌われるのと、私がジョアンの気持ちに応えるのとは問題が別だ。
「俺は、俺のぽこにちょっかいかけるおっさんを排除したい」
「ジョアンは、相手が雌なら誰でも口説くよね」
街の中に入り、生活音が聞こえ始める。
ジョアンは、自分のことに話題が変わって、得意気になった。
「遊びだしね」
「本当、女の敵」
ジョアンが目を大げさに両手で多い、ショックだわーと言った後、ちらっと私を見る。
「本気なのは、ぽこだけだ。ぽこに振り向いてもらえるような男になりたかった。女にもてたいのもそれ」
「それ、他の雌にも言ってそう。だいたい、今までこんなこと言わなかったでしょ。信じられないよ」
ジョアンを振り切りたくて駆け足になるけど、全くできそうにない。
「自信が欲しかったんだ。まさか、家を出るなんて思わなかった」
「ジョアンの目的は、パパの名前でしょ」
パパは、里の長だ。たぬきに慕われ、人望ならぬたぬき望がある。
若者を集めてリーダーを気取るジョアンは、パパの真似をしているのだと私は思っている。
私が好きなのではなくて、パパの息子になりたいだけ。
「なぁ、どうしたらわかってもらえる?」
ジョアンが私の腕を引っ張って、家と家の間に連れ込んだ。家の壁とジョアンの腕に阻まれて逃げ出せない。
片手で私の顎を掴み、ジョアンが私のに顔を近づける。
旦那様!
目を閉じる。
「ぽこからおっさんの匂いがする」
「えっ?」
目を開けると、しかめっ面のジョアンが遠ざかるところだった。
一晩中、旦那様の脇にくっついて寝たせいだ!!
昨夜のことを思い出して、耳まで熱くなる。
身を屈めて、油断したジョアンの腕の下を抜ける。
無事に通りに出て、後ろを振り返る。
暗闇で、ジョアンが吐きそうな顔で睨んできた。
「俺の匂いになってもらうからな」
凄みに背筋が冷え、クエスト屋を目指して走った。





